日本基督教団御殿場教会  United Church of Christ in Japan Gotenba church

釣り合いがとれるように

タイトル :「釣り合いがとれるように」   
聖書   : Ⅱコリント8:10-15  
年月日  : 2015-5-10
特記事項 :

 10節の「この件」とは、エルサレム教会への献金のことです。エルサレム教会は、ユダヤ教の神殿があるエルサレムで活動しています。教会員の多くはユダヤ教からキリスト教に改宗したユダヤ人たちです。そのため教会員の多くは村八分となり、仕事にもつけません。さらに同胞だったユダヤ人だけでなく、ローマからも激しい迫害を受け、苦難と貧しさに耐えながら、信仰を守っていました。このエルサレム教会の窮状を知った諸教会が、エルサレム教会を支えようと、献金活動を始めて、その活動に加わる教会が、国境を越えて各地に広がって行きました。
 コリント教会もその一つでした。去年から既に始めていた献金活動なのですが、中断してしまいました。これはコリント教会の人々が、エルサレム献金に関わっていたパウロに、不信感を持つようになったためです。
「キリストの使徒と言っているが怪しい。なぜ謝儀を受け取らず、テント作りをしながら伝道しているのか」。
 噂や中傷に尾ひれがついて、エルサレム教会の献金を始め、パウロが伝えた福音信仰、福音伝道など、パウロが関わった一切のことが疑われ、排除されようとしていました。幸いパウロがテトスに託した手紙によって誤解が解け、コリント教会とパウロは若いすることができました。
 それゆえ中断したままになっていた献金活動を再開して、やり遂げてほしいと、パウロはコリント教会に告げています。でもパウロは献金活動することを、命令したり強制したりしません。最初、自分達が願って始めたように、あくまでも自ら進んで献金活動を最後までやり遂げて欲しいと、パウロは願っています。そしてその際、大切なアドバイスを、いくつかコリント教会にしています。まず12節。
 「進んで行う気持ちがあれば、持たないものではなく、持っているものに応じて、
   神に受け入れられるのです。」
神様は万物の造り主ですから、すべては神様のものです。命、体、時間、労力。それらを使って稼いだお金も、元をただせば神様のものです。多く与えられている人もいれば、少しだけの人もいます。これは神様のなさることなので、献金の時も他人と比較して、自分の乏しさを悲観したり、うらんだりする必要はありません。大切なのは、「今、自分に与えられているものをそのまま、自ら進んで献げる」ということです。神様は、金額の大小にかかわらず、そのことを「良し」として受け入れてくださります。
 そしてエルサレム教会への献金のなかに、12節は「神に受け入れられるのです」と言っています。礼拝献金は、神様への献げ物と実感できますが、他教会や困窮している人々への献金は、神様への献げ物として実感しにくいかもしれません。むしろ「他の人が楽をするために、自分達が苦労している」(13節)と思うかも知れません。
 しかし自分達の教会も、共にキリストの体の中にあり、互いにキリストの体の一部分です。また信仰者であろうとなかろうと、人は誰でも神様のものです。従って他教会や他の人々の困窮を補うための献げ物であっても、それはやはり「神様への献げ物」になるのです。
 イエス様も例え話の中で「もっとも小さい者の1人にしたのは、私にしてくれたことなのである」と言われました(マタイ25:40)。
 そして何よりも、私達が持っているものはすべて神様に与えられた賜物ですから、お互いの重荷を担いあい、支えあうために、賜物を差し出すのは当然のことであり、「神様のものを、神様にお返しする」だけです(マタイ22:21)。そしてお金、時間、労力、才能など、神様から与えられた様々な賜物を、互いに分かち合うことにより「釣り合いがとれるようにする」のです。
 「釣り合いがとれる」と言う言葉には「公平にする、平等にする、均等にする」と言う意味があります。
 神様から与えられた様々な賜物。多く与えられた人もいれば、少なく与えられた人もいます。でも多く与えられた人は、必要に応じて多くのものを、他の人に分け与えることができます。そして互いに、公平に、均等に、神様の賜物にあずかることができます。不公平がなく、全体のバランスがとれます。
 多くの賜物がありますと、どんな賜物も、他の人を愛して、活用することで、神様に喜ばれ、受け入れられるため、神様から授けられたのであり、自分一人で独占するための賜物ではありません。でも現実なかなか、そうはいきません。先週のこどもの日の新聞に、このような記事がありました(「天声人語」より)。
 「いつどこで生まれ、誰を父母とするかは選べない。なのに、そのことがもたらす
落差は痛ましい。世界では小学校に通えない子が約5700万人にのぼる。5歳から
14歳の15%が児童就労につかされている。国内の格差もゆゆしさを増す。子供
の貧困の話を聞かぬ日はなく、貧しさは固定化の傾向にある。幼くして先が見えてしまう社会に、希望はあるだろうか」
私達の社会のこのような現実に向かって、聖書は「釣り合いがとれるように」と語りかけています。でも「公平に、平等に、均等に」とは、一方通行の行為となるとは限りません。自分が今まで持っていたものを、一瞬にして失うこともあります。だからお互いに配慮しあい、今、持っているもので相手の欠乏を補うことによって、全体の釣り合いがとれ、私達は同じ時代に、同じ地球上で生きる仲間として、共に生きられるようになります。これは「相手を支え生かすことで、自分も相手も共に生きられるようになります。これは「相手を支え生かすことで、自分も相手も共に生きられるようになる」と言う「神様の愛の知恵・平和の知恵」です。
15節「多く集めた者も、あまることなく、わずかしか集めなかった者も、不足
   することはなかった」(主エジプト記16:18)。
イスラエルの民が荒野を旅していた時に、天から降ってきたマナを、一部の人が独占して集めた挙句、食べきれなくて腐らせてしまうのではなく、みんなが必要に応じて集めて食べることにより、民全体が飢えることなく40年間、生き延びてきたことを証言しています。
多くのものを神様から受けて所有するのは、罪ではありません。でも「神様から受けたものを、私達がどのように用いるのか」。そのことを神様は見ておられます。受けたものの多い少ないにかかわらず、「今あるものを、私達がどう用いるか」を神様は吟味されます。
 コリント教会は最初、奴隷や貧しい人々の教会でしたが、次第に富裕層が加わり、エルサレム教会より財政は豊かでした。その豊かさが、同じキリストの体であるエルサレム教会と、「今あるものを、喜んで分かち合う愛の豊かさ」になることを、パウロはコリント教会に求めています。
 分かち合おうとしない「一人勝ちの独占」は、豊かさではなくて、「欲に縛られた不自由さであり、愛のない貧しさ」だからです。
 「財政は豊かでも、愛のない貧しい教会になって欲しくない。愛することで、今あるものを惜しみなく分け与えて、コリント教会も、エルサレム教会も、亜たがいに等しくキリストの体として働いて欲しい」。これがパウロの願いではないでしょうか。
 従って今朝の箇所は、単にエルサレム教会に献金をするということだけでなく、「惜しみなく与えても、なお自分を生かしてくださる神様の愛と力を信じるか。神様と隣人を、自腹を切って愛せるか」。そこを問われている気がします。
 「神はその独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が
  一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」(ヨハネ3:16)
 惜しみなく自腹を切って私達を愛してくださることを、神様は独り子イエス様を私達に与えることで、示してくださいました。イエス様は、十字架でご自分の命を与えて、私達の罪の償う「いけにえ」となることで、私達への愛を示してくださいました。父なる神様と御子イエス様が、まず最初に自腹を切って、私達を愛してくださったのです。さらに神様の愛と命の中で生きる最上の豊かさ、神様だけに赦される豊かさを独占しないで、私達にも公平に、平等に、均等に、与えるために御父と御子は聖霊を送って、私達を信じる者へと、常に招き続けておられます。
 この豊かな招きを無視したら、釣り合いがとれません。喜んでお応えしましょう。

powered by Quick Homepage Maker 4.27
based on PukiWiki 1.4.7 License is GPL. QHM

最新の更新 RSS  Valid XHTML 1.0 Transitional