日本基督教団御殿場教会  United Church of Christ in Japan Gotenba church

私達を命に導く神の言葉

説教

タイトル :「私達を命に導く神の言葉
聖書   : 出エジプト記12:21-36    
年月日  : 2013-8-4
特記事項 :夏期キャンプ前の合同礼拝 

今朝は礼拝後、富士教会との合同キャンプに行きます。今年のキャンプの主題は
私達を命に導く神の言葉」。これは教会学校の8月の教案誌、また明日から2泊
3日で行われる全国中高生修養会の主題にもなっています。教会学校の子供たちや、
全国中高生修養会に参加する子供たちと共に、私達もこの主題について、聖書から
聴いてみたいと思います。
お読みした聖書は、長年エジプトで奴隷となり、苦しんでいたイスラエルの民の嘆きを神様が聞き上げ、モーセをリーダーに、イスラエルの民をエジプトから脱出させてくださる場面です。でも奴隷の民をエジプトは簡単に手離そうとしません。
そのため神様はモーセを通して災いを起こし、エジプトを悩ませますが、それでも
エジプトは、かたくなにイスラエルの解放をこばみます。
そこで最後に神様が与えたのが、「人であれ家畜であれ、家の中で最初に生まれた
ものが死ぬ」という恐ろしい災いでした。もちろんこの災いに、イスラエルの民が
一緒に巻き込まれないよう、神様は前もって、モーセに死から逃れるための方法を
伝えました。神様がモーセに伝えた言葉は、生きるか死ぬか、命にかかわる大切な
言葉です。この言葉を聞き逃したら、また聞いても従わなかったら、命を失うかも
知れません。だからモーセは、神様の言葉をそのまま、すべてのイスラエルの民に
しっかり語り聞かせて、実行するように命じました。それは次のような内容です。
「家族ごと小羊の血を家の入り口にぬり、翌朝まで誰も家の外に出てはいけない。
入り口に血がぬってある家の前を、死が過ぎ越していく。でも入り口に血がぬって
ない家の中には、死が入って、その家の最初に生まれたものを滅ぼす。この災いが
起きることで、イスラエルはエジプトを脱出できる。だからエジプトを脱出して、
神様の導く土地に入ったら、血をぬった自分たちの家の前を死が過ぎ越して行った
神様の救いの体験を、これからも子孫に語り継ぎなさい」と言うことでした。
これを聞いたイスラエルの民は、それぞれ家に帰り、モーセが伝えた神様の言葉
の通りに小羊の血を自分の家の入り口にぬって、家の中に閉じこもっていました。
そして真夜中になると、エジプト全体が大きな叫びに包まれ大騒ぎになりました。
エジプトの王の家から、一般のエジプト人の家まで、血をぬっていないすべての家
の中に死が入ってきて、最初に生まれた子供も家畜も、皆、命を奪って行きました。
その夜、エジプト人の家で、死人が出なかった家は一軒もありませんでした。その
反対に、血をぬったイスラエルの民は全員、死ぬことなく、命を救われました。
この恐ろしい災いに、さすがのエジプトの王も、震え上がりました。そしてこれ
以上、犠牲を出したくなかったので、イスラエルの民を解放することにしました。
イスラエルの民は、エジプトの気が変わらないうちに、持ち物をまとめると急いで
エジプトを脱出しています。
たった一晩の出来事でしたが、神様の言葉を信じて、行ったイスラエルの民は、
死から命を守られ、生きてエジプトを離れることができました。でも神様の言葉を
聞いていなかったエジプトの民は、多くの命を失いました。
まさに神様の言葉はどうでもいい言葉ではなく、「生死を分ける言葉だ」という
こと、「自分たちを命に導く真実の言葉だ」ということを、イスラエルの民は畏れを
もって実体験しました。そして神様の言葉が「私達を命に導く言葉だ」と言う
ことは、今も変わっていません。
なぜなら神様は、いつでも私達を愛しておられるからです。私達が苦しみ、痛み、
悲しみの中に座りこんでいる時も、神様は私達に無関心ではありません。私達から
目を離しません。私達を愛しているから、私達を生かして、立ち上がらせようと、
神様は語りかけます。私達を愛しているから、神様は私達が生きることを望み、
しかも神様の命の中で生きることまで願ってくださり、神様の命に導く言葉
を語りかけてくださいます。  
 かつてイスラエルは神様の言葉に聴いて、家の入り口に血をぬって命を救われ、
奴隷になっていたエジプトから脱出しました。私達も自己チュウで、愛することが
出来ない「罪の奴隷」です。エゴの言いなり、罪の言いなりになっている奴隷です。
罪は静かに死を呼び寄せます。このままでは死は確実に私達を滅ぼします。だから
神様は、私達の前を死が過ぎ越していくよう、そして私達を罪から脱出させるため、
小羊の血、しかも神の子羊の血を、私達に浴びせてくださいます。
 洗礼者ヨハネはイエス様を「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ」(ヨハネ1:29)と
言いました。ヨハネの言葉通り、イエス様はすべての人の罪を取り除く神の小羊と
して十字架につけられます。イエス様が血まみれになって十字架につけられたから、
イエス様の血を浴びたすべての人が罪の奴隷から脱出し、神様が示す命に向かって
救い出されます。
 神様は、礼拝にすべての人を招いて、説教の御言を通して、十字架につけられた
イエス様を与えてくださいます。一人一人の前に、血まみれのイエス様の十字架が
立つように、そして死が血まみれの十字架を見て、一人一人の前を過ぎ越して行く
ようにと、神様は御言を通して、私達に十字架のイエス様を与えてくださいます。
御言に聞き従うことで、このイエス様が、私達の中に入って来てくださいます。
御言に信頼することで、十字架のイエス様と私達が1つにされます。だから死は、
イエス様の十字架が立つ私達の前を過ぎ越して行きます。そしてイエス様は私達を
生かして罪から脱出させて、神様の命へと日々、導いてくださいます。
 礼拝の御言に聴き、御言を信頼して受け取ることで、私達の中にイエス様
の十字架が立ち、私達にも「出エジプト」が起きてくるのです。
でも私達の「出エジプト」は、1度では済まないでしょう。私達は自己チュウや
自分のエゴに未練タラタラですから、イスラエルの民がエジプトをなつかしがった
ように、私達もつい罪の古巣に戻ろうとします。だから神様は毎週、礼拝に私達を
招いて御言を聞かせ、イエス様を受け取らせます。そして「出エジプト」をさせて、
きれいに罪をふりはらい、私達を命に向かって導いてくださるのです。
 イエス様は十字架につけられる直前、最後の晩餐で、弟子達に「皆、この杯から
飲みなさい。これは罪が赦されるように、多くの人のために流される私の血、契約
の血である」(マタイ26:27-28)と言われました。またイエス様は「私は復活であり、
命である。私を信じる者は、死んでも生きる」(ヨハネ11:25)とも言っています。
 「私達を命に導く神様の言葉」。それは礼拝でいただく御言、イエス様のことです。
十字架の血によって、私達の罪をすべて洗い流して赦してくださるイエス様。また
ご自分を信じる者に、ご自分と同じ復活の命を与えて、地上の命を終えても、なお
神様と共に永遠に生かしてくださるイエス様のことです。
 ですから「私達を命に導く神様の言葉」・イエス様を礼拝でいただくことは、
私達の今の命が、単に守られることだけに、留まりません。
私達は、あまりの苦しみや悲しみのために、生きる希望や勇気を失い、どん底に
沈むことがあります。何の感情も喜びも意欲も感じられずに、生きながら死んだ者、
生ける屍(しかばね)になってしまうことがあります。しかし陰府の底にまで降られた
イエス様は、誰のどん底にだって平気で飛び込んで、近づいて来てくださいます。
そして生きながら死んでいる者にも、ご自分の復活の命を注ぎこんで、全く
新しく造られた者として、命の希望と共に生かしてくださるのです。
以前、私達が何をして、どんな者であろうが、神様はお構いなしに御言を与えて、
私達を十字架のイエス様へ、復活のイエス様へ、神様の右におられるイエス様へと
大胆に導いてくださいます。私達はただ御言に信頼して、聞き従えば良いのです。
今朝の招きの言葉は「誰でも私のもとに来なさい。休ませてあげよう」でした。
しかし神様の言葉を聞いても、私達は本気で神様の中で休もうとしません。神様が
与えてくださる命の安らぎに信頼しようとしません。このかたくなさは命の敵です。
昔、神様の言葉を信じて従ったことで、イスラエルの民が生きてエジプトを脱出
したように、私達も神様の言葉・イエス様に信頼して聞き従うなら、神様はどんな
ピンチからも生かして脱出させて、私達を永遠の命に至るまで導いてくださいます。

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