日本基督教団御殿場教会  United Church of Christ in Japan Gotenba church

7つのパン

説教

タイトル:「7つのパン
聖書  : マタイ福音書15:29-39
年月日 : 2011-5-1

 前の所で異邦人の女の信仰が語られていました。イエス様はそこからガリラヤ湖
に行っています。マルコ福音書で、同じ異邦人の女の信仰を記している箇所の続き、
7章31節には、イエス様はデカポリス地方を通ってガリラヤ湖に来た、と書かれて
います。デカポリスには、多くの異邦人が住んでいました。そしてガリラヤ湖の東
から南が、デカポリス地方です。マタイ福音書では判断できませんが、イエス様が
行ったガリラヤ湖のほとりとは、デカポリス地方のことだったのかもしれません。
イエス様は山に登り、座っておられました。そこにドヤドヤと大勢の群集が押し
かけて来て、多くの病人をイエス様の足元に置きました。イエス様が病人を癒して
くださることを、どこかで聞いたのでしょう。
30節は「横たえた」と書いてありますが、元々の言葉の意味は「投げ捨てる」です。
あえてこの言葉を使っているところから、病人を助けたくて連れて来たと言うより、
要らないゴミを山に捨てるように、厄介者の病人をイエス様の所に捨てに来たとも
受け取れます。
イエス様の前に、大勢の病人が見捨てられたように横たわっています。行き場の
ない1人1人を、イエス様は癒しました。目が見えなかった人は見えるようになり、
口がきけなかった人は話すようになり、動けなかった人は自由に歩き出しました。
彼らはどんなに喜んだことでしょう。
これを見た群衆は驚きました。病気が治ることをあきらめ、「ダメ(・・)もと(・・)」で病人を
ここに連れて来たのに、イエス様は病人を見捨てることなく、完全に癒しました。
思いがけない結果に、群集はイスラエルの神を讃美しています。「イスラエルの神」
と、わざわざ言っていることで、群衆の中には異邦人がいたことが予想されます。
32節によると、群集は3日間、イエス様と一緒にいました。癒しだけではなく、
イエス様の教えを聞くために、留まっていたのかも知れません。そんな彼らを見て、
イエス様が「かわいそうだ」と言っています。山の上で3日間、過ごすうちに食べ
物もなくなり、群集を空腹のままで解散させるのは、忍びなかったからです。
同じような場面が、14章にもありました。イエス様が群集を5つのパンと2匹の
魚で満腹させた奇跡です。イエス様は群集を「深く憐れみ」ました。そして14章の
「深く憐れむ」と、イエス様が15章で言った「かわいそうだ」は、同じ言葉です。
「自分のはらわたが引き裂かれるような思いを抱く」と言うことです。
イエス様は人々の空腹だけでなく、人々の苦しみや痛み、孤独や不安を、ご自分
のものとして受けとめます。「誰も分かってくれない」と思っていても、イエス様は
人の思いのすべてを受けとめてくださり、知っていてくださいます。
 群集は空腹でした。何も食べずに解散させたら、途中で疲れ果ててしまいます。
しかし群集を憐れむイエス様の思いとは裏腹に、弟子達は「この人里離れた所で、
これほど大勢の人に充分食べさせるほどのパンが、どこから手に入るでしょうか」
とイエス様に言っています。
38節に、男だけで4000人と書いてありますから、女と子供を入れたら10000人
近くの人がいました。でも弟子達は、わずかな食べ物でイエス様が大勢の人を満腹
させた奇跡を、見ていたはずです。それなのに、「こんな大勢の人たちの面倒など、
とてもじゃないけど、みられないよ」というのが、弟子達の本音でした。
 イエス様は「パンはいくつあるか」と弟子達に尋ねています。あったのは7つの
パンと少しの小魚です。14章の時は5つのパンでしたから、2つ多くなっています。
とは言え、10000人近い人たちの空腹を満たすには、とても足りません。
 するとイエス様は群集を地面に座らせました。14章の奇跡では草の上でしたが、
今回は草も生えていない地面の上に群衆を座らせます。ここが無味乾燥な場所だと
いうことが伝わってきます。でも興味深いのは、日本語では同じ「座る」ですが、
群集が「座る」35節には、イエス様が「座る」29節と、別の言葉が使われていること
です。35節の「座る」には、ただ座るということではなくて、「食卓に着く」と言う
意味があります。
 群衆が座るのは、無味乾燥で何もない地面の上です。しかしイエス様は、貧しい
場所を「食卓」に変えることが出来ます。そして実際、群集を「食卓」に着かせて
くださいます。 
イエス様は群集を食卓に着かせて、食事をさせるために、地面に座らせました。
そして7つのパンと少しの小魚を手にとると、神様に感謝の祈りをささげています。
 群集の数からすると、7つのパンと小魚は、あまりに少なすぎる。何の足しにも
ならない。無意味に思えます。厳しい現実を前に、祈りはムダな努力に思えます。
でもイエス様は7つのパンと小魚を手に取り、神様に感謝して祈ります。わずかで、
足りない、貧弱に思えるものでも、イエス様は今、与えられているものを、まず
神様に感謝して祈ります。 気休めや習慣で祈るのではなく、またあきらめ半分の
「ダメもと」で祈るのでもなく、神様の養いに心から信頼し、感謝して祈ります。 
このイエス様の祈りは、私達にも大きな示唆を与えます。日頃、私達は「お金が
無い。人がいない。時間が無い。力が無い」と足りないものばかりに目が行きます。
でも私達は神様から、実にたくさんの恵みを受けています。その恵みを喜ばないで、
不満だけを並べて生活していたら、もったいない。神様の養いに信頼して、喜び、
感謝して生活しなかったら、今せっかく神様に生かされているのに、もったいない。
神様が群集の空腹を満たしてくださることを信じて、イエス様は感謝して祈り、
パンを裂いてから、弟子達に渡しました。それは群集すべてに配られて、10000人
近い人が皆、食べて満腹しました。14章と同じように、今回もイエス様を通して、
神様の偉大な力が働いたのです。イエス様を通して、神様の力が働き、無味乾燥な
地面は「豊かな食卓」に変えられました。そして食卓に座った群集は、裂かれた7つ
のパンを食べて、皆、満腹しました。
 食事の後、残ったパンくずを集めたら、7つのカゴにいっぱいになっていました。
最初は7つのパンでした。でもイエス様が感謝して神様に祈り、裂いて分け与えて
くださることで、食べ残したパンくずが、7つのカゴにあふれました。14章では、
パンくずを入れたカゴは12でした。12は、イスラエル12部族を象徴しています。
イエス様の救いが、イスラエル12部族にあふれることを表わしています。
 でも7は聖書では特別な数字です。神様が6日で世界を造り、7日目が安息日で、
1週間が7日になったように、7は「完成、完全」を表わす数字です。イエス様が
「7つのパン・完全なパン」を裂くことで、イエス様の救いがイスラエル12部族だけ
ではなく、全世界にあふれだし、全世界を完全に救うことを表わしています。
 「7つのパン・完全なパン」とは、イエス様です。人の目には、ただの男です。大工
の息子で、財産も学歴もありません。でもイエス様には、神様の偉大な力が働いて
います。そしてイエス様は「7つのパン・完全なパン」であるご自分の体を、十字架
の上で裂きました。十字架の死です。けれども神様は、イエス様を永遠の命と共に、
復活させました。
 この後、聖餐式があります。聖餐式で私達に手渡されるのは、十字架で裂かれ、
永遠の命と共に復活したイエス様です。 「7つのパン、私達の命を救うための
完全なパン」であるイエス様です。イエス様は、イスラエルだけでなく、すべての
人に分け与えられるために、用意されています。
 3月11日の大震災以来、私達は先行きの不安や足元の頼りなさを実感しています。
でもイエス様は、いつも私達を憐れみ、私達より先に私達の思いを知り、私達より
先に私達に必要なものを知っていてくださいます。そして私達にとって一番必要な
ものを与えてくださいます。
だからイエス様は、群集を地面に座らせたように、私達も座らせてくださいます。
この礼拝の席です。ここは、死から復活したイエス様が支える新しい大地です。
ここは、永遠の命をもつイエス様が共にいてくださる新しい大地です。
私達はここで、イエス様の養いの中に座ります。どんなレストランもかなわない
豊かな食卓に座ります。そして私達はイエス様を食べます。イエス様の憐みと平安、
イエス様の愛とへりくだり、イエス様の赦しと祈り、イエス様の復活の命、イエス
様のすべてを食べます。私達の不安を取り除き、疲れを癒し、力を与えて、私達の
命を本当に満腹させるのは、保険でも年金でもない。死より強いイエス様です。
 でも弟子達がイエス様の力を忘れたように、私達もイエス様を忘れてしまいます。
だから私達は、くりかえし礼拝の席に集められて、イエス様の言葉を聴きながら、
イエス様を食べる食卓に座るよう、招かれています。礼拝の席で、イエス様を食べ、
イエス様とますます1つにされていくことで、どんな逆境からでも立ち上がる力を
イエス様は私達の全身に満たしてくださいます。それから私達を、それぞれの持ち場に向けて、送り出してくださるのです。
 

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