日本基督教団御殿場教会  United Church of Christ in Japan Gotenba church

説教

説教

タイトル :「一粒(ひとつぶ)の麦(むぎ)が死(し)ねば
聖書   : ヨハネ12:20-26
年月日  : 2018-2-4
ユダヤ教(きょう)の過(すぎ)越(こし)祭(さい)のために、各地(かくち)から礼拝者(れいはいしゃ)がエルサレムに集(あつ)まってきました。
エルサレムに来た人の中にはユダヤ人だけでなく、ギリシャ人もいました。彼らが
ユダヤ教(きょう)への改宗者(かいしゅうしゃ)だったのか、詳(くわ)しいことは分(わ)かりません。でも彼らの目的(もくてき)は
イエス様でした。彼らはイエス様の弟子(でし)であるフィリポに「お願(ねが)いです。イエスに
お目にかかりたいのです」と頼(たの)みました。どこかでイエス様の教(おし)えや奇跡(きせき)について
聞(き)いたのでしょう。直接(ちょくせつ)イエス様に会(あ)って話を聞きたい。そしてイエス様の弟子に
なりたいと思っていたのかも知れません。
フィリポは、弟子のアンデレと共に、「イエス様に会いたい」というギリシャ人の
ことを伝(つた)えました。するとイエス様は、ギリシャ人のことには触れず、「人の子が
栄光(えいこう)を受(う)ける時(とき)が来(き)た」つまり「私が神様の栄光を受ける時が来た」と唐突(とうとつ)に答(こた)え
ています。
 ヨハネ福音書が言う「イエス様の栄光の時」は、人々(ひとびと)が拍手(はくしゅ)喝采(かっさい)する華々(はなばな)しい時
のことではありません。その逆(ぎゃく)です。無実(むじつ)なのに、十字架(じゅうじか)で苦(くる)しみ、死(し)んでいく時
のことを指(さ)しています。世間(せけん)には敗北(はいぼく)としか見えないイエス様の十字架の死。でも
これが、神様の栄光(えいこう)が、イエス様の中に、流れ込(こ)む聖(せい)なる時(とき)です。言(い)い換(か)えますと
「イエス様を通(とお)して神様の愛があふれ出て、人々(ひとびと)に示(しめ)される時」のことです。
これを伝(つた)えるため24節でイエス様は、一(ひと)粒(つぶ)の麦(むぎ)の話(はなし)をしています。前置(まえお)きに、
「はっきり言っておく」と言う決(き)まり文句(もんく)があります。これがある時、イエス様は
神様(かみさま)の特別(とくべつ)な奥義(おくぎ)を、私達に語(かた)りかけています。覚(おぼ)えておくと便利(べんり)です。
「はっきり言っておく。一粒(ひとつぶ)の麦(むぎ)は、地(ち)に落(お)ちて死ななければ、一粒のままである。
だが、死ねば、多(おお)くの実(み)を結(むす)ぶ」。
 麦(むぎ)の粒(つぶ)、「種(たね)」と言っても良いでしょう。イスラエルの土地(とち)で麦(むぎ)を収穫(しゅうかく)するのは
簡単(かんたん)ではなく、特(とく)に小(こ)麦(むぎ)は貴重品(きちょうひん)でした。しかし貴重品だからと言って、麦(むぎ)の粒(つぶ)を
大事(だいじ)にしまったままでは、次(つぎ)の年(とし)、麦(むぎ)の収穫(しゅうかく)はありません。麦の粒が大地(だいち)に落(お)ちる
ことによって、たった一粒の麦から、数(かぞ)え切(き)れないほど多くの麦の粒が実(みの)ります。
この時、イエス様は「一粒の麦が地に落ちて死ぬ」と言っています。麦の粒が土(つち)に
埋(う)められるように、人(ひと)も死(し)んで土に埋められます。つまり「一粒(ひとつぶ)の麦(むぎ)が地(ち)に落ち
て死ぬ」と言うことで、「ご自分(じぶん)の十字架(じゅうじか)の死(し)」を予告(よこく)していたのです。
イエス様は、神様と等(ひと)しい権威(けんい)を持(も)った神様(かみさま)の御子(みこ)です。それなのに私達と同(おな)じ
人となって、この世に来られました。イエス様がご自分の命(いのち)を守(まも)って、十字架の死
から逃(に)げていたら、地に落ちて死なない麦の粒のように、イエス様にも、私達にも、
永遠(えいえん)の命(いのち)の実(みの)り、復活(ふっかつ)の命の実りはありませんでした。今までと何(なに)も変(か)わらない
「死で行(い)き止(ど)まりの命(いのち)」が、この世に残(のこ)るだけでした。しかしイエス様は、
十字架の死から逃げませんでした。「地に落ちて死ぬ一粒の麦」に最後まで
徹(てっ)しました。  
すると神様は、十字架(じゅうじか)で「地に落ちて死ぬ一粒の麦」になったイエス様を
永遠の命(いのち)と共(とも)に死(し)から復活させました。このことでイエス様の後(あと)に続(つづ)いて
多(おお)くの人々(ひとびと)の中に復活の命、永遠の命が実(みの)るようになったのです。
 イエス様は一粒の麦のように命(いのち)を捨(す)てましたが、それは「ただ命(いのち)の数を増(ふ)やす
ため」ではなかった。「死よりも強い永遠の命、復活の命」を、多くの人の中に実ら
せるためでした。人を憎(にく)み、傷(きず)つけ、神様に背(そむ)き続(つづ)けた私達は、罪(つみ)の中(なか)で滅(ほろ)ぶしか
ない者(もの)ですが、イエス様の十字架の死によって清められ、永遠の命をもつ神様の子供(こども)
として、終(お)わりの日に、イエス様と同じように復活することが赦(ゆる)されています。
 ここでイエス様が言った「人(ひと)の子(こ)が栄光(えいこう)を受(う)ける時(とき)」が更(さら)にはっきりしてきます。
「イエス様が栄光を受ける時」とは、まず「イエス様の十字架の死」のことです。
そして「イエス様の死からの復活」のことでもあります。イエス様の死と復活は、
コインの裏表(うらおもて)のように切(き)り離(はな)せません。「イエス様の十字架の死と復活」、これ
こそが、イエス様の栄光(えいこう)です。イエス様を通(とお)して、神様の愛(あい)、神様の救(すく)い、
神様の御心(みこころ)が、この世(よ)に向けて、広く明らかにされる「栄光(えいこう)の時(とき)」なのです。
 昨年(さくねん)は多(おお)くの方(かた)を天(てん)にお見送(みおく)りしました。でも葬儀(そうぎ)では、死(し)を越(こ)えた命の希望(きぼう)を
確信(かくしん)して、天(てん)に帰(かえ)られた方々(かたがた)を心(こころ)から祝福(しゅくふく)することが出来ました。「死ねば、多く
の実(み)を結(むす)ぶ」と言われた「イエス様の復活(ふっかつ)の力(ちから)」を信(しん)じているからです。 
 イエス様の死があるから、私達はすべての罪を赦され、永遠(えいえん)の命(いのち)と言う最高(さいこう)の
命(いのち)の実(みの)りを結(むす)んで、終わりの日に復活します。だからイエス様の死は、「私達の
復活(ふっかつ)の土台(どだい)」です。
「死ぬことによって、生かす」。まさしく、一粒の麦が死に、多くの人が命の
実を結びました。一粒(ひとつぶ)の麦(むぎ)、イエス様の死によって生(い)かされた復活の命の実りは、
時代(じだい)や国(くに)、民族(みんぞく)を越(こ)えて世界中(せかいじゅう)に広(ひろ)がって行きました。この命の実りは、終わりの
日まで更に多くの人たちを生かしながら広がって行くでしょう。
 イエス様の死と復活があるから、イエス様を信(しん)じる人たちの中には、復活(ふっかつ)の
約束(やくそく)・復活(ふっかつ)の種(たね)が宿(やど)っています。この復活の種が人々の中で順調に成長するよう、
神様が1人1人を礼拝に招き、御言と聖餐を与えて、養ってくださるのです。
また「死と復活」は、私達の信仰(しんこう)生活(せいかつ)の中(なか)で、日々(ひび)、起(お)きています。「自分(じぶん)中心(ちゅうしん)の
古(ふる)い自分(じぶん)」が死ぬたび、「神様の御心(みこころ)を喜(よろこ)ぶ新(あたら)しい自分」「イエス様に似(に)た新しい
自分」へと私達は日々、復活します。もちろん、私達がイエス様と似た者として完成(かんせい)
するには、終わりの日を待(ま)たなければなりません。そして「居心地(いごこち)のよい古(ふる)い自分(じぶん)が
死ぬ」度合(どあ)いに応(おう)じて、「イエス様に似た新しい自分」が、私達の中に生(う)まれます。
「古い自分の死と新しい自分への復活」をくり返す。これが信仰(しんこう)の成長(せいちょう)です。
「イエス様に似た者」を目指(めざ)し、聖霊(せいれい)の助(たす)けを受(う)けつつ、「死と復活」をくり返す
信仰者は、生涯(しょうがい)、現役(げんえき)で成長(せいちょう)し続(つづ)けます。信仰者に隠退とか定年はありません。
でも古い自分を捨(す)てるのは簡単(かんたん)ではない。だから古い自分を捨てて、イエス様の後(あと)に
続(つづ)こうとするすべての人(ひと)を励(はげ)まして、イエス様が言っています。25節以下。
「自分の命を愛する者は、それを失(うしな)うが、この世で自分の命を憎(にく)む人は、それを
保(たも)って永遠の命に至(いた)る。私に仕(つか)えようとする者は、私に従(したが)え。そうすれば私の
いるところに、私に仕える者もいることになる。私に仕える者がいれば、父(ちち)は
その人を大切(たいせつ)にしてくださる」。
25節の「愛」は「神様の愛・アガペー」ではなく、「自分の命にだけ執着(しゅうちゃく)し、古い
自分に両手でしがみつく人」のことです。頑なに古い自分にしがみつく人は両手が
ふさがっているから、新しい命・復活(ふっかつ)の命(いのち)を受け取るチャンスを失(うしな)います。
反対(はんたい)に「自分の命を憎(にく)む人」とは、「自分の命(いのち)を粗末(そまつ)にする人のことではなくて、
自分のすべてをイエス様に委ねて、潔(いさぎよ)く自分から手を離す人」です。その人は、
イエス様が歩(ある)いた十字架(じゅうじか)の道(みち)を、イエス様に手をひかれて歩き、イエス様に向(む)けて
成長(せいちょう)します。日々古い自分に死んで「イエス様に似(に)た者、イエス様に従(したが)い愛する
者」へと、日々新しく生かされながら、永遠の命、復活の命を受(う)け取(と)ります。
「死ぬことによって、生かされる」。信仰(しんこう)における不思議(ふしぎ)なパラドックスです。
でもこれは、イエス様に会(あ)いたいと願(ねが)っていたギリシャ人を含(ふく)め、「イエス様の弟子、
信仰者(しんこうしゃ)として生きるとは、どういうことか」を象徴(しょうちょう)する言葉のように思えます。
26節の「私に仕(つか)える者」には「ディアコノス・仕える人、奉仕者(ほうししゃ)、執事(しつじ)」と言う
言葉(ことば)が使(つか)われています。日本は99%が未信者で、聖書(せいしょ)も教会(きょうかい)もイエス様も知(し)らず、
無関心(むかんしん)に生活(せいかつ)しています。できたら関(かか)わりたくない社会(しゃかい)です。どこに行(い)っても何を
見ても、つい批判(ひはん)したくなる。しかしその只中に、イエス様が真(ま)っ先(さき)に飛(と)びこみ、
1人1人を愛して仕(つか)えておられるのです。「一粒(ひとつぶ)の麦(むぎ)」のように小さくなって、何(なに)も
惜(お)しまないで、1人1人を生かそうと願(ねが)い、労苦(ろうく)しておられます。このイエス様と
1つに結(むす)ばれて、従い、仕えて行くのが弟子であり、信仰者です。私達が礼拝で、
神様の愛(あい)と聖霊(せいれい)と祝福(しゅくふく)を受(う)けとるのは、この世でイエス様に従い、仕えて行くため
です。自分(じぶん)が「救(すく)われた」と喜(よろこ)び、それだけで満足して終(お)わりではない。
 目(め)の離(はな)せない病人(びょうにん)や高齢者(こうれいしゃ)と一緒(いっしょ)に暮(く)らす人がいます。厄介(やっかい)な人たちと一緒に
働(はたら)く人がいます。それぞれ愛する苦労(くろう)は違(ちが)いますが、愛する人は皆「一粒の麦」
です。自分に死んで、他者を生かす人です。イエス様に仕える弟子であり、
信仰者です。
そしてイエス様は、必(かなら)ずその人と共(とも)におられます。またイエス様に仕え、
愛する苦労(くろう)を抱(かか)える人を、父なる神様は大切(たいせつ)に迎え、豊かな愛と命を与(あた)えて、
養(やしな)ってくださいます。だから「一粒の麦」となることを恐(おそ)れなくてもいい。神様
から日々、愛と信仰の中で養われながら、この世(よ)で忍耐(にんたい)強(つよ)く1人1人を愛して働く
イエス様に私達も従い、イエス様に生涯、心から仕える弟子とされていきましょう。

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