日本基督教団御殿場教会  United Church of Christ in Japan Gotenba church

蛇のように賢く、鳩のように素直に

説教

タイトル:蛇のように賢く、鳩のように素直に
聖書  :マタイ福音書10:16-25
年月日 :2009.08.02
特記事項:

イエス様は12人の弟子達を伝道に送り出しました。でもそれは安全が保証された気楽な務めではありません。むしろ「狼の群れに、羊を送り込むようなものだ」と言われています。原文では「狼たちのド真ん中に羊を送り込む」となっています。そんな所に送られたら羊はどうなるか。無防備な羊は、たちまち狼の牙に倒されてしまいます。
神の御心を宣べ伝えていたイエス様自身、敵対する人々に捕らえられ、鞭打たれ、十字架で処刑されてしまいます。イエス様こそ、狼たちのド真ん中に入りました。
失われた羊を追い求めて、どこまでも出かけて行ったからです。
そのイエス様の後に、弟子達も続いて行きます。イエス様に従う弟子達は、地方法院(裁判所)に引き渡され、会堂で鞭打たれます。そして彼らは総督や王の前に引き出されて、証をすることになると予告されています。
しかし10:9以下を見ると、弟子達にはお金もなければ、身を守る杖もありません。ただ福音を語る権能と汚れた霊を追い出す権能を、イエス様からいただただけです。まさに弟子達は、羊のような全く無防備な姿で、狼の中に送り出されるわけです。狼の群れの中で、無力な羊はどうやって生き延びていくのか。そこでイエス様は、「蛇のように賢く、鳩のように素直になりなさい」と言います。
創世記3:1に「野の生き物の中で最も賢いのは蛇であった」と書かれています。その賢さを利用して、蛇はアダムたちを誘惑しました。そのため「蛇のように賢く」と言われると、何だか「ずる賢い」ようで、良い感じがしません。でも「賢い」とは「分別がある、思慮深い」と言う意味です。
自分の知恵、ガムシャラな自分の頑張りや熱意だけでは、羊は狼の群れの中を、生き延びることは出来ません。また17節で、「人々を警戒しなさい」と言っているように、安易に人を頼るだけでも、生き延びることは出来ません。
 必要なのは、どんな苦境に立たされても、蛇のように事態を冷静に見つめて判断する賢さです。自分を伝道に送り出したイエス様がどういうお方であるか、自分がイエス様からどういう権能を授かっているのか、蛇のように慌てず騒がす、静かに与えられている恵みを思い起こす思慮深さが必要です。
 従って、ここで言う「蛇のような賢さ」とは、どんな時でも、冷静にイエス様に信頼する賢さです。
 またそれに加えて「鳩のような素直さ」が求められています。素直と言う言葉には「純粋、混じりけのない聖さ」と言う意味があります。鳩は献げ物にもされるので、「神の献げ物となる、混じりけのない聖さ、純粋さ、素直さ」と言うことになります。でもなぜ狼の中に送られる弟子達に、純粋さ、素直さが求められるのでしょう。
 「証をするために引き渡されても心配ない。言うべきことは教えられる。話すのは弟子達ではなく、彼らの中で語る父なる神の霊だ」と、イエス様は言われました。弟子達の中で神の霊が働いてくださるから、狼の群れの中でも、弟子達はひるまず語ることができます。 
しかし自分の体の中で、神の霊が自由に働くためには、神の霊に自分のすべてを明け渡す純粋さが必要です。「神の霊が語る」と言ったイエス様の言葉を、疑わない素直さが必要です。ですから「鳩のような素直さ」とは、どんな時でもイエス様に真っすぐ信頼する素直さです。
今、祈祷会でエゼキエル書を読み始めたのですが、預言者とされたエゼキエルが送られるのは、ユダヤ人同胞です。しかし彼らは神の言葉に聞こうとしない強情な民で、額も心も硬いと言われています。当然、その中に送られるエゼキエルは多くの困難を経験することになります。そのために神は、ユダヤ人の強情さに負けないよう、エゼキエルの額をユダヤ人よりも硬く、ダイヤモンドのようにします。
でも神が硬くしたのはエゼキエルの額だけで、心は硬くしません。それどころか神の言葉をもらさず聞いて、心に納めるよう、神はエゼキエルに命じます。そして神はエゼキエルに、どこまでも神の言葉に聞き従う、心の素直さを与えるのです。
信仰者には、困難の中でも闘える丈夫さ、賢さが必要です。でもそれだけでなく神の言葉に向けて真っすぐ、大きく開かれている心が何より大切です。神の言葉を真摯に受けとめる、従順で素直な心が何より大切です。
蛇のように賢く、鳩のように素直に」。
全く別々のことを言っているようにも聞こえます。しかしその本質は同じです。どんなに困難な時も、冷静にイエス様に信頼する賢さ。イエス様にとことん委ねて信頼する素直さ。言い換えると、人ではなく、神に信頼する賢さと素直さです。
弟子達は非力な羊のようですが、しかし彼らに必要なものはすべて、イエス様が与えておられます。そのイエス様に支えられ、イエス様に信頼しながら、弟子達は狼たちの中に送り出されて行きます。
そしてイエス様に信頼すればするほど、ますます弟子達は「蛇のように賢く、鳩のように素直に」されて行ったことでしょう。でもその一方で、これまで弟子達を支えていた世間との関係は、否応なしにギクシャクして行きます。
21節「兄弟は兄弟を、父は子を死に追いやり、子は親に反抗して、殺すだろう。また私の名のために、あなたがたはすべての人に憎まれる」
教会は多くの迫害を経験して来ました。日本も長い間、キリスト教が禁じられていた時代がありましたが、教会への敵意がなくなったわけではありません。今日も家族や親戚との関係が悪くなることを心配して、洗礼をためらう人は多くいます。地方では、特にその傾向が強いように思います。
悪霊を追い出したイエス様を、人々は「サタンの親分ベルゼブルだ」と言いました(マタイ12:25)。イエス様でさえ中傷されたのですから、イエス様に従う者はさらに情け容赦なく中傷されることになります。
しかしイエス様を私達の救い主と信じる信仰は、時計やメガネのように外して、引き出しの中にしまっておけません。信仰は、これまで自分が座っていた操縦席を潔くイエス様に明け渡すことです。自分中心から神中心に、今までの生き方を切り変えることです。だから信仰者としての生き方は隠しようもなく、生活のすべてに現れていきます。
そのため、家族や親しい人たちに理解されない痛みや悲しみを、信仰者は味わいます。ここにも、そうした痛みや悲しみを抱えている方が、おられるでしょう。
 弟子達は一つの町で迫害されたら、別の町に逃げていくよう、命じられています。生き延びて別の町に行って、1人でも多くの人たちに伝道するためです。
でも家族の場合、そう簡単には行きません。愛する家族は、取替えがききません。家族は狼ではありませんが、強情で手ごわい羊です。それでは、頑なにイエス様を拒む夫や妻、子どもたち、両親や兄弟をどうすれば良いのか。 
私達は「蛇のように賢く、鳩のように素直に」なって、忍耐強く祈り、伝道するだけです。見込みゼロに思えても、家族の中に私と言う信仰者をイエス様が送ってくださった恵みを忘れない賢さ。何十年かかろうと、愛する家族が救われることを愚直に信じて、祈り、働きかける素直さ。神に信頼する賢さと素直さを忘れずに、私達は祈り、伝道します。
「最後まで耐え忍ぶ者は救われる」とイエス様は言われました。教会はこの言葉を信じます。愛する人たちの救いをあきらないで、最後まで耐え忍んで祈る人、伝道する人の信仰を、イエス様は空しくされません。
今日生きているのは、当たり前ではありません。今日私達が生きることを、神が望んでくださるから、私達は生きています。でも私達を愛する神は、その上さらに私達が死を越えて生きることを熱望してくださいます。
私達が今日、生きている以上に、私達が死を越えた命で生きることは、当たり前ではありません。本来ありえないことです。それなのに神はイエス様を、この世に送り込みました。狼の中に送り込みました。狼も神の家族とされて生きることを、神が熱望してくださるからです。 
狼は特別な人ではありません。パウロも教会を迫害する狼でした。私達も以前は教会に背を向ける狼でした。でもパウロも私達も、狼の群れの中に入ってきてくださったイエス様によって救われて、神の家族として生きることを赦されました。
「私が悪人の死を喜ぶだろうか、と主なる神は言われる。
私は誰の死も喜ばない。お前たちは立ち帰って生きよ、と主なる神は言われる」。(エゼキエル18:23,32)
すべての人が大切な神の作品です。だから神は、人が狼のまま、朽ち果てて行くことを喜びません。失われた羊だけでなく、狼の死も喜びません。そして1人でも多く救いたいから、1人でも多く神の家族として生かしたいから、神はイエス様を狼の中に、苦しみの中に、送り込みました。
 このイエス様の後に、私達信仰者は従って行きます。愛する人たちが神の家族とされること、私達と同じ永遠の命で生かされることを強く願いながら、イエス様の後に従って行きます。
それは、多くの苦しみを伴う道ですが、また同時に「私達のもとに来てくださる人の子・イエス様と出会う喜びの道」でもあります。私達を離れないイエス様に、心から信頼して、今週もそれぞれの場に遣わされて行きましょう。

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