日本基督教団御殿場教会  United Church of Christ in Japan Gotenba church

聖書に従って、三日目によみがえり

説教

タイトル:「聖書に従って、三日目によみがえり
聖書  : ルカ24:36-49 
年月日 : 2012-4-8
特記事項:イースター礼拝(ニカイア信条講解)

        
十字架で死んだイエス様が復活された。「これはウソじゃない。イエス様ご本人に
私は出会ったのだから」。「私達もこの目でイエス様を見たし、話もしたよ」。
イエス様の復活について、弟子達が集まり、あれこれ話していると、そこに突然、
イエス様ご自身が現われて、「あなたがたに平和があるように」と声をかけました。
弟子達は、とたんに固まってしまいました。イエス様が復活したと言う仲間の話は
聞いたけど、それでも弟子達の多くは半信半疑でした。でも今、彼らの真ん中に、
十字架で死んだイエス様、否、死から甦ったイエス様が現われて、その声を聞いた
のです。でも弟子達は「イエス様の幽霊だ」と、恐れおののいています。
人は常識や経験など、自分の囲いの中に入れるものしか、受け取ろうとしません。
「人は死んだら、オシマイ。死からの復活なんてありえない。死んだ人が現れたと
したら、それは幽霊か幻覚だ」。弟子達の思っていたことと、今、私達が思っている
ことも、たいして変わらないのではないでしょうか。
 イエス様は、ユダヤ人によって苦しみを受けて、殺されること、そして三日目に
復活することを、何度も弟子達に予告しておられました。弟子達は「ふんふん」と
分かったような顔をして、イエス様の話を聞いていました。でもまさか自分たちが
救い主だと信じていたイエス様が、予告した通りに、本当に十字架で死ぬなんて、
思ってもいません。まして死んだイエス様が復活するなんて、完全に想定外です。
イエス様の復活は意外すぎて、自分たちの囲いの中に入りきれません。だから復活
したイエス様を見たとたんに、イエス様を幽霊だと思って、弟子達は恐れおののき、
ガタガタ震え上がったのです。この有様にイエス様は「やれやれ、あれほど言って
おいたのに、私の復活を全く信じないなんて、仕方のない弟子達だなぁ」と思った
でしょう。そこでイエス様は彼らに言っています。
 38節「なぜうろたえているのか。どうして心に疑いを起こすのか。私の手や足を
見なさい。まさしく私だ。触ってよく見なさい。亡霊には肉も骨もないが、あなた
がたに見える通り、私にはそれがある」。
よく日本では「幽霊には足がない」と言いますが、イエス様はご自分が幽霊では
ないことを彼らに分からせるために、ご自分の体を見せて、触らせます。弟子達
の前におられるイエス様の手足には、十字架にクギづけになった傷跡がありました。
脇腹には、ヤリで刺された傷跡がありました。恐る恐る弟子達は、イエス様の体に、
また傷跡に触ったのでしょう。そしてお顔を見ると、やっぱりイエス様です。
この時、ありとあらゆる常識、知識、経験が、一気にぶっ飛びました。十字架に
つけられて殺され、墓に葬られたイエス様が、十字架の傷跡をつけたまま、生きて
ここにいる。しかもその体は、自分たちが触っても消えない。顔と顔を合わせて、
イエス様が弟子達に語りかけている。日本風に言うなら、イエス様には足がある。
足だけでなく、手も肉も骨もある。イエス様にはちゃんと体があって、生きている。
「本当にイエス様だ。イエス様は死んだけど、イエス様は本当に死から甦った。
イエス様は本当に、死から復活された」。
今見ている現実は、信じがたいことだけど、でも動かしのようのない現実です。
信じて受け入れるしかない現実です。それを更に確かにするため、イエス様は「何か
食べるものがあるか」と聞いて、焼き魚が出されると、弟子達の前で食べ始めました。
これまで弟子達と食事をしていた時と同じように、イエス様は焼き魚を手にとって、
口に運び、食べました。幽霊は食事が出来ません。でもイエス様は食事をしました。
ここでハッキリしたことは、「イエス様の復活は、体のある復活だ」ということ
です。復活は、「弟子達の記憶の中にイエス様が甦った」ということではありません。
イエス様が「明確な体、客観的な体」を持って、死の中から復活されたのです。
でもその体は、これまでの地上の体とは違います。私達のように年と共に衰え、
やがて死を迎え、朽ち果てて行く体ではありません。
復活のイエス様が弟子達に現わした体は、これまでとは全く別の新しい体です。
永遠の命にも耐えられる朽ちることのない体、「永遠の命の入れ物となれる体」です。
「朽ちることのない体」、「罪も死も、近づくことが出来ない永遠の命の体」、
「神様と永遠に生きることが出来る体」です。永遠の命と体、新しい体で復活した
イエス様には、地上の食べ物は必要なかったかもしれません。でも弟子達にご自分
の復活を何とか悟らせたくて、イエス様はご自分の復活の体を弟子達に触らせたり、
魚を食べて見せたりして、弟子達のために一生懸命、歩み寄ってくださるのです。 
 私達にも愛する人や大切なものがあります。愛しているから、大切だから、いつ
までも一緒にいたい、いつまでも一緒に生きて行きたいと願っています。
そして神様が愛しているのは、私達です。私達を愛しているから、永遠に私達と
生きることを神様は願ってくださり、そのために必要な準備を、神様の御子である
イエス様を通して、すべて整えてくださったのです。
でも冷静に考えると、ムチャなことです。神様は永遠ですが、私達の命は限りが
あります。第1、罪の毒気をハラに抱えている私達は、聖なる神様に近づけません。
神様の聖さに近づいたら、雷に打たれたように、私達はたちまち滅びてしまいます。
だからそのために神様が計画されたのは、私達の罪をすべてイエス様に償わせて、
私達の罪をきれいに洗い流して、私達を「罪のない聖なる者・罪赦された者」とする
ことです。そしてこの神様の計画が成功した証が、イエス様の十字架の傷痕です。
イエス様の十字架の傷痕は、ただの傷痕ではありません。「すべての人の身代わり
となって神様に呪われ、見捨てられて、神様から最も遠い陰府の底に降り、完全に
すべての罪の償いを果たした」と言う永遠のしるし。神様が押した実印です。
十字架のイエス様の体に刻まれた無数の傷痕。だけどその無数の傷痕から、
血しぶきのように、無数の神様の恵みが、すべての人に向かって、ふき出します。
「罪の赦し。死よりも強い復活の命と体」、こんなにすばらしい神様の恵みが、
十字架の傷痕から、私達に向かって、ふき出します。罪と死の傷から、「罪と死を
越えた永遠の命の体」が産まれます。イエス様の深い傷の中から、神様の尊い
恵みが産まれるのです。帝王切開でお腹を切って、赤ちゃんを取り上げるみたい
です。そして神様は実際、イエス様の十字架の傷の中、死の中から「全く新しい命
と体の復活のイエス様」を取りあげました。「復活のイエス様」を誕生させました。
「完全な罪の赦し、死からの甦り、永遠の命と体」。十字架の傷の中から生まれた
神様の恵みを、告げ知らせるために、イエス様はご自分の復活の体をモデルにして、
弟子達の前に現れました。十字架で死んだ体が、死より強い復活の体に変えられた
ことを、弟子達に見せてくださいました。イエス様を救い主と信じる者に、神様が
準備してくださっている恵みを、イエス様はご自分の復活の体を通して、弟子達に
具体的に見せてくださったのです。
今、皆さんに語っていることは、常識では考えられない、信じがたい話でしょう。
でもこれは作り話ではなくて、聖書が証言し続けている真実です。だからニカイア
信条(東方教会、カソリック教会、プロテスタント教会、全世界の教会が告白している
信条)は、「聖書に従って、三日目に甦り」と昔も今も告白し続けています。つまり
イエス様は勝手に十字架で死んだり、勝手に復活したのではなく、聖書に告げられ
ていた神様の言葉が、イエス様の上に実現したのです。
「彼が刺しぬかれたのは、私達の背きのためであり、彼が打ち砕かれたのは
私達の咎のためであった。彼の受けたこらしめによって、私達に平和が
与えられ、彼の受けた傷によって、私達は癒された」(イザヤ53:5)
「主は我々を引き裂かれたが癒し、我々を打たれたが、傷を包んでくださる。
2日の後、主は我々を生かし、3日目に立ち上がらせてくださる」(ホセア6:1-2)
これらは、イエス様が誕生する何百年も前の聖書の言葉ですが、実現しました。
このような聖書箇所はキリがないほど、たくさんあります。日本では馴染みの薄い
聖書ですが、でも聖書の言葉の通り、神様の御心の通りに歴史は進んで行きます。
自分の思いを優先させたい私達人間は大いに抵抗しますが、それでも聖書の言葉は
必ず実現します。神様の言葉は真実だから、必ず一人一人の上に実現します。
昨年の3.11以降、私達は大きな不安に包まれて、目指す目標が分からなくなって
います。苦しみや悲しみを、どうやって癒したら良いか、分からなくなっています。
こういう時こそ自暴自棄にならず、私達は聖書の言葉に静かに聞く必要があります。
「私の父の御心は、子を見て信じる者が皆、永遠の命を得ることであり、私が
その人を終わりの日に、復活させることである」(ヨハネ6:40)
 「キリストは万物を支配下に置くことさえ出来る力によって、私達の卑しい体を
  ご自分の栄光ある体と、同じ形に変えてくださるのです」(フィリピ3:21)
「泣きやむがよい。目から涙をぬぐいなさい。あなたの苦しみは報いられると、
主は言われる。あなたの未来には希望がある、と主は言われる」(エレミヤ31:16-17)
混沌とした時代こそ、揺るがない真実の言葉に立って、生きなくてはなりません。
朽ちる命だけでなく、イエス様から永遠の命を受け取って生きなくてはなりません。自分だけでなく、家族や隣人、すべての人が、永遠の命で生きなくてはなりません。

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