日本基督教団御殿場教会  United Church of Christ in Japan Gotenba church

立ち帰って、生きよ

説教

タイトル:「立ち帰って、生きよ

聖書  : エゼキエル18:23, 30-32, ローマ8:31-38
年月日 :2010-4-4
特記事項 :イースター礼拝

 2000年前、十字架で息を引き取ったイエス様を、神様は3日目に復活させました。
このことが、今の私達と一体どのような関係があるのか。イエス様の復活が私達にどのような救いをもたらしているのか、そのことを御言を通して聞いてみましょう。
 聖書には旧約と新約がありますが、旧約に出てくる神様は悪人を懲らしめる怖い神様と言う印象があり、実際、旧約には神様の審きのことがたくさん出てきます。と言うのも、人は神様の言葉に聞こうとはしないで、自分のエゴを最優先させて、神様に審かれても仕方ない悪事を、大昔から、山ほどやってきたからです。しかし最初にお読みしたエゼキエル書には、思いがけない神様の言葉が書かれています。
23節「私は悪人の死を喜ぶだろうかと、主なる神は言われる。彼がその道から
立ち返ることによって、生きることを喜ばないだろうか」。
 神様は正義の神様ですから、罪を犯した悪人には死刑判決を言い渡します。でも神様は悪人の死を決して喜ばないのです。神様の本心は、悪人が罪のために死ぬのではなくて、悪人が神様に立ち帰って、生き直すことにあります。32節にも「私は誰の死をも喜ばない」と言っておられます。
誰であれ、人はすべて神様の作品です。それぞれが神様にかたどって造られた、この世でたった一つのオリジナルの作品です。その一人一人が、罪を犯して滅んでしまうこと、また他人を傷つけ滅ぼしてしまうことを、神様は決して喜びません。誰であれ、人が罪の中で死ぬことを、神様は決して喜びません。ご自分が手がけたすべての人を、神様は深く愛しておられるからです。
 そこで神様は人が罪の中で死なないように、いや、悪人が罪の中で滅びないように、いや、罪に死んだ悪人たちが新しい命に復活するように、とんでもない救いのご計画を立てられました。
 そのためにこの世に送られたのが、神様の独り子イエス様です。時代劇に、時々井戸が出てきます。綱で結ばれた2つの桶が、滑車の両側に垂れ下がっています。片方が井戸の底まで沈むと、もう片方が水を満タンにして上がってくる仕組みです。
 先程の信仰告白の中にも出てきましたが、イエス様は「十字架につけられ、死にて葬られ陰府に降りました」。悪人たちが犯した罪のために死に、滅ぼされた陰府の底にイエス様が降って行きました。そしてこのことと引き換えに、陰府の底に沈んでいた悪人たちが、神様のもとに引き上げられていくのです。悪人たちが罪のない者、聖い者とされて、神様のもとに引き上げられていくのです。
 彼らを、最も高い所、神様の所まで引き上げるには、イエス様が最も低い所まで降らなくてはなりませんでした。だからイエス様の桶・十字架には、すべての人のありとあらゆる罪の重さが、ズッシリと、のしかかっています。貪欲、妬み、中傷、絶え間ない争い、戦争。とても言葉には言い尽くせない悲しく残酷な罪の重さを、イエス様の十字架がすべて引き受けて、陰府の底に沈んで行かれました。これは、旧約で約束され、新約において実現した、私達のための神様の救いのご計画です。
 旧約の中で「私は悪人の死を喜ぶだろうか」と言われた神様は、事実、悪人を死に渡す代わりに、イエス様を死に渡されました。悪人を死の中から、陰府の底から、救い出すために神様は何も惜しみません。ご自分の御子さえ惜しみません。神様が惜しんだのは御子の命ではなくて、悪人の命、罪人の命、私達の命です。どんな罪を犯しても、私達への神様の愛は変わりません。旧約も新約も、同じ神様です。同じ愛の神様です。何にも換えがたいほど私達を慈しみ、どこまでも追いかけて、愛し抜いてくださる神様です。
 イエス様が陰府の底に降ったことで、軽々と私達は神様のもとに立ち帰ることが赦されています。悪人たちが、神様のもとに引き上げられ、神様と共に生きること、神様のものとされて、新しく生き直すことが赦されています。そのことを神様自身が「立ち帰って生きよ」と私達に向かって叫び、熱望してくださるからです。
 立ち帰るとは、自分中心になって陰府の底に突き進む方向から、神様に向かって向きを変えることです。イエス様の十字架と引き換えに用意された「神様行きの桶」に乗ること。片足だけでなく、全身を「神様行きの桶」に委ねて、神様に向かって引き上げられていくのを喜ぶことです。そしてこの立ち帰りを、神様が大喜びして迎えてくださるのです。
 ローマ書8章31節で、パウロは「神が私達の味方であるならば、誰が私達に敵対できますか」と言っています。神様が私達の味方なのです。私達が罪を犯す者、悪人だと知っているのに、それでも神様は、私達の味方になってくださるのです。神様が私達を愛して、神様が私達に味方してくださる。私達の味方だから、私達が滅びないで、神様に立ち帰って生きるためなら、神様は何でも与えてくださいます。イエス様の命さえ与えてくださいました。その確かな証が、私達への無罪判決です。
 33節「人を義としてくださるのは神なのです」。
神様が、有罪のはずの私達に「あなたは無罪、罪が無い」と、完全な無罪、完全な赦しを宣言してくださいました。この無罪判決は、イエス様の十字架があるから、取り消されません。そして神様が私達に、無罪判決を宣言してくださったということは、「生きよ」と言うことです。「あなたは生きて良い。生きなさい。死んではならない。あなたには生きる価値がある」と神様が言ってくださるのです。
どんなに世の中が進んでも、人の生きにくさは変わりません。あれも出来ない、これもダメ。家庭から、職場から、社会から、自分は要らない者だと思われている。夫失格、妻失格、親失格、社会人失格、人間失格。せっかく神様のもとに引き上げられたのに、私達の体には、いつの間にか、目には見えないダメ押しの「×印」が、ビッシリはりついてしまいます。
それでも神様は私達の味方です。私達に無罪を宣言して「生きよ、生きなさい。あなたには生きる価値がある。あなたは生きて良い」と神様が言ってくださいます。
ここに私達が生きても良い理由があります。「生きよ」と言う神様の言葉の中に、神様の愛の言葉の中に、私達が生きても良い理由、生きるべき理由があります。
しかも「生きよ」と言う言葉は、イエス様を陰府の底から立ち上がらせ、永遠の命の中に復活させた力ある言葉です。それと同じ力ある言葉で私達を、どんな最低最悪のどん底からでも引き上げて、神様のもとで生かしてくださいます。
それだけではありません。地上の生活を終えて、やがて迎える終わりの日の審判では、復活したイエス様が神様の右にいて、私達が本格的に永遠の命で生きられるよう、私達を弁護し、とりなしてくださいます。イエス様もまた私達の味方となり、「永遠の命で生きよ。私と同じ復活の命で生きよ」と言ってくださいます。そして私達が、イエス様と永遠に生きることを願ってくださるのです。
 この手紙が書かれた当時、パウロなど信仰者たちは連日、激しい迫害の中におり、常に劣勢でした。にもかかわらず、パウロは堂々と、こう言いきっています。
 37節「私達は、私達を愛してくださる方によって、輝かしい勝利を収めています。」
「勝利」と言う言葉は、「圧倒的な大勝利」と言う意味です。目の前の現実以上に、パウロの目に焼きついていたのは、罪ある者の味方になってくださる神様の愛です。
悪人を陰府の底から復活させて「立ち帰って生きよ」と言ってくださる神様の愛です。
 パウロたちは神様の愛に守られ、神様の愛の中にいました。神様の愛の中にいるとは、神様の命の中にいると言うことです。迫害、苦しみ、病、死。どんなに力を持つものでも、神様の愛の砦を破り、神様の愛と命から、信じる者たちを引き離すことはできません。パウロはそのことを確信していました。だから、どんなに踏みつけられて、「一日中、死にさらされて」も、なお信じる者たちが、「命の大勝利を収めていること」を、パウロは信じて疑いません。
 今、私達を神様の愛と命から引き離そうとしているものとは、何でしょう。自分中心な思い、神様を忘れたエゴイズム。そこから生まれる不平不満、憎しみ、争い。そんな罪の誘惑から「立ち帰って、生きよ」と神様は言い、そのために「あらゆる背きを投げ捨てて、新しい心と新しい霊を作り出せ」(エゼキエル18:31)と命じます。
 もちろんそんなことは、私達には出来ません。だから神様は、今も生きて働いておられる復活のイエス様を、私達にくださいました。陰府の底から、ひるがえって神様の永遠の命の中に復活したイエス様が、私達の中で、神様に忠実な「新しい心と新しい霊」になってくださるのです。そして私達の中におられる復活のイエス様が、「立ち帰って、生きよ」と言う神様の言葉を真っ先に聞き取って、命の大勝利に向かって、私達を内側から突き動かし、導いてくださるのです。
 「私は誰の死をも喜ばない。お前たちは立ち帰って、生きよ」(エゼキエル18:32)。
これは神様の愛から出た本音です。だからこそ神様は、十字架で死に陰府に降ったイエス様だけでなく、今も生きて働く復活のイエス様を、私達にくださるのです。
  

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