日本基督教団御殿場教会  United Church of Christ in Japan Gotenba church

行きなさい

説教

タイトル :「行きなさい
聖書   : 使徒言行録5:30-32 ヨハネ8:1-11
年月日  : 2017-4-16
特記事項 : イースター
イエス様はエルサレム神殿の境内で、いつものように人々に教えておられました。
そこへ律法学者やファリサイ派と言ったユダヤ教のエリートたちが、女を捕らえて
イエス様の所にやって来ました。女は姦通の罪を犯していました。子供の礼拝では
「十戒」を読み上げます。その中に「姦淫をしてはならない」と言う言葉があります。
姦通も姦淫も似たような意味ですが、簡単に言うなら「浮気・不倫」です。そして
ユダヤ教のエリートたちは、イエス様に尋ねています。
「先生、この女は姦通をしている時に捕まりました。こういう女は石で打ち殺せ
とモーセは律法の中で命じています。ところであなたはどうお考えになりますか」。

ユダヤ教の律法では、不正な男女関係を厳しく禁じており、これを破ることは、
個人的な問題ではなく、神様への裏切りであり、石で打ち殺すように定めています
(レビ記20:10 申命記22:22)。女は罪の現場を取り押さえられたから、言い逃れも
出来ず、石打刑で殺されるのは当然でした。それなのにユダヤ教のエリートたちは、
イエス様に意見を求めています。しかも日頃から彼らはイエス様を憎んでいるのに、
わざとらしく「先生」と呼んでいます。それはイエス様を試し、イエス様を訴える
口実をつかむためでした(6節)。なぜ彼らはそんなにイエス様を憎むのでしょうか。

 当時のユダヤ教社会では「律法を正しく守っているかどうか」、これが人の価値を
決める「ものさし」でした。そして律法通りに生活できない人は罪人とされました。
更に「罪の汚れは伝染する」とされていたので、罪人と交際することを世間は嫌い、
罪人は仲間外れにされます。でもイエス様は、仲間はずれの罪人と親しく交わって
食事を共にし、病を癒し、神様について教えていました。これをエリートたちは、
ユダヤ教への挑戦と見て、イエス様を憎みました。「このまま放っていたら、社会の
秩序が乱れる。早くイエスを殺さなくては」と考えたのです。

そこでユダヤ教のエリートたちは、イエス様を殺すためのワナをしかけました。
浮気の現場で捕まった女の死刑をイエス様が認めれば、日頃、罪人と親しく交わる
イエス様の生き方にはウソがあると、訴えることが出来ます。また女の死刑に反対
すれば、律法を否定する罪人だと訴えることが出来ます。イエス様が何と答えても
イエス様を追いつめる仕掛けになっていました。

 でもイエス様は、ユダヤ教エリートたちに何も答えないで、屈んで、地面に指で
何か書いていました。彼らは、どう答えて言いか分からずイエス様が困っていると
思ったのでしょう。強気になって、しつこくイエス様に問い続けました。皆さんも
その場に一緒にいたと、想像してみてください。

 多くの人たちに囲まれた真ん中に女がいます。隣には、何も言わず、地面に何か
書いているイエス様がいます。イエス様のそばで勝ち誇ったように「何とか言って
みろ」とエリートたちが大声で迫っています。その声につられ、周りにいた大勢の
人も女をののしり、責めたてます。「そんな女は、石で打ち殺してしまえ!」。そう
叫んで、石を握りしめる人たちもいたはずです。

 誰にも知られたくない罪が、隠すことも言い訳することもできず、乱暴に多くの
人の目にさらされています。どこにも逃げ場がないまま、好奇と軽蔑と憎悪の目に
囲まれた女は、恐ろしさと恥に打ちのめされ、身動きも出来ません。このままだと
興奮した人たちが女に襲いかかり、石を投げつけ殺すかもしれません。どのくらい
時間がたったのでしょうか。イエス様は静かに立ち上がり、「あなたたちの中で罪を
犯したことの無い者が、まず、この女に石を投げなさい」とだけ言うと、また屈ん
で、地面に何か書き続けました。

 思ってもいなかった言葉が、イエス様から返って来ました。あれほど大声で叫び、
ののしっていた人たちの声が、イエス様の言葉を境に、シーンと静まり返りました。
そして年を取った者から一人、また一人とその場を立ち去り、女とイエス様だけが
残されました。女を捕らえたエリートたちさえ、そこにはいませんでした。

 イエス様の言葉は、そこにいた人を一瞬で自分の罪と向き合わせたのです。
そして皆、気づきました。自分の中にも絶対、人には知られたくない罪があること。
自分の記憶にも残さないよう、ずっと隠し続けていた罪があることに気づきました。
年を重ねるごとに罪も重なります。トゲある言葉で人を傷つけたこと。自分の得の
ために他人の足を引っぱったこと。人を憎み、人をねたみ、人をだまし、人を利用
してきたこと。数多くの自分の罪に、まず年を取った者が気づいたのです。だから
年を取った者から順に、その場を立ち去って行きました。

 今はネットで個人の隠し事も、たちまち多くの人の目にさらされてしまいます。
でも人に知られてしまった罪と隠されたままの罪と、どこが違うのでしょう。
人に知られ世間から叩かれた罪と、人には知られていない罪。どちらも同じ罪です。
小さな罪も、ずっと隠し続けた罪も、神様の目を逃れて隠し通すことは出来ません。
現場で捕らえられた女の罪は暴かれましたが、自分の罪は、たまたま暴かれずに
済んだだけです。交通違反のように、たまたま自分の罪は運良く暴かれずに済んだ。
しかし罪を暴かれて惨めな姿をさらしている女に、皆、自分を重ねて見ていました。
「あの姿は自分だったかも知れない」。だから誰も女に石を投げることができなくて、
立ち去って行ったのです。

 しばらくしてからイエス様は立ち上がり、「婦人よ、あの人たちはどこにいるのか。
誰もあなたを罪に定めなかったのか」と女に言うと、女は「主よ、誰も」と答えま
した。するとイエス様は言われました。「私も、あなたを罪に定めない」。

これは、とんでもない言葉です。女は現行犯で捕まったから、完全に有罪です。
しかしイエス様の「罪に定めない」という言葉は「あなたは罪人ではない。罪の
汚れは消されて、キレイになった。あなたは清い」と言う宣言なのです。

そして「あなたは清くされたのだから、清い者として、新しく生きて行き
なさい」、つまり「行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない」と女を
送り出しています。

 女は死刑になる罪を犯しましたが、殺されませんでした。罪人を殺す資格のある
人が、群衆の中にはいなかったからです。けれども罪を犯したことの無い神様の
御子イエス様だけは、罪人を殺すことが出来たのですが、殺しませんでした。

死刑になって当然の女をイエス様は罪に定めなかった。死刑にする代わり
にイエス様は女の罪を赦し、清められた者として、女を生かしました。女に
死ではなく、「罪の赦し」を与えた。だからイエス様から「罪の赦し」をい
ただいた女は「もう同じ罪をくり返さない新しい人」として生かされ、出か
けて行くのです。

 聖書は女について詳しいことは何も語りません。結婚して夫のいる身だったかも
知れません。愛の無い結婚生活で、夫を憎み、満たされない心を、浮気することで
紛らわしていたのかも知れません。でもそれは死に価する罪でした。女が死んでも
エリートや群集には、女の死は痛くも痒くもない。愛のない人は他人の死に無関心
です。そして愛の無いことが、神様への裏切りであり、「罪」なのです。

 トルストイの小説に「愛の無い人から耐えがたい死臭が漂う」と言う言葉があり
ました。浮気した女も、群集も、エリートにも、愛は無く、皆、死臭漂う死人です。
人の目には生きていても、皆、愛が無く、腐って死臭を放つ死人でした。

でも女はイエス様から「罪の赦しと言う愛」を受け取り、もはや死人では
なく、「愛され、新しく生かされた人」として、復活することが出来ました。
どうしてそんなことが可能になったのか。イエス様が「女の罪と死」を願わず、
神様の愛をもって「女の罪と死」を丸ごと、ご自分の体の中に、飲み込んで
くださったからです。

 使徒言行録で「人々が十字架で殺したイエス様を、神様は復活させた。自分たち
はイエス様が死から復活した事実の証人だ」と弟子のペトロたちが証言しています
(5:30-32)。女に「罪に定めない」と言ったイエス様が罪に定められ、十字架で死に
ました。イエス様の十字架の死は事実です。イエス様は全人類の罪を飲み込んで、
罪と死の底に沈みました。
でもイエス様は、死んだままではなかった。神様が、罪と死の底からイエス様を
復活させました。イエス様の復活も事実です。ペトロたちは「イエス様が十字架の死
から復活した歴史的事実」の証人であり、また目撃者です。 

 イエス様が実際に復活したから、罪と死は「神様の愛と復活の命に溢れる
イエス様」に近づけません。だからイエス様は、大胆に、罪と死の中に踏み
込んで行って、愛も無く、罪の中で死人となっている一人一人に、ご自分の
「愛と命」を分け与えて、新しく生かし、復活させることが出来るのです。

 イエス様は罪人を、あるがままの姿で受入れますが、罪人のままでは帰しません。
イエス様は、罪だらけのままの私達を抱きしめて、罪を赦し、「あなたは生きるに
ふさわしい。あなたは生きて良い。罪を離れて生きなさい」と、私達の命を
肯定し、私達を全く新しい人として生かしてくださいます。

 イエス様の復活は、私達と無関係な昔話ではない。イエス様は「罪と死」から
復活したから、私達のことも「罪と死」から救い出して、「愛と命」の中に
復活させ、新しく生かすことが出来ます。そして「罪から離れて生きなさい」
と宣言します。 

この宣言は、自分の罪に嘆き苦しむ者には、尊い恵みであり、生きる希望です。
イエス様から「生きて行きなさい」と宣言された女も、罪を離れ、新しく生き直す
恵みと希望と共に、一歩ずつ前に足を踏み出したはずです。

 イエス様の復活は、私達が死んでも、終わりの日に復活することを約束します。
でもそれだけでなく、今、罪の死臭を放つ私達に「新しく生き直す恵みと希望」を
与えます。イエス様の復活の力に信頼するなら、いつでも誰でも、神様から
「赦され、愛されている命」で復活し、新しく生き直すことが出来るのです。

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