日本基督教団御殿場教会  United Church of Christ in Japan Gotenba church

良くなることを望んでいるか

説教

タイトル :「良くなることを望んでいるか」   
聖書   : ヨハネ5:1-9
年月日  : 2016-04-03
特記事項 :

 ユダヤ教の祭りに備えて、イエス様は神殿のあるエルサレムへ上っていきました。エルサレムに上るというのは、地形的にエルサレムが高台にあったためです。また東京に行くことを「上京する」というように、神殿があるエルサレムは、ユダヤ人にとって神様の都、中心地、首都でした。エルサレムには幾つかの門があります。その中の一つ「羊の門」の傍らに「ベトザタ」と呼ばれる池がありました。恐らく人工的に作られた池だと思いますが、真ん中に仕切りがあり、池の周りには5つの回廊があります。そしてそこには病人、体の不自由な人たちが、大勢横たわっていました。と言うのも、池の水が動いた時、最初に池の中に入れば、病が癒されるという言い伝えがあったためです(天使が水浴して飛び立ち、天的な力が池に残されるから、最初に池に入った病人は癒されるという言い伝え)。

 でもベトザタの池のそばには神殿があります。病人なら、病気の癒しを求めて、神殿に行くのが筋です。それなのに多くの病人たちは、神殿ではなく、池の周りに集まり、身を横たえていました。と言うのも世間は、長患いや体が不自由になった原因は彼らが犯した罪のためだと考え、彼らを汚れた者と忌み嫌い、疎外します。汚れた者は、聖なる神殿に入ることが出来ません。そのため彼らは神殿ではなく、癒しの言い伝えのある池の周りに集まる他、なかったのです。

 イエス様は羊の門からエルサレムに入ると、そのベトザタの池に立ち寄りました。

 池の回廊は、大勢の病人で埋め尽くされています。そこに38年間、病気で苦しんでいる男に、イエス様は目を留めました。モーセ率いる荒野の旅でも40年ですから、38年は長いです。当時の平均寿命を考えても、38年は人生丸ごとの時間です。

 御殿場の神山に駿河療養所があります。元ハンセン病患者さんのための施設です。現在も60数名の方が入所されています。病気が完治しても、隔離政策が長く続いたため、世間の誤解や偏見が残っています。病による肉体的なつらさだけではなく、社会との交わりを絶たれて、誤解や偏見にさらされて来たつらさに38年、否、人生丸ごとの時間を食い尽くされた苦悩は、私達の想像をはるかに越えています。

 さてイエス様は38年間、病のために苦しみ続けてきた男に「良くなりたいか」と言われます。イエス様ともあろう方が、病人に何てアホの質問をするのでしょう。人生のほとんどの時間を病のために苦しんできたのだから、良くなりたいのは当然ではないですか。

 「良くなりたいか」。直訳すると良くなることを望んでいるか。もっと言うと「健全になることを志し、願い、欲しているか、また神様の御心としているか」、そこまで言えます。でもイエス様にそう言われた男は、「ハイ、良くなりたいです」とは答えずに、「主よ、水が動く時、私を池の中に入れてくれる人がいないのです。私が行くうちに、他の人が先に降りていくのです」と、自分が癒されない理由を、グチっぽく語りました。「水が動いた時、池の中に入れてくる人、自分に関心を持ち、助けてくれる人がいないから、自分には良くなるチャンスがない」と言うわけです。男の病は重く、医者もさじを投げ、人々から、また神殿からも見捨てられ、最後にたどりついた池でも、誰も助けてくれる人はなく、男は見捨てられていました。

 それでも池の周りに横たわる以外、男がいられる場所は、どこにもありません。一日中、池の水を眺めている以外、男が出来ることは、何もありません。こうして何年も過ごしてきたのでしょう。そのうち男の心の中から「良くなりたい」と言う願いも、「良くなる」と言う希望も消えて行きました。今、彼の中にあるのは「何も変わらないんだ」と言うあきらめ、無気力。そして「自分には神様の救いも奇跡も与えられないんだ」と言う深い絶望です。

 「良くなる」希望も願いも男の中に無かったから、イエス様に「良くなりたいか」と問われた時、男は「良くなりたいです」と即答できなかったのです。イエス様はそのことを見抜いておられました。男の中から希望や願い、生きる目当てが完全に失われていたことを、イエス様は見抜いておられました。 

 そして今度イエス様は、私達に向き直って「良くなりたいか」と問いかけます。私達は「イエス様を信じます」と告白し洗礼を受けています。礼拝を守っています。信仰生活をしています。しかし私達は、「自分が良くなること。真の人、新しい人、イエス様に似た者に変えられこと。目の前の人を愛して、赦すことが出来る人に変えられること」を本気で願い、希望し、信じているのでしょうか

 「イエス様から愛され、赦され、守られていること。神様が教会を通して私達を救い、神様の子供として、日々養い育て、成長させるために導いておられること。そして終わりの日にはイエス様と同じ栄光の姿で、死の中から復活させてもらえること」を、私達は本気で期待し、希望と喜びを持って、信じているのでしょうか。ご自分のことです。ちょっと考えてみてください。

 「どーせ自分の人生はこんなもの」と決めつけ、自分が変えられることを信じて、期待するのを、忘れてはいませんか。「良くなりたい、新しく造り変えられたい」と願おうともしないで、始めから、あきらめてはいませんか。

 言い換えるなら「神様の全能に信頼して、神様に心底願うことを忘れている。神様の力に期待することをあきらめている。自分が新しい人になること、良くなることを、神様の御心だと信じ切れない」。そんなことになってはいませんか。

 だとしたら「良くなること」をあきらめて、池を眺めていた男のように、私達もまた「自分が良くなること」をあきらめて、何の期待も希望も持たず、ただ惰性で信仰生活をしていることになります。それでは伝道しても、説得力がありません。

 しかしイエス様が男のあきらめを見抜いて、見逃さなかったように、私達の中のあきらめも見逃しません。男が、そして私達が「良くなること」をあきらめても、イエス様だけは、男が、そして私達が「良くなること」を決してあきらめません。

 「人々が、イエス様によって良くなること、救われること」は、神様の御心です。そしてイエス様は、神様の御心に忠実に従って、昔も今も働き続けておられます。だからイエス様は、38年間、病に苦しみ横たわっていた男に「起き上がりなさい。床を担いで歩きなさい」と命じました。
すると男はすぐ良くなって、今まで自分が寝ていた床を担いで歩き出しました。イエス様は男に「起き上がりなさい」と命じることで、「あなたが良くなることが、神様の御心なのだ」ということを、男に対して、具体的に現わしたのです。
 
 イエス様が言われた「起き上がりなさい」と言う言葉には、「復活しなさい」と言う意味があります。そしてイエス様は元々、万物を造られた神様の言葉そのものであり、神様の言葉が肉体を取ったお方です。だからイエス様の言葉には、神様の全能の力がつまっています

 そのためイエス様の力ある言葉で「起き上がりなさい」つまり「復活しなさい」と命じられた男は、最早あきらめや絶望の中に留まってはいられず、病を癒され、良くなった者として起き上がり、新しく復活しました。イエス様が命じた言葉が、男の中に、そのまま現実の出来事となって、起きたのです

 先週は、イースターでした。神様が、死の中からイエス様を、復活させました。

 「神様が全能だ」ということを忘れている人々にとって、イエス様の復活の事実は、神様の全能を確信させられる決定的な証です。

 そして死に勝利したイエス様の復活から、揺るぎない、本物の希望が来ます。時代や社会の移り変わり、死に直面しても、なお揺るぎない本物の希望です。「イエス様に続いて復活する」と言う本物の希望です。占いや人間の勝手な思い込みなどから、本物の希望は出て来ません。

 実際、イエス様の復活を通して神様の全能を確信して、激しい迫害の中でも殉教の死を恐れず、「イエス様に続いて復活する希望」に生かされた無数の信仰者たちがいつの時代にもいたから、2000年と言う「歴史のふるい」にかけられても、信仰者の群れ・教会は滅びなかった。滅びるどころか世界中に広がって、今日も世界中で教会は「復活と言う本物の希望」を宣べ伝えています。

 そしてイエス様は、力ある言葉で、私達にも命じておられます。

 「ぬくぬくと慣れ親しんだ無気力、あきらめ、絶望の寝床から潔く起き上がり、復活しなさい。神様の全能、神様の御心を信じ、日々新しい人に造り変えられて、良くなりなさい。神様が与えてくださる救いの確かさ、復活の希望に、いつも目を覚ましていなさい。ベトザタの池に留まっていないで、神様の救い、復活の希望を目指して、日々歩き出しなさい。恐れることはない。私が共にいる。私はあなたを愛して、あなたを助ける。あなたに目を留め、あなたを決して見捨てない」。

「私達が良くなること」を望んでくださる神様の御心が行われるのは、復活のイエス様が共におられる、この礼拝の場です。だからここは、昨日までの古い自分が死んで、新しい自分が生まれる「私達の復活の場」です

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