日本基督教団御殿場教会  United Church of Christ in Japan Gotenba church

金持ちの青年

説教

タイトル:「金持ちの青年
聖書  : マタイ19:16-30
年月日 : 2012-5-6

        
ある青年がイエス様を「先生」と呼んで、「永遠の命を得るにはどんな善いことを
すればよいのでしょうか」と尋ねています。でもイエス様は「なぜ善いことについて、
私に尋ねるのか。善い方はお1人である」と、なぞめいた言葉を彼に返しています。
イエス様は病を癒し、悪霊を追い出し、神の国について教え、人々に善いことを
されています。でもイエス様がされた「すべての善いこと」の源は神様です。神様
から受けた善いことを、イエス様はご自分を通して、惜しみなく、完全にこの世に
現わしていたのです。だから善い方は、源である神様お1人だけです。
イエス様と弟子達は間もなくエルサレムに入ります。十字架の時が迫っています。
十字架で神様への従順を貫くため、一切の名声や誇り、「先生」と呼ばれることさえ
捨てて、イエス様は神様の前に、ご自分を徹底的にカラッポにします。へりくだり、
神様だけに栄光の輝きを集中させます。それがイエス様の十字架への道のりです。
その途上にあるイエス様が青年に語ったのは「命を得たいのなら掟を守りなさい」
でした。「どの掟か」と尚も聞く青年に、「十戒と隣人愛」を守るよう、イエス様は
教えています。すると彼は待っていましたとばかり、「そういうことは、みな守って
きました。まだ何か欠けているでしょうか」とイエス様に言っています。
お行儀のいい受け答えですが、彼の言葉から「十戒も隣人愛もすべて守ってきた。
私は落ち度なく、完全に掟を守って生活してきた。永遠の命を得るのに、私に何か
欠けていると思うなら言ってごらんよ」と言う、彼の誇り高さが伝わって来ます。 
彼は自分の正しさに自信を持っていました。信仰者として自分を完全だと思って
います。でもイエス様の目に、彼が不完全であることは明らかでした。だから彼に
言っています。21節です。
「もし完全になりたいのなら、行って持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。
 そうすれば、天に富を積むことになる。それから私に従いなさい」。
 この一言で、青年の誇りは木っ端みじんに吹き飛び、悲しみながら、彼はそこを
立ち去っています。彼にはたくさんの財産があったと、22節に書いてあります。
 イエス様の言葉で彼は、財産を手離せない自分に気がつきました。財産を失って
までも、自分が隣人を愛することも、永遠の命を求めることも、願っていないこと。
今の生活を変えてまでも、永遠の命に至る道を、本気で探求していたわけではない
ことに、彼は気がつきました。彼の熱心さは的外れでした。
彼がこれまで誇りにしていた「掟を守る正しい生活」も「永遠の命の探求」も、
自分を満足させる財産の一つに過ぎなかったのです。「どうやったら永遠の命と言う
財産を殖やせるか」、青年はそれを、イエス様に尋ねに行っただけでした。
 青年が、もっと財産を殖やしたくて、何もかも手に入れることに熱心だったのに
対して、十字架に向って、何もかも捨てていくイエス様の姿は、非常に対照的です。
しかし青年が求めようとしていた永遠の命は、イエス様の後に従って行く以外、
得ることは出来ません。だからイエス様は彼を招いたのです。以前、ガリラヤ湖で
漁をしていたペトロたちを招いたように、青年のこともイエス様は招いたのです。
弟子達を愛して招いたように、イエス様も青年のことも愛して招いたのです。
 「私に従いなさい」。原文は「来て、私に従いなさい」です。永遠の命を得るよう
イエス様から招かれているのに、しかし青年はイエス様の言葉に背を向けて、立ち
去りました。そこでイエス様が弟子達に言っています。
 24節「金持ちが神の国に入るよりも、ラクダが針の穴を通る方がまだ易しい」。
 あの大きなラクダが小さな針の穴を通り抜けることなど、不可能です。でもそれ
以上に不可能なのは、「金持ちが神の国に入ること」だと言うのです。金持ちには、
手離せずに固く握りしめているものが、たくさんあり過ぎるからです。自分の財産、
豊かな生活、見栄や地位、自分の計画や都合。イエス様に従うより大切なものが、
この世にたくさんあるからです。そういわれると、私達も落ちつかなくなります。
私達もあの青年のように、イエス様に従うより、自分の利益や自分の願いが、一番
大切だからです。自分の利益や願いを叶えてくれる範囲なら、イエス様に従っても
いいけれど、損をしてまで、今の生活を曲げてまで、従うつもりはありません。
 でもイエス様が「私に従いなさい」と言うのは、強引に、イエス様の言いなりに
なることではありません。嫌々ながらイエス様に引きずられることではありません。
あるいは聖書を研究して、イエス様に関する知識に詳しくなることでもありません。
「イエス様に従う」とはイエス様を信じ、イエス様と愛し合う関係に入ることです。
だから「私に従いなさい」とは、「私を信じて、私と愛し合うよう、あなたの足を
一歩踏み出しなさい」と言う、イエス様からの愛の招き、永遠の命への招きです。
 「はっきり言っておく。信じる者は永遠の命を得ている」(ヨハネ6:47)
 「人が私につながっており、私もその人につながっていれば、その人は豊かに
実を結ぶ。私の愛に留まりなさい。私が父の掟を守り、その愛に留まっている
ように、あなたがたも私の掟を守るなら、私の愛に留まっている」(ヨハネ15:5,9-10)
頭の中だけでイエス様を信じるのではありません。イエス様を信じる時、私達は
霊肉共にイエス様につながれます。そしてイエス様を信じる時、イエス様の愛の
中にいる自分、万物の源である神様の愛の中にいる自分に、気がつきます。神様の
子供としてすべてを赦され、受け入れられて、神様の平安の中にいる自分に、気が
つきます。言うならば「神様の愛と平安の温泉」に入っている自分です。すべてを
脱ぎ捨て、神様の中に安心して自分を体ごと委ねます。あらゆる緊張、不安、痛み
から解き放されて、思いっ切り手足を伸ばしてリラックスします。万物の源である
神様で満たされているから、神様だけで充分です。イエス様を信じて、神様の愛
平安、永遠の命に、充分満たされているから、この世の利益にしがみつくことも、
忘れます。このことを実体験したパウロが、次のように告白しています。
 「私の主キリスト・イエスを知ることのすばらしさに、今では他の一切を損失と
見ています。キリストのゆえに私はすべてを失いましたが、それらを塵あくた
  と見なしています」(フィリピ3:8)
 パウロはエリートのユダヤ教徒であり、あの青年のように自分の正しさを信じて
疑わず、掟を守ることに熱心でした。しかしイエス様と出会い、イエス様を信じた
ことで、それまで自分が大切に握りしめていたものを「塵あくた」と呼び捨てます。
でもこの世に未練タップリで、誘惑に弱い貪欲な私達が、パウロのように方向転換
できるとは、とても思えません。ラクダが針の穴を通るよりも、困難なことです。
だからイエス様は言っています。
 26節「それは、人間に出来ることではないが、神は何でもできる」。
 私達がイエス様を信じて従うこと。そしてイエス様の愛の中に入れられることは、
自分では出来ないからこそ、神様が成し遂げてくださいます。
 日本人の多くは、聖書や教会に縁がありません。それでも神様は聖霊を与えて、
私達を礼拝に招いて、イエス様と出会わせてくださいました。そして礼拝を通して
自分の罪に目を開き、イエス様を救い主と信じて、従えるようにしてくださいます。
またイエス様の愛の中で、たくさんのものを握りしめていた自分の手を、惜しまず
開いて、神様のため隣人のために、差し出せるようにしてくださいます。ムリヤリ
ではなく、愛されている深みに入るたびに、自分の体から、貪欲のアカが、ポロリ、
ポロリと、はがれ落ちていきます。これらはすべて、聖霊なる神様の働きです。
 永遠の命を得ようと質問した青年が、財産を捨てることが出来ずに立ち去ると、
ペトロは誇らしげにイエス様に「この通り、私達は何もかも捨てて、あなたに従って
参りました。では私達は何をいただけるのでしょうか」と聞いています。ペトロの
問いも的外れです。すべてを捨ててイエス様に従って来たのは、イエス様を信じて、
愛しているからです。取引のためではありません。そしてイエス様を信じて愛して
いるペトロは、いつでもイエス様の愛の中にいます。神様の愛の中、永遠の命の
中にペトロはいます。それなのにペトロは、イエス様以外、何が欲しいのでしょう。
いつも父親と一緒にいる恵みに気づかなかった、放蕩息子のお兄さんのようです。
 イエス様に従って生きる信仰者は、この世の逆風の中で生きることになるので、
多くのものを捨てることになります。でもイエス様は「私の名のために、家、兄弟、
姉妹、父母、畑を捨てた者はその百倍の報いを受け、永遠の命を受け継ぐ」と約束
しています。イエス様がご自分を捨てながら、十字架へと向かったように、私達も
日毎、昨日までの古い自分を脱ぎ捨てながら、イエス様に日々、従って行きます。
イエス様に愛されているから、安心して古い自分を脱ぎ捨てることができます。愛されているから、苦しくても喜んでイエス様に従えます。そして終わりの日、
私達が、古い自分をすっかり脱ぎ捨てた時、イエス様が約束された「永遠の命」で
生きる新しい自分。復活のイエス様と同じ姿にされた新しい自分が始まります。
イエス様に従うことに、信仰歴の長短は関係ありません。幼子のように、素直に
イエス様の愛に体ごと、投げ込んでいく人。幼子のように、自分の損得を忘れて、
イエス様に喜んで従っていく人は、この世の逆風を受けても永遠の命の中にいます。
「朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくなられないで、
永遠の命に至る食べ物のために働きなさい」(ヨハネ6:27)

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