日本基督教団御殿場教会  United Church of Christ in Japan Gotenba church

誇る者は主を誇れ

説教

タイトル:「誇る者は主を誇れ」  
聖書  : 第1コリント1:26-31
年月日 : 2010-9-5
 

コリント教会の中では、ひいきにする説教者を巡って、対立が起きていることが
1章に書かれていますが、それだけではありません。教会員の身分や能力の違いによって、対立が起きていました。
 26節「兄弟たち、あなたがたが召された時のことを、思い起こしてみなさい。
人間的に見て、知恵のある者が多かったわけではなく、能力のある者や
家柄の良い者が多かったわけでもありません」。
パウロが言っているように、当初、コリント教会に集められていたのは、身分の
低い人や貧しい人、あるいは奴隷や女性たちでした。でもそこに、身分の高い人や
裕福な人たちが加わって来たようです。
 教会と言うのは、実に不思議な所です。この世にありながら、教会の敷居を一歩
またげは、この世の地位や学歴、職業などの違いは、何の意味も持ちません。この
世の肩書きがどんなに立派であっても、教会の中では通用しません。
そのことを実感したのは、神学校を卒業して最初に赴任した教会です。そこには
有名企業の社長や大学の学長、弁護士、医者などが、教会員として大勢いました。
そういうことは、後から少しずつ分かってきたことですが、しかし今、思い出すと、
神学校を出たばかりの青臭い伝道師が礼拝で語る説教を、決して「上から目線」では
なくて、皆が一信徒として真剣に、そして謙遜に耳を傾けていました。
教会では誰もが皆、神様の前にただの人であり、また誰もが等しくキリストの
兄弟姉妹だからです。 そして誰もが皆、 説教で語られる「キリストの十字架の
言葉、 神様の愛と赦しの言葉」を、必要としているからです。
 しかしコリント教会では状況が違っていました。後から加わった裕福な人たちや
インテリたちが、次第に教会で力を持ち始め、自分たちの能力や家柄、知識などを
教会に持ちこんではそれを誇り、貧しい人や身分の低い人たちを見下していました。
これでは教会全体が、心と思いを1つにして、固く結び合うことは出来ません。
 そこでパウロは「教会が、人の力や才能ではなく、神様の自由な選びによって
集められた群れだ」と言うことを、コリント教会に伝えようとしています。神様の
自由な選びは、この世の思惑や常識を、アッケラカンと裏切ります。こうして私が
牧師として立っていることもそうです。どうせ牧師にするなら子持ちの主婦なんぞ
選ばないで、若くて頭の良い男性を選んで、牧師にした方が良いに決まっています。
 27節「ところが神は、知恵ある者に恥をかかせるため、世の無学な者を選び、
力ある者に恥をかかせるため、世の無力な者を選ばれました。また神は、
地位ある者を無力な者とするため、世の無に等しい者、身分の卑しい者や
見下げられている者を選ばれたのです。」
 2000年前、キリストの周りには、世間から嫌われ、軽蔑されていた病人や娼婦、
徴税人などが大勢いました。同じように、昔も今も教会には、自分の弱さ、醜さを
知っている人たち、痛みや傷を抱える人たち、苦労している人たちが大勢います。
でも皆、神様が選び、神様が集めた人たちです。教会は「新しい神の民、キリスト
の体」と言われているのにもかかわらず、強くて優秀な人たちではなく、たくさん
の弱さや痛みを知る人たちを、神様はあえて選んで、教会に集めます。
 29節「それは、誰一人、神の前で誇ることがないようにするためです」。
 知識や家柄、財産など、この世の宝を、コリント教会の中でも誇っていた人たち。
彼らが誇っていたことは、世間からも称讃され、彼らにとって大きな自信になって
います。そのため彼らは自分の力で、どうにでも生きられると思い込みます。
その意味で「誇る」とは、その人が「拠り所としているもの、信頼し、頼みとして
いるもの、生きるための土台」と言い換えることができます。
 その視点で、もう一度29節を読むと、ここでパウロが言わんとしているのは、「誰
一人、神様の前で自分を頼りにし、自分を拠り所としないように」と言うことだと
分かります。私達が本当に信頼し頼みとしているもの、生きる土台、拠り所として
いるものとは何でしょう。神様でしょうか?それとも自分自身でしょうか?
 「自分を誇り、自分を頼り、自分を土台とする」。
これは普段、私達が何気なくしていることです。でもいつの間にか「自分の誇って
いること」が物事を見る基準となり、周りに勝手な優劣をつけて、判断するように
なります。そして自分の基準より上だったら、相手をねたみ、憎みます。また自分
の基準より下だったら、おごって相手を見下します。まさに、コリント教会がして
いたことと同じです。  
 「自分を誇り、自分を頼り、自分を土台とする」。
これは世間では通用しても、神様には通用しません。と言うより、「神様の前に
自分を誇る」とは、愚かにも「神様よりも自分を頼りとする」ことであり、神様と
張り合うことです。
神様は、これを放置しません。自分の力に頼って、慢心している人たちの誇りを
神様は容赦なく打ち砕きます。そのことを強烈に体験した1人が、パウロです。
 かつてパウロはバリバリのユダヤ教徒で、しかも幼い時から、律法を厳格に守る
ファリサイ派の教育を受けてきました。だからパウロにとって「律法を守っている
正しい自分」が誇りであり、生きていく上での土台でした。その土台の上に人生を
築いて来ました。でも「正しい自分」と言うパウロの誇り、人生の土台を、神様は
一気に破壊します。パウロは、自分が否定していた復活のキリストと出会いました。
その時、パウロがこれまで積み上げてきたものが、神様によって押し潰され、何も
ない更地にされました。彼の様子を使徒言行録9章は、「3日間、目が見えず、何も
飲み食いできなくなった」と伝えていますが、神様によって自分の誇りを打ち砕か
れた衝撃の強さを、物語っています。
 しかし神様が自分を誇る者を打ち砕いて、その土台を更地にするのは、その人を
滅ぼすためではなく、その人を本物の土台の上に立たせて、生かすためです。本物
の土台。つまり「十字架につけられて死に、復活されたキリストと言う土台」です。
更地にされたパウロに、神様がすえたキリストの土台は、彼の人生を一変させます。
そのパウロは「私には律法から生じる自分の義ではなく、キリストへの信仰による
義、信仰に基づいて神から与えられる義があります」と告白しています(フィリピ3:9)。
「自分の正しさ」を誇ることを捨て、自分を頼ることを捨ててカラッポになり、
徹底的に低くされ、無力にされたパウロの中に、キリストを通して「神様の正しさ」
「神様からのOK」が、恵みとして与えられたのです。最も低く貧しくされた者が、
神様によって最も高く引き上げられることは、キリストご自身が証明しています。
キリストは、神様の御子でありながら、十字架につけられ、呪われた者となって
陰府に降りましたが、神様によって復活の命と体を受け、天の御座に引き上げられ
ました。それはすべて私達のためです。私達を愛するが故に、全ての罪を肩代わり
して、私達を罪のない聖なる神の子としてくださったキリスト。ご自分と同じ復活
の命と体を与えて、ご自分の御座の隣に、私達を座らせてくださるキリスト。
このキリストこそ、私達の誇りであり、私達の生きる土台です。コリント教会は
もとより、教会に集められた1人1人は、キリストの土台に固く結ばれて生きる
よう召されています。キリストの中にある神様の豊かさを、すべて恵みとして、
受け取るためです。だから「誇る者は主を誇れ」と言うのです。
世間では、少しでも自分を立派に見せようと、自分を誇ります。そのため自分に
誇るものがないと不安になったり、落ち込んだりします。でもキリストに結ばれて
神様の前で生きている私達には、自分を誇る必要はありません。むしろキリストが
大きく迫って来れば来るほど、私達は自分を誇ることも忘れ、小さく低くされます。
そしてキリストに圧倒された私達の目は幸いにも、キリストの偉大さ、恵み深さを、
目の前に仰ぎ見ることが赦されます。
「でも自分を誇れる人がうらやましい。誇りたくても、自分には何も誇るものがない。失敗ばかりで自信がない。年を取って、体も不自由だ。病気がちでますます弱くなってきた。自分には何も誇るものがない」。そう言いたい人もいるでしょう。
しかし自分に誇るものがなくても、そんな私達を愛して、命を献げてくださったキリストがいます。何も誇るものがない私達を愛して、ご自分の兄弟姉妹として、天に住まわせようと、すべてを献げ、今も導いてくださるキリストがいます。
 「神は、その独り子をお与えになったほど、世を愛された」(ヨハネ3:16)。
自分が何も出来なくても、私達は、神様から愛され、キリストが愛されています。
だから私達は皆、神様から愛され、キリストから愛されていることを、誇ることが
出来ます。たとえ病に苦しみ、死の床にあっても、主が私達のために命を献げて
くださったことを誇ることができます。だから私達はいつでも心から、主を誇り
ましょう。私達を愛してくださる主キリストを大いに喜び、感謝し、誇りましょう。

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