日本基督教団御殿場教会  United Church of Christ in Japan Gotenba church

苦しみと慰め

説教

タイトル :「苦しみと慰め
聖書   : 2コリント1:1-7
年月日  : 2013-10-6
前回で第一コリントを読み終わり、今朝は第二コリントをお読みしました。隣り
のページに移っただけに見えますが、この間には様々な出来事が起きていました。
コリント教会は、使徒パウロが福音を宣べ伝えて生まれた教会でしたが、パウロが
コリント教会を離れると間もなく、教会は正しい信仰から離れて混乱していました。
そこでパウロは手紙によって、コリント教会を牧会し、正しい信仰に導こうとした
のですが、コリント教会の状況は、パウロが思っていた以上に深刻でした。何とか
教会を立ち直らせようと、必死で労苦しているパウロに対して、コリント教会では
悪意に満ちた噂が広がっていました
「パウロは本当の使徒ではない。にせものだ。何の推薦状も持っていなかった。
募金集めも自分がネコババするための口実だ。パウロは手紙を書くのはうまいけど、
直接、会って説教を聞いてみるとパッとしないし、つまらない」。
要するにコリントに宛ててパウロが書いた手紙(第一コリント)は、コリント教会を
立て直すどころか、教会はパウロを信用せず、受け入れてさえいなかったのです。
このことを同僚のテモテから聞いたパウロは、尚も手紙を書き続け、コリントにも
出向きましたが、何の収穫もなく、教会との溝は深くなるばかりでした。命を削る
ようにして産み、育ててきたコリント教会から拒絶され、はるばる教会に出かけて
行っても、追い返されるパウロの苦しみ、嘆きは、私達の想像をはるかに越えます。
「心を尽くして福音を語り、真実を語っても、聞いてもらえません。どうしたら
良いのか私には見当もつきません。神様、どうかコリント教会を助けてください」。 
失意のどん底でパウロはうめきながら、それでも神様に祈り続けたことでしょう。
「あっそう、勝手にすれば」と、敵意むき出しのコリント教会に見切りをつけて、
諦めるわけには行きませんでした。なぜならパウロの使徒性への不信は、パウロが
伝えた福音への不信にもつながるからです。そして正しい福音を疑い、放棄したら、
コリント教会は教会ではなくなってしまうからです。神様中心の教会ではなくて、
人間の思いが中心に立つ世俗集団の1つになってしまうからです。
自分を拒み、敵対するコリント教会に、なおも仕えて祈り、働き続けるパウロを
神様が顧みてくださいました。奇跡が起きました。あのコリント教会が悔い改めて
パウロが使徒であることを認め、彼が伝えた正しい福音信仰に、立ち帰ったのです。
血と汗と涙がしたたる苦しい信仰の戦いの末、ようやくコリント教会とパウロは、
神様から、和解の恵みをいただきました。その感謝にあふれて書かれているのが、
第2コリントの初めの箇所です。前置きが、ずいぶん長くなりました。
 挨拶のところでパウロはキッパリ「神様の御心によって、キリスト・イエスの
使徒とされたパウロ」と自分が神様によってキリストのものとされ、キリストの
ために働いていることを明確にしています。テモテはパウロと共にコリント教会の
ために仕えていました。そのパウロとテモテが、コリント教会を神の教会と呼び、
周辺(ギリシャ)にいる信仰者を聖なる者たちと呼んで、平和の挨拶をしています。
 コリント教会とパウロが激しい対立を乗り越えて、同じ福音信仰に立って和解し、
一致することが出来たのは、すべて神様の恵みです。だから3節で、慈愛に満ちた
神様を、パウロは心の底から、ほめたたえています。和解と信仰の一致に至るまで
パウロが苦しんだだけでなく、コリント教会もまた、苦しみました。
誇り高きコリント教会が自分達の過ちを認め、神様の前に膝を折って悔い改める
こと、また敵対してきたパウロと和解するのは、死ぬほどの苦しみだったはずです。
「間違っていた古い自分が死ぬ」苦しみです。私達もまた味わったことがある
苦しみです。いえ、日毎、私達が味わうべき苦しみです。
しかしコリント教会が神様の教会として立ち直るため、パウロが抱えた苦しみも、
またコリント教会が悔い改めて、パウロと和解し、正しい福音の中で一致するため
抱えた苦しみも、ただ苦しんだまま、苦しみのままでは、決して終りません。
4節「神は、あらゆる苦難に際して、私達を慰めてくださる」。
慈愛に満ちた神様は、苦しむ者を置き去りにはしません。苦しみの中に一時の
気休めではなく、神様を源とする「本物の慰め」をもたらしてくださいます。
いかなる苦しみも癒して、新たな力に変える「本物の慰め」が神様から届きます。
神様から生まれる慰めは、隠れた苦しみにも届きます。コリント教会のために、
パウロが山のように抱えていた苦しみにも、コリント教会の悔い改めの苦しみにも、
神様からの慰めが届きます。病気や仕事のことなど、私達の日々の苦しみの中にも、
神様の慰めが届きます。むしろ苦しみを通して、神様からの慰めが届きます。
そして苦しむことを通して、神様の慰めに満たされた人は、自分が慰められたら、
それで終りではなく、今度は周りで苦しむ人たちが神様の慰めで満たされることを
願って、そのために働きだします。「慰めの連鎖」が起こります。不思議ですが、
このことには「キリストの十字架の苦しみ」が、深く関係しています。
 人は昔から神様を拒み、罪を重ねてきました。にもかかわらず、神様はすべての
罪を、キリストお1人に負わせました。救われるはずもない者を愛して救うために、
神様はご自分の御子キリストを犠牲にします。キリストも、そういう神様の御心に
従順に従って、十字架の死の苦しみを受け入れます。キリストはロボットではあり
ません。私達と同じ体を受けて、世に来られました。十字架にクギづけされたら、
痛いし、血がふき出します。それでもキリストは、十字架の苦しみを引き受けます。
だからキリストの十字架の苦しみは、神様の御心に最後まで従い通す苦しみです。
神様に見捨てられても、命を失っても、すべての人を愛し通す苦しみです。
そしてキリストの十字架の苦しみから、「罪人への完全な赦し」が生まれました。
さらに十字架の死の苦しみから、「復活と言う、究極の命の慰め」が生まれました。
死に勝利したキリストの復活は、朽ちる命の私達にとって、最上級の命の慰めです。
キリストの苦しみは、救いのない所に救いを生み出します。慰めのない所に、
究極の慰めを生み出します。キリストの苦しみの中で、神様の救い、神様の
慰めが、実を結びます。キリストの苦しみと神様の慰めは、表裏一体です。
 最近まで、水をはった田んぼに稲が揺れていたと思ったのに、田んぼは稲刈りが
終っています。例えるなら私達はドロだらけの稲の苗で、キリストの十字架の血を
はった田んぼに植えられたのです。そしてキリストの血の中に植えられ、キリスト
の苦しみの中に根を張った私達は、キリストの血と苦しみに満たされることにより、
すべてを清められ、愛され、赦されて、キリストと同じ復活の命の実を結ぶ稲穂に
育てられます。私達はただのドロンコの苗だったのに、キリストの十字架の苦しみ
に満たされることで、神様からの豊かな命の実り、命の慰めに満たされるのです。
このことをパウロは、体験し、確信していました。
5節「キリストの苦しみが満ちあふれて、私達に及んでいるのと同じように、
私達の受ける慰めも、キリストによって満ちあふれているからです」。
 キリストの苦しみを通して、命の慰めに満たされたパウロだから、どんな悩みや
苦しみが襲いかかっても、自分を満たしている本物の慰めを、どこにでも持ち運ぶ
器となることを望みます。パウロに敵対するコリント教会にも、ひるんだり、手を
抜いたりしないで、本物の慰めと救いを、何度でも忍耐強く持ち運びます。
そしてパウロが苦しむことによって、コリント教会は正しい福音信仰に立ち帰り、
神様の慰めと救いを受けました。どんなに苦しんでも、「コリント教会が救われて、
神様の慰めを受けたこと」が、パウロ自身の慰めとなり、救いとなるのです。
キリストはご自分のために苦しんだのではなく、人が救われ神様から命の慰めを
受けるため苦しみました。キリストの苦しみから「慰めの連鎖」が始まっています。
そして他者が神様の慰めを受けることを願って働く[慰めの連鎖]は、他者が救われ、
慰めを受けるために苦しむことを、捨て身になって引き受け、出かけていく
「キリストの苦しみの連鎖」につながっています。この「キリストの苦しみ
の連鎖」に、パウロも、あのコリント教会も、つながったのです。
コリント教会はとんでもない群れでしたが、パウロたちと「キリストの苦しみと
神様からの慰め」を共有できる「神様の教会」に変えられました。そしてこれからも
苦しみと慰め」を共にする教会として、立ち続けることを信じてパウロは言います。
7節「あなたがたについて、私が抱いている希望は揺るぎません」。
 教会が誕生して2000年。御殿場に福音が伝わるまで、どれだけ多くの信仰者や
教会が「キリストの苦しみと神様からの慰め」をつなげてきたことでしょう。今度は
私達の番です。「神様からの命の慰め」を未来につなげていくため、あの人この人に
「本物の慰めと救いを持ち運ぶ器」となって、私達は働きます。そのためパウロの
ように、私達も人々の頑なさに出合って、また教会員の無関心に出合って苦しみ、
失意の底に沈むかも知れません。教会で「苦しみと慰め」を共にするのはムリだと、
落ち込むかも知れません。そういう時の私達のために、御言が用意されています。
「あなたがたが気力を失い疲れ果ててしまわないように、ご自分に対する罪人たち
のこのような反抗を忍耐された方のことを、よく考えなさい」。(ヘブライ12:3)
反抗的な私達を救い、神様の命の慰めにあずからせるために、誰よりも忍耐して、
誰よりも苦しまれたのはキリストです。このことを忘れるわけにはいきません。

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