日本基督教団御殿場教会  United Church of Christ in Japan Gotenba church

誰でも私のもとに来なさい。休ませてあげよう

説教

タイトル:「誰でも私のもとに来なさい。休ませてあげよう
聖書  :マタイ11:20-30
年月日 :2010-1-10
特記事項:2010年 新年礼拝

   イエス様は各地で病人を癒したり、悪霊を追放するなどの奇跡を行われました。でもイエス様が多くの奇跡を行ったのは、病気を癒したり悪霊を追放して、それで終わりではありません。イエス様が伝道を始めた時の最初の言葉は「悔い改めよ、天の国は近づいた」でした(マタイ4:17)。奇跡は、イエス様が世に来られたことで天の国、神の国が近づいたことを、目に見える形で示すしるしであり、また奇跡を体験した者たちが、そのことによって悔い改めへと、導かれていくためでした。
 今朝の箇所にはコラジン、ベトサイダ、カファルナウムなどの地名が出てきます。
いずれもガリラヤ湖周辺の町であり、弟子達の家もあり、イエス様が伝道しながら、数多くの奇跡を行ってきた所でした。しかしイエス様は数多くの奇跡を行って来た町々を叱っています。これらの町々がイエス様の奇跡を体験しながら、奇跡だけを受けて、悔い改めることをしなかったからです。
 またティルス、シドン、ソドムと言う地名も出てきます。これらはかつて繁栄していたものの、神様の怒りによって大きな打撃を受けたり、滅ぼされた町です。特に神様が天から降らせた硫黄の火により、ソドムが滅んだ話は有名です(創世記19章)。
しかしこれらの町がもしイエス様の奇跡を見ていたら、自分たちの罪を悔い改めて、滅ぼされずに済んだだろうと、イエス様は言います。またこれらの町が審きの日に受ける罰は、ガリラヤ湖周辺の町に比べれば、もっと軽い罰で済むとも言います。
つまりイエス様から直接、話を聞いて、イエス様の奇跡を体験するという神様の大いなる恵みを受けながら、それでも悔い改めなかったガリラヤ湖の町々の方が、イエス様を知らなかったソドムなどの町よりも、何十倍も罪深いと言うことです。
 悔い改め。これは自分の行った罪、過ちを「まずいことをしたな」と思うこと。つまり「自責の念にかられたり、反省すること」だけの意味ではありません。
悔い改めるとは、罪から離れて、神様に立ち帰ることです。神を神とせずに、自分を神としていた罪。神様に背を向け、神様を忘れて思い上がっていた罪。その罪を深く認めた上で、神様に立ち帰り、神様の前にひざまずくこと。自分中心から、神様中心に、自分の居場所をキッパリ移すこと、これが悔い改めです。でもなぜイエス様は、人々に悔い改めを求めるのでしょうか。
どんなにうまく言い訳をしたり、罪を否定したり、隠していても、罪の支配から逃げられないから、解放されないからです。どんなにうまく生きているつもりでも、自分中心のまま、罪に支配されたままでは、人は必ず自滅します。そのことを一番良く知っておられるから、神様は「罪を離れて私に立ち帰れ」と何度も呼びかけます。神様に立ち帰って、新しく生き直すよう、何度も神様は私達に呼びかけます。毎週の礼拝で行われている「罪の赦しの宣言」もそうです。
 「私はあなたの背きを雲のように、罪を霧のように吹き払った。私に立ち帰れ。私はあなたを贖った」(イザヤ44:22)。
 聞きなれている言葉ですが、これは神様からの重要な宣言です。なぜ人の罪が、雲や霧のように吹き払われて、罪人が神様のもとに立ち帰ることが出来るのか。
イエス様の十字架があるからです。昔も今も世界中でくり返されている残酷で取り返しのつかない罪を、神様の目に適って完全に清めるのは、イエス様の十字架の血です。どんなに人が深く悔い改めても、犯した罪を償うことは出来ません。ただイエス様の血だけが、すべての人の罪を完全に償うことが出来るのです。
イエス様の十字架の血によって、すべての罪が完全に償われているから、そしてイエス様の血によって、完全な罪の赦しが宣言されているから、誰でも安心して、自分の罪と向きあって、悔い改めることが出来るのです。いつまでも罪を引きずることなく、誰でも安心して神様に立ち帰って、新しく生き直すことが出来るのです。
十字架の血があるから、もはや自分の罪を言い訳したり、隠す必要はありません。自分の罪をイエス様が引き受けてくださったこと、そして償ってくださったことを素直に喜び、感謝して悔い改めれば、それで良い。イエス様の十字架の赦しの中で、素直に罪を告白して、神様に立ち帰って新しく生き直せば、それで良いのです。
イエス様の十字架の血に運ばれて、神様の中に引越しすれば、それで良いのです。
 悔い改めは、自分の力でするものではありません。神様からの贈物です。しかも十字架のイエス様から差し出されている贈物です。私達は不完全で、死ぬまで罪を犯しながら生きて行きます。神様は、私達の弱さを十分ご存知です。だからこそ、そういう私達のために、神様が、イエス様の血によって用意してくださった贈物。それが、何度つまずいても、神様に立ち帰ることができる「悔い改め」です。
 神様は私達を愛してくださるお方です。一人でも悔い改めて神様に立ち帰るなら、神の国は大きな喜びにあふれます。その証拠にイエス様は「私が来たのは、罪人を招くためだ」と言われました(マタイ9:13)。だから悔い改めは、弱い私達のために神様が用意してくださった「限りない回復のチャンス、救いのチャンス」なのです。
しかし神様はこの真実を、知恵ある者や賢い者、自分に自信のある者には隠して、幼子のように魂が低くされている者、弱く、何も誇るものを持たない者に向かって、示されました。
神様の御心を最も良く知り、神様の御心を最も良く現わしておられるイエス様が、
社会から見捨てられた厄介者、貧しい人、病人、多くの罪人と食卓を囲みながら、
彼らに、神様の真実を教えておられたことを思い出します。実際、身軽な者ほど、イエス様の言葉に聞き従い、素直に悔い改め、神様に立ち帰ることができます。
 しかし世間で暮らす私達は、なかなか身軽になれない。家族のこと、仕事のこと、育児や看護、病気との闘い、人間関係など、私達はたくさんのものを抱えながら、背負いながら、毎日を生きています。だからこそイエス様は言います。 
「疲れた者、重荷を負う者は、誰でも私のもとに来なさい。休ませてあげよう」。
悲しみや怒り、不安や痛み、心の中に抱えきれないほど一杯つめ込んでいる人、自分の立場やメンツを保つために、また自分の正しさを崩すまいと、毎日、忙しく働いて、気を張りつめている人、そして疲れ果ててしまった人。行き詰まり、どこにも行くあてのない人。そういう人たち向かって、「誰でも私のもとに来なさい」とイエス様は言われます。
私事で申し訳ありません。先週の水曜、聖書研究があったのですが、私は準備が出来ませんでした。ひどく疲れきって体も頭も動かない。準備できないまま、水曜を迎えました。こんなことは初めてだったので、すごくショックでした。翌々日、医師にその話をしたら「疲れたら休むのは当然」と言われてしまいました。その時、自分が抱えているものに気づきました。牧師として常にキチンとしなくてはならないと言う、自分勝手な気負いや思いあがり、そして休むことへの強い罪悪感です。
しかしイエス様は、すべての人に向かって、このように言ってくださっています。
「抱え込んでいるものを、すべて私の所に置いて休みなさい。仕事も、看護や育児、人間関係、病気との闘い、気負いも、言い訳も怒りも、罪悪感もすべて私に預けてゆっくり休みなさい。裸の赤ちゃんがお母さんの胸にダッコされるように、すべてを手離して、丸裸になって、安心して私のもとで眠り、ゆっくり休みなさい」。
 疲れたら休んで良いのです。イエス様の所に来て、休んで良い。否、弱い私達はイエス様のもとで充分休む必要があります。ゆっくり休むことを忘れちゃいけない。
でもイエス様以外の所で勝手に寝転がると、カゼをひいたり、他の人の迷惑になりますから、必ずイエス様のところに来て、休んでくださいね。
「休む」と言う言葉は「後ろへ」と言う言葉と「静まる、逃れる」と言う言葉で出来ています。つまり自分は後ろに退くのです。自分中心から退いて、イエス様の中で休むのです。神様中心の中で休むのです。礼拝は、神様の中での休息です。
 そして私達がイエス様の前で手離したもの、仕事、看護や育児、病気との闘い、痛みや悲しみ、不安や怒り、すべてイエス様がご自分のものとして十字架で担っておられます。そしてすべてを十字架の上で清めてくださいます。
 そしてイエス様の中で充分休んだ者に、イエス様は「私のくびきを負いなさい」と言います。くびきと言うのは、牛や馬などを横に並べて、つなぐ時の道具です。
 イエス様のくびきを負う時、私達の隣におられるのはイエス様です。イエス様と私達が、ガッチリくびきで結ばれます。しかもイエス様は、陰府の底からからさえ立ち上がったお方です。私達がどんなに疲れ果て、倒れ、座り込んでいても、必ず私達を立ち上がらせてくださるお方です。そしてイエス様が立ち上がるから、同じくびきにつながれている私達も、一緒に立ち上がります。そしてイエス様に導かれながら、いつもイエス様を隣りに見ながら、イエス様と共に再び歩き始めるのです。
 私達が担っていたものは、既にイエス様が十字架で担い、清めてくださいました。だから仕事も育児も看護も闘病も、清められて、「イエス様のくびき」として新しくされています。「神様に赦され、愛された者のくびき、愛して赦すことができる者のくびき、神様の子どもたちのくびき、神の国のくびき」です。イエス様のくびきを負うことで、私達はイエス様の弟子として生きる喜びや苦しみ、恵みを知ります。でも心配はいりません。私達の隣りにはいつもイエス様がいてくださって、私達を休ませながら、私達が神の国に帰るまで、このくびきを負わせてくださいます。
祈ります。
主なる御神 御言を感謝いたします。私達は悔い改めることも知らない魂の固い者ですが、神様は私達を何度でも招いてくださり、イエス様の血の中で、イエス様の赦しの中で私達を悔い改めへと導いてくださり、神様に立ち返る機会を与えてくださること、感謝致します。私達はいつも自分中心になって、罪を犯します。それだけでなく、自分中心になって疲れ果ててしまいます。そんな私達を、イエス様が
呼び寄せてくださり、ご自分の懐の中で休ませてくださること、神様中心の中で、私達を休ませ、回復させてくださること、感謝致します。
私達の重荷を、十字架によって清めてくださり、イエス様のくびきとして、神の国に向かうくびきとして、共に負わせてくださること、感謝致します。
どうか教会に集うすべての者を、イエス様のくびきを共に負う者、神の国に共に
向かう者、そしてイエス様の弟子としてくださいますように。
主の御名によって祈ります。アーメン

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