日本基督教団御殿場教会  United Church of Christ in Japan Gotenba church

私達の希望・イエス・キリスト

説教

タイトル :「私達の希望・イエス・キリスト
聖書   : ヨハネの黙示録1:4-8,17-18,
年月日  : 2014-8-3
特記事項 : 夏期キャンプ前の合同礼拝
礼拝後にキャンプに出かけます。テーマは「私達の希望イエス・キリスト」です。
このテーマに基づいて、子供の礼拝の聖書箇所がヨハネ黙示録になっていますので、
子供の礼拝と同じ聖書箇所の御言に聴いて、「イエス・キリストこそが私達の希望だ」
という確信を、教会全体で共有しましょう。
ヨハネの黙示録は、イエス・キリストが天使を送り、ヨハネという人に、これから
起きることを見せて、見たことを全部、ヨハネに書かせたという形になっています。
人の目では見ることが出来ないことを、天使に導かれて見るわけですから、ヨハネ
の黙示録には、不思議な表現や場面がたくさん出てきます。その一つ一つの意味を
正確に説明するのは難しいですが、文章全体が語ろうとしていることを聞き取って
行きましょう。
ヨハネは、アジア(今のトルコ)にある7つの教会に、自分が見た不思議なことを
伝えるために手紙を書いています。4~6節は挨拶の言葉です。「今おられ、かつて
おられ、やがて来られる方から、また玉座の前におられる7つの霊から、更に証人、
誠実な方、死者の中から最初に復活した方、地上の王達の支配者、イエス・キリスト
から、恵みと平和があなたがたにあるように」と最初に祝福の言葉を送っています。
祝福の源は、まず「今おられ、かつておられ、やがて来られる方」です。これは
永遠に生きておられる父なる神様のことであり、また終わりの日に誰にでも分かる
姿で、再び地上にこられるイエス・キリストのことだとも言えます。
次の「玉座の前におられる7つの霊」。神様に仕える7つの霊ということですが、
これは天使のことでしょうか。はっきりとは分かりません。
最後のイエス・キリストについては色々な表現がされています。「証人、誠実な方」。
イエス・キリストは、神様について、最後まで誠実に証言していたのに、十字架で
殺されてしまいます。「証人」と言う言葉には「殉教者」と言う意味がありますが、
殉教の死に至るまで、神様に従順で誠実な証人だったのがイエス・キリスト
です。でもキリストは十字架で死にますが、死人の中から最初に復活された方でも
あります。だから死に勝利して、死よりも強い方、地上のどんな王たちよりも
強い力を持っておられる支配者が、イエス・キリストです。
このように、父なる神様、イエス・キリスト、そして天使たちから、7つの教会に
向けて祝福が送られています。
続く箇所では、キリストのことが詳しく書かれています。キリストは私達人間を
愛してくださっています。私達を愛しているからこそ、キリストは十字架で流した
血と引き換えに、「罪と言う牢獄」に、ずっと閉じ込められていた私達を解放して、
今度は、父なる神様に仕える聖なる者としてくださいました。
6節には「王」と書いてありますが、元々の意味は「王国」と言うことで、古い
口語訳聖書を見ると「御国の民」と訳されています。ですから全体の意味としては、
「キリストの命と引き換えに、罪の牢獄から解放された私達は、キリストに
よって神様の王国の民とされて、神様に仕える聖なる役目を受けた」と言う
ことです。
罪人であるにもかかわらず、キリストに愛され、罪の赦しが与えられていること。
更に神様の民とされ、神様に仕える者として、新しく生きる希望が与えられている
こと。このキリストによる救いを心から感謝し、ほめたたえます。そしてすべての
栄光と力が、いつまでもキリストにあるようにと願う祈りが、「アーメン」(真に、
本当にそうです)と言う言葉で、シッカリ、しめくくられています。
7節では復活のキリストが、雲に乗って再び地上に来られる終わりの日のことが
書かれています。その日、復活のキリストの姿をすべての人が見ることになります。
今までキリストを完全に無視していた人たちも、最早キリストを無視できません。
終わりの日にキリストが来られるのは、最後の審判のためです。地上の裁判では、
ウソをついて、ごまかすことができますが、心の隅々まで見ておられるキリストに
隠し事はできません。キリストを無視して、好き放題してきた人たちは、終わりの
日に、キリストの前で嘆き悲しむことになるでしょう。
その反対に苦しみ、貧しさ、葛藤などの困難を抱えながらも、キリストによって
救われ希望を捨てず、キリストを愛して従ってきた人たちは、キリストが来られる
終わりの日に、これまでの困難がすべて報われます。キリストに希望をおいていた
ことが、すべて現実になるからです。「このことは揺るぎない神様の真実だ」と言う
ために、ここも「アーメン」(真に、本当にそうです)と言って、しめくくられています。
そして神である主、永遠に生きておられ、終わりの日に再び地上に来られる方、
また全能者であるキリストが、ついに8節で語り出します。
「私はアルファであり、オメガである」。
「アルファ、オメガ」とはギリシャ語で「初めと終わり」のことです。この世界が
造られる初めから、キリストはおられ、またこの世界が終わる時にも、キリストは
天から降って来られて立ち合います。私達は、人間が世界を、好き勝手に動かして
いると思っていましたが、実はそうではありませんでした。
キリストが世界の初めから終わりまでを支配しておられるのです。だから
人間が好き勝手にふるまい、悲惨な歴史をくり返しても、最後にこの世界に決着を
つけるのは、キリストです。神様が願い、ご計画しておられる通りに、歴史の
支配者であるキリストが、この世界を着々と造りかえて、仕上げていきます。
 また17-18節では、キリストを見て、その神々しさに打たれ死んだようになった
ヨハネの上にキリストは手をおき、ご自分のことについて、彼に語りかけています。
「恐れるな。私は最初の者にして、最後の者。また生きている者である。1度は
死んだが、見よ、世々限りなく生きて、死と陰府のカギをもっている」。
地上の人間にとって、キリストは太陽の光以上に強烈な栄光の光を放っており、
その畏れ多い姿に、パウロがそうだったように、ヨハネも復活のキリストを見て、
倒れてしまいます。でもキリストはヨハネに「恐れるな」と言ってヨハネに近づき、
ご自分に関する奥義を語ってくださるのです。
「私は最初の者にして最後の者」。これは8節の「私はアルファであり、オメガで
ある」と同じ意味です。この世界の最初と最後を手の中に治めて、歴史の支配者で
あるキリストは、命のない置物のような神ではなくて、生きておられる神様です。
十字架につけられて1度は死にましたが、死の中から復活して、今、ヨハネに寄り
添っているように、キリストはリアルに、永遠に、生き続ける神様です。
そして死の中から復活したキリストだから、死と陰府を征服し、「死と陰府
のカギ」を持っておられます。「キリストが、死と陰府の扉を、自由に開け閉め
できるカギを持っている」。このことも、私達にとって大きな希望となります。
 「アルファであり、オメガ」であるキリスト。初めと終わりを支配するキリスト。
でもキリストが支配するのは、世界の初めと終わりだけではありません。私達の命、
私達の生涯の初めと終わりも、キリストが支配しておられます。そして私達
の命、私達の生涯の終わりにおられるキリストは、死と陰府のカギを持っておられ
ます。
そもそも神様の御子であるキリストが、なぜ人間の体に産まれて、十字架で死に、
復活されたのか。なぜキリストは復活して、死と陰府のカギを手にされたのか。
 私達の命の終わり、生涯の終わりに、キリストが立ち会い、カギを使って、
死と陰府の扉を開き、私達を陰府から引き上げ、死の中から復活させるため
です。そして行き止まりの「死と陰府の扉」を撃ち破り、死をつきぬけた命、
キリストと同じ死に勝利した命、復活の命を、私達に与えて、私達を永遠に
生かすためです。
私達を愛しておられるキリストは、十字架の死によって、罪の赦しを与えてくだ
さいました。そして罪赦された私達が、どこまでもキリストと共に生きられるよう、
私達の生涯が終わる時には、「死と陰府の扉」を開けて、新しい命、復活の命を用意
していてくださるのです。私達のために、ここまでしてくださるキリストがいます。
私達の地上の生涯はもとより、死を越えた神様の国での生涯のことまで、すっかり
用意していてくださるキリスト、私達を愛しぬいてくださるキリストが、私達には
います。私達にはイエス・キリストがいる。これこそが私達の確かな希望です。
私達の人生は、山あり谷ありです。苦しいこと、悲しいことがたくさんあります。
しかしどんな困難な人生でも、それを補って余りあるほど豊かで確かな命の希望が、
キリストから私達に与えられています。キリストは、現実に生きておられます。
キリストがヨハネにしたように、私達の上にも手をおいて、「恐れるな」と言い、
私達とどこまでも一緒にキリストは生きてくださいます。

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