日本基督教団御殿場教会  United Church of Christ in Japan Gotenba church

聖霊によって

タイトル :「聖霊によって」   
聖書   : ヨハネ1:29-34  
年月日  : 2015-5-24
特記事項 : ペンテコステ礼拝

ヨハネは前の箇所で「来るべきメシアを指し示すために、荒野で叫ぶ声。それが私だ」と証言していました。そしてヨハネの所に来られたイエス様を見て言います。
「見よ、世の罪を取り除く神の子羊だ」。
 ヨハネが荒野で叫びながら証言して来た方。彼の後から来られて、彼には履物の紐を解く資格もないほど、尊いお方がついに来られました。イエス様です。
 31節と32節で、2度「私はこの方を知らなかった」とヨハネは言っています。メシアが来られると証言していましたが、その方がどこの誰なのか、ヨハネは知りませんでした。でも神様は、ヨハネにメシアの見分け方を、告げておられました。
 33節「霊が降って、ある人に留まるのを見たら、その人が、聖霊によって洗礼を授ける人である」。
 ヨハネ福音書はイエス様の洗礼場面について、詳しいことを書いていませんが、ヨハネが水の洗礼を授けているヨルダン川に、イエス様が来られて洗礼を受けた時、神様がヨハネに告げていた言葉通りのことが起きたのです。洗礼を受けたイエス様の上に聖霊が留まっています。
 34節「私はそれを見た。だから、この方こそ神の子であると証したのである」。イエス様に聖霊が降り、聖霊が留まっているのをヨハネは目撃しました。「まさしくこの方こそ、神様が予告されていた聖霊によって人々に洗礼を授けることができる神の子。そしてこの世のあらゆる罪を取り除くために、神様が遣わしてくださったメシア・救い主であり、神様の子羊だ」と、ヨハネは知りました。
 旧約聖書には、「神様から遣わされたメシアが、人々を救う」という神様の約束が記されています。このことはイスラエルの民ならだれでも知っていることです。でも「人々が何千年も待ち焦がれていたメシアが目の前にいる。聖霊に満たされた姿で、私の目の前に立っている。でも目の前におられるメシアは、英雄ダビデとは、全く違うメシアだ。世の罪を取り除くために、無抵抗のまま【いけにえ】とされる神の子羊としてこられたメシアだ」と、ヨハネは、イエス様が何者であり、何のためにこの世にこられたのかを知って、私達に証言しています。
 始め、ヨハネはメシアが誰なのか、知りませんでしたが、でも聖霊に満たされたイエス様を見て、イエス様がメシアだと知りました。その場には他の人たちもいたはずなのに、なぜヨハネだけが、イエス様をメシアと知ることができたのか。
 聖霊によってです。昔からずっと、ヨハネに聖霊が働いていたから、聖霊に導かれていたから、ヨハネは自分の力ではなく、聖霊によってイエス様がメシアだと知ることができました。聖霊は絶えず人々に働きかける神様です。しかも人の目に隠されている奥義、神様の真実を知らせ、悟らせ、信じることができるよう働きかけてくださる神様です。この聖霊が、私達にも現実に働いているから、私達は聖霊に導かれて、聖霊の宮である教会の中で今、礼拝を捧げているのです。
 「世の罪を取り除く神の子羊」とヨハネはイエス様について、証言しました。これについていろいろな解釈ができますが、どうしても忘れられないのが出エジプトの出来事です。大昔、エジプトで奴隷の民だったイスラエルの民を、エジプトから脱出させるため、神様はイスラエルの家の戸口に、子羊の血を目印として塗るよう命じました。するとその夜、死がエジプト全土を襲い、人も家畜も最初に生まれた子供は皆、死にましたが、戸口に子羊の血を塗っていた家の前は、死が過ぎ越して行きました。神様の力の恐ろしさを思い知ったエジプトの王は、イスラエルの民の解放を決意して、彼らはエジプトを脱出することができました。この出エジプトの出来事を祝って、今も行われているのが、ユダヤ教の過越祭です。
 そしてヨハネ福音書では、子羊がほふられる過越祭の当日、イエス様は十字架で殺されます。このことから、ヨハネ福音書では「子羊の血によって奴隷の足枷から解放された出エジプトの救いの歴史」「イエス様が、神の子羊として十字架で死ぬことによって、神様に背き、罪の奴隷となっているすべての人を、罪の足枷から解放して、神様の地涌な民として生かすこと」が、重なっています。
 「世の罪を取り除く神の子羊」
「取り除く」という言葉には「ひろい上げる、取り上げて運び去る、片づける」と言う意味があります。福島原発の汚染水や各地の原発から出る放射能のゴミ。誰が引き受けて、完全に処理してくれるのでしょう。誰も引き取れないし、片づけられない。人の罪も同じです。自分の罪も認めたくないのに、他人の罪まで引き取り、片づけるなんて、ありえません。でもそのありえないことをするために、神様からこの世に遣わされて、十字架上で、ほふられた子羊となることで、1人1人の罪をすべて引き取り、片づけ、すべての罪を完全に清めてくださったのがイエス様です。これが神の子、メシアであるイエス様の務めです。
 だから人として生まれた者は、皆、イエス様のお世話になっています。信仰者であるなしにかかわらず、「自分が犯した罪の最終処分場が、十字架につけられたイエス様の体だ」ということを、ほとんどの人が知りません。いえ、自分に罪があると言うことでさえ、知りません」
 神様から、メシアのための露払い、先触れ(予告)として用いられたヨハネさえ、「私はこの方を知らなかった」と言ったように、イエス様がメシアだと知りませんでした。しかし聖霊によって、ヨハネはイエス様がメシアであり、神の子であり、世の罪を取り除く神の子羊だと言うこと、隠されていた神様の奥義、神様の真実を知ることができました。&br 私達も同じです。ただ聖霊によって、目に隠されていた自分の罪を知ります。私達は自分でも、親でも処分できない罪があることを、聖霊によって知ります。そして十字架で死んだイエス様の血により、どんなに深い罪も完全に処分され、完璧に清められることを、聖霊によって知ります。信仰者はこれを2000年前から聖霊によって知り、信じ、告白してきました。そしてこれからも、「自分達の罪の最終処分場が、十字架のイエス様だ」と、聖霊によって知り、イエス様をメシア・救い主・キリストと、聖霊によって信じ、感謝し、喜んで世界中に告白していきます。
 今朝は弟子達にイエス様が約束していた聖霊が降ったことを記念する礼拝です。ヨハネ福音書では、復活したイエス様が家に閉じこもっていた弟子達に「聖霊を受けなさい」と言い(20:22)、罪の赦しを宣べ伝えるため、弟子達を世界中に遣わします。臆病な人々が聖霊を受けて、神様のために、大胆に働く者へと変えられました。
 人を私利私欲のためではなく、神様が喜ばれるように、根本的に変えることができるのは、聖霊の力です。だからイエス様は、聖霊によって私達に洗礼を授けてくださるのです。先月も洗礼が行われました。牧師が水を注ぎ、洗礼を授ける時、同時にイエス様が聖霊を注いでおられます。洗礼を受けても姿形は変わりませんが、今まで気づかなかったこと、知らなかったことを、徐々に知り、体験していきます。
 私達はヨハネのように、イエス様を直接見ることは出来ませんが、聖霊が満ちている礼拝の中で、神様の言を聴き、神様の言に触れられ、神様の言を食べることで、イエス様を自分の体で知って、体験していきます。そしてイエス様を知ることは、神様を知ることです。またイエス様を十字架につけてまで、私達の罪を赦して新しく生かそうとする、私達への神様の愛の深さを知ることにもつながります。
 明解カテキズム問い1「私達が生きるために、最も大切なことは何ですか」。答え「神様を知ることです」。この問いと答えのもとになっているのが、カルヴァンの「ジュネーブ教会信仰問答」の問い1「人生の主な目的は何ですか」、問い3「人間の最上の幸福は何ですか」。その答え「神を知ることです」
 私達に神様を現してくださる唯一のお方イエス様を、聖霊によって知っていく。これは言い換えると、「イエス様を通して、私達が神様から愛されている深みをますます聖霊によって知っていくことであり、生きる目的、最上の幸福が明らかにされて、聖霊に導かれつつ、神様に向かって真っすぐ地道に歩いていくこと」です。イエス様は「すべての人が神様から愛されていること」を分かってほしいから、「聖霊を受けなさい」と言われます。礼拝の中で豊かに聖霊を受けて、イエス様を知り、神様の愛を体験して、私達が最上の幸福に招かれていることを知りましょう。

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