日本基督教団御殿場教会  United Church of Christ in Japan Gotenba church

預言者モーセ

タイトル :「預言者モーセ」   
聖書   : 申命記33:29-34:12  
年月日  : 2015-4-19
特記事項 :

 33章はモーセが生涯を終えるにあたり、イスラエルの各部族を祝福の言葉であり、モーセの遺言とも言えます。各部族を祝福した後、29節でイスラエルほど神様から愛され、救われ、助けられた民はいないと、神様がイスラエルに注いでくださったすべての恵みと幸いに感謝と讃美をささげて、祝福の言葉をしめくくっています。
 モーセが神様の御用に召されたのは80歳の時でした。今モーセは120歳ですがその間、29節で言う通り、イスラエルに対する神様の寛大な慈しみと偉大な導きの力のすべてを、モーセはずっと体験してきました。
 エジプトで数百年も奴隷の民だったイスラエルを、エジプトから脱出させるため、若いとは言えない羊飼いだった80歳のモーセが、指導者として選ばれたこと。またモーセを通して、エジプトに起きた10の災い。海の水を真っ二つに割り、追撃するエジプト軍から逃れて、エジプトを脱出できたことなど。これらはモーセの血からではなく、すべてがイスラエルを救うための、神様の偉大な御業だったことを、証しています。さらにイスラエルの祖先、アブラハムに約束したカナンの地に導き入れるため、神様は荒野の40年の旅でも、天からマナを降らせ、岩から水をふきださせ、うずらの群れを与えて、イスラエルを養い続けました。何よりも神様の意志を表す十戒を与え、モーセを通して神様の言葉を語り聞かせて、イスラエルを神様の民として霊肉共に、神様は養い、導いてくださいました。そして今、長い旅を終えて、イスラエルの約束の地、カナンに入ろうとしています。
 まさしく「イスラエルよ、あなたはいかに幸いなことか。あなたのように、主に救われた民があろうか」と讃美、告白せずにはいられません。
 しかしガンコで自分勝手なイスラエルの民を、散々苦労しながらここまで導いてきたモーセは、カナンに入ることはできません。34章に書いてあるように、カナンの手前、ヨルダン川東岸にあるネボ山(死海の北東部)で、モーセは死ぬことになっていたからです。モーセは山頂に登り、これからイスラエルの民が入るカナンの地を見渡します。「ここが乳と蜜の流れる土地、「神様が祖先に約束してくださった土地。この土地に私もみんなと一緒に入りたい。死ぬなら、故郷カナンに入って死にたい」。当然、モーセの思いを神様も知っておられるはずです。にもかかわらず、「これが、あなたの子孫に与えると、私はアブラハム、イサク、ヤコブに誓った土地である。私はあなたがそれを自分の目で見るようにした。あなたは、しかし、そこに渡って行くことはできない」とモーセに言われました。なぜカナンに入れないのか。
 「あなたたちは、ツィンの荒野にあるカデシュのメリバの泉で、イスラエルの人々
  の中で私に背き、イスラエルの人々の間で、私の聖なることを示さなかったから
  である。あなたはそれゆえ、私がイスラエルの人々に与える土地をはるかに望み
  見るが、そこに入ることはできない」(申命記32:51)
 これは、「水がない」と文句を言うイスラエルの民のため、モーセが神様に願って岩から水を出す時に、神様が命じた通り、岩に「水を出せ」と言葉で命じるだけで良かったのですが、不満だらけのこの民に怒ったモーセは、杖で岩を2度打って、水を出しました。結局このことが、神様の聖なることを示さなかった不信仰とされて、「カナンに入れない」と、モーセは宣告されてしまうのです(民数記20:1-13)。
 「40年も苦労してきたのだから、それくらい大目に見てよ」と言いたくなります。でも神様の言葉に背いて、神様の聖なることを示さなかった責任は、指導者だからこそ厳しく問われるのでしょう。この時、モーセは120歳でしたが、視力も衰えず、活力もありましたが、「神様の命令」により死を迎え、モアブの地に葬られました。
 モーセの使命はここまでです。カナンにおける次の指導者は、ヨシュアと神様が決めておられます。余談ですが先週、ある牧師が遠方から訪ねてくださいました。近くに広いチューリップ畑があり、きれいに咲きだすと、花は全部むしり取られるそうです。良い球根を残すためです。チューリップにしてみれば「まだまだきれいに咲けるよ。もっと咲かせてよ」と叫びたいところだけど、良い球根を残し、それが来年きれいな花を咲かせることが出来るよう、花をむしり取る手に、自分をまかせるチューリップの潔さ。ちょうど説教の準備中でしたから、美しい花をつけたまま、むしり取られるチューリップと、モーセの死が、私には重なって見えました。
 モーセのことを10節では「預言者」と言っています。預言者は神様の言葉を聴き、忠実に伝える者であり、そのために、自分のすべてを献げます。そして預言者には神様の霊が働き、神様への信頼が深められて、より忠実に使命を果たしていきます。
 言わば、自分のすべてをかけて、神様の言葉に忠実に聞き従って生きるのが、預言者です。それ故、預言者は生きている時だけでなく、死ぬ時も、自分の思いではなく、神様の言葉に忠実に聞き従います。神様に「ここまで」と言われたら、やり残したことがあると自分で思っても、預言者は神様の言葉に聴き従い、人生の舞台から潔く退きます。後のことは神様に信頼して、お委ねすればいい。
 そして預言者とは、特別な人のことではないと思います。教会で言うなら、牧師だけが預言者ではないと思います。イエス様の救いを信じて告白する信仰者は皆、神様の召しを受けた預言者です。私達信仰者は、みな、預言者ですから、生きるにしても、死ぬにしても、生涯のすべてを通して、イエス様を、神様の言葉を、神様の愛を、この世に現し伝えていきます。同じようなことを、パウロも言っています。
 「私達は、生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死ぬのです。
  従って、生きるにしても、死ぬにしても、私達は主のものです」(ローマ14:8)
 私達信仰者は、主に聞き従う預言者であり、私達信仰者は誰でも主のものです。生も死も主のものであり、私達の生涯は主のために用いるよう聖別されています。若くても、高齢でも、病弱でも、貧しくても、私達の生涯は預言者として聖別され、生涯を通して、果たすべき使命が与えられます。
 私達信仰者も、預言者だと言いましたが、10節「イスラエルには再び、モーセのような預言者は現れなかった」と言っています。確かにモーセは特別でした。神様と直接、話をすることが赦されていましたし、モーセを通して神様の偉大な御業が数多く行われてきました。でも私達は、モーセより、はるかに優れた預言者。寸分たがわず、神様の言葉に忠実に聞き従って行きぬき、死んだ最も忠実な預言者。否、死から復活された方を知っています。神様の御子、主イエス・キリストです。
 モーセは神様の言葉に忠実に聞き従って、イスラエルの民を、エジプトから脱出させて、約束の地カナンの手前まで導きました。でもモーセ自身は約束の地に入ることはできず、約束の地の手前までしか、民を導けませんでした。
 一方イエス様は神様の御子であり、神様の言葉、神様の御心と一体となっておられます。イエス様が十字架で死に、3日目に復活したのも、すべて神様の御心でした。神様と私達との間には、「罪と死」と言う深い川が横たわっているので、人は神様がおられる向こう岸に渡ることは出来ません。「罪と死」の向こう岸に民を導くことは、モーセにも出来ませんでした。このことを成し遂げたのは、イエス様だけです。
 
イエス様は、ご自分の命、ご自分のすべてで、誰も渡ることが出来なかった、そして神様と私達とを隔てていた「罪と死」の川を完全に埋め尽くして、「神様がおられる向こう岸に、私達を導い入れる道」となってくださいました。''
 「私は道であり、真理であり、命である。私を通らなければ、誰も父のもとに
  いくことができない」(ヨハネ14:6)。
 イエス様が、神様のおられる国に、私達を導き入れる道だと信じるなら、そしてイエス様に聞き従って行くなら、誰であろうと神様の国に入ることが赦されます。神様の国は、イエス様を信じるすべての人に約束されている土地、本物の故郷です。
 モーセの後継者であるヨシュアは、イスラエルの民を導いてヨルダン川を渡り、約束の地カナンに入ります。「ヨシュア」は、ギリシャ語で「イエス」です。預言者モーセの後継者、新しい預言者ヨシュアが、民を約束の地に導きます。このことは数千年後、この世に誕生する究極の預言者イエス様を信じ、聞き従うすべての人を、イエス様が約束の地、神様の国に導くことを、預言しているとしか思えません。

powered by Quick Homepage Maker 4.27
based on PukiWiki 1.4.7 License is GPL. QHM

最新の更新 RSS  Valid XHTML 1.0 Transitional