日本基督教団御殿場教会  United Church of Christ in Japan Gotenba church

私は荒野で叫ぶ声

タイトル :「私は荒野で叫ぶ声」   
聖書   : ヨハネ1:19-28  
年月日  : 2015-5-17
特記事項 :

 ヨルダン川で人々に洗礼を授けていたヨハネが、エルサレムの近く、ベタニアにいた時、エルサレムから、神殿に仕えている祭司やレビ人が遣わされて、ヨハネに「あなたは、どなたですか」と質問をしてきました。
 20節以下は、彼らに対して語ったヨハネの証です。「証」とは信仰的な証言です。偽りなく証言することで、迫害される場合もあります。従って、いかなる場合でも、誠実に証言する人、「証言者、証人」に「血の証人、殉教者」と言う意味があります。そして最後まで誠実に証言し続けたヨハネは、後日、ヘロデ王によって殺され、文字通り「血の証人、殉教者」となります。
 エルサレムから来た祭司やレビ人の質問を拒むことなく、ヨハネは自分について公言して、「私はメシアではない」と言い表しました。そして「公言する」も「言い表す」も、原文では「告白する」と言う同じ言葉です。
 つまり「告白する」と言う言葉をくり返すことで、ヨハネが常に偽りなく告白する証言者として、この世に立っていたことを強調しています。そしてヨハネが自分に関して最初に証言したのは、「私はメシアではないと言うことです。
 メシアとは「油を注がれた者」のことで、王などが任命される時、油注がれることに由来して、「神様に油注がれた救い主」を指し示します。そしてメシアのギリシャ語読みが「キリスト」です。当時ヨハネは、悔い改めることを人々に強く訴えながら、ヨルダン川で洗礼を授けており、そのことが世間の評判になって、ヨハネはメシアかもしれないと人々は期待し、噂していました。それを聞きつけた神殿関係者が、真相を確かめに来たのです。そしてヨハネは、自分がメシアではないことを即座に証言しました。これは何でもないようですが、しかしとても重要な証言です。
 旧約聖書に預言されているメシア・救い主の到来を、イスラエルの人々はずっと待ち望んでいたので、度々、偽メシアが出没しました。今でも、「キリストの生まれ変わりだ」などと自称し、自分を指差して、人々を惑わす怪しい指導者などが多くいます。特に、優れた能力があると、自分をメシアとして、世間から称賛されたい誘惑に駆られます。しかしヨハネは「私はメシアではない」と証言して、どんな誘惑、世間の期待、憶測もバッサリ切り捨てます。「私はメシアではない」と明らかにしたことは、証言者ヨハネの役目にとって、重要な土台です。
 「メシアではないのなら何なのか。エリヤか、それともある預言者なのか」。彼らの質問にヨハネは「そうではない」と答えました。聖書には、終わりの日が来る前に預言者エリヤが来るといわれていた(マラキ書3:23)ので、「エリヤの再来なのか」と聞いたわけです。また「あの預言者」とはモーセのことだと思われます。
 世間で評判になっているヨハネが、メシアでも、エリヤでも、あの預言者モーセでもないなら、彼は一体何者なのか。祭司たちはしびれを切らしてヨハネの正体を聞きだします。するとヨハネは、預言者イザヤの言葉を引用して答えました。
 「私は荒野で叫ぶ声である。主の道を真っすぐにせよと」(イザヤ40:3)
 神様の栄光が現れる道。約束のメシアが現れる道。主の道をこの世の雑草やガラクタで覆い尽くしておくのではなく、誰にでも分かるように整えていこうと、照りつける太陽と砂漠と岩だらけの荒野で叫ぶ声。神様に命じられるまま大声で叫ぶ声。そして荒野で叫ぶはしから消えていき、後には何も残らない、ただの声。&br 「これが私だ」とヨハネは証言しました。でも神殿の関係者は納得が行きません。メシアでも、エリヤでも、モーセでもない。何の権威もない「荒野で叫ぶただの声」でしかないヨハネが、なぜ勝手に人々に悔い改めを求めているのか、と言うことです。
 これに対してヨハネは、「自分は水で洗礼を授けることしか出来ないけれど、世の中に紛れて、まだ知られていない方が、自分の後から来られる。自分にはその方の履物の紐を解く資格(奴隷の務めをする資格)もない。そのような方が来られる」と語り、自分と、主の道を歩いて来られる方(メシア)との大きな違いを語るのですが、祭司たちに、ヨハネの言葉は届かなかったでしょう。
 ここでヨハネの正体、ヨハネの役割がハッキリしてきました。ヨハネは到来するメシアの露払い、前触れとなって、メシア・救い主を指し示す「荒野で叫ぶ声」です。人々にメシア・キリストを指し示して、すさんだこの世と言う「荒野で叫ぶ声」です。声だから、目に見えるものは残さず、消えてなくなります。キリストを証言したら、たちまち跡形もなく消えていく声。この世にキリストを示したら、自分の痕跡を何も残さず、消えていく声。これがヨハネの正体であり、ヨハネの役割です。
 ヨハネは、世間が「メシアではないか」と噂するほど人望があり、神殿関係者も気にするほどの人物ですが、「私はメシアではない」と告げます。そして自分自身を「メシア・キリストを証言する声」「キリストをこの世に示して叫んだら、たちまち消えてなくなる声」なのだと厳しく自己規定します。ヨハネはキリストの「証言者」ではなく、キリストを証言する「声」に過ぎない。自分になんら執着することもなく、キリストを証言して消える声に徹します。
 これは、神様がヨハネを、メシアの到来に先駆けて「荒野で叫ぶ声」「キリストを証言して叫ぶ声」として召しておられたからです。だからヨハネが最も個性的で、その持ち味を発揮できるのは、「華々しく自分を世間に売り出し、アピールする時」ではなくて、「キリストを証言して、叫び、消える」時です。ヨハネが声のように、跡形もなく消えていく時こそ、ヨハネにおいて神様の栄光が現され輝き出します。それ故、神様の召しに従い、ヨハネは人々に水で洗礼を授けながら、「荒野で叫ぶ声」に徹して、キリストが来られる道を、真っすぐに整えていきます。
 このヨハネの中に、「キリスト者・信仰者としての生き方」を見ることが出来ます。私達は、どんな才能があろうと「私はメシアではない」ことを告白し、証言します。私達は思い上がることなく、「自分が神様でも、キリストでもない」ことをわきまえます。また私達は自分を指差すのではなくて、キリストだけを指差します。しかもキリストに関する知識の豊かさを誇るために、キリストを証言するのではなくて、ただ純粋に救い主・キリストだけが明らかになるように、証言します。
 私達も、ヨハネのように「跡形もなく消える」として、キリストを証言します。
 でも「キリストを証言して消える声」になることは、自分自身を失うことになるのでしょうか。そうではありません。むしろその反対です。
 「自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、私のため、また福音のために命を失うものは、それを救うのである」(マルコ8:35)
 「キリストを証言して消える声になる」とは、「自分の中心を望む」私達の本性、エゴが消えて、そこにキリストだけが残り、キリストに満たされると言うことです。そしてキリストは、世の初めから神様と共におられ、万物を造り、永遠の命をもつ神様の言葉。人となられた神様の言葉です。ヨハネが引用しているイザヤ書40章は神様の言葉について、このように告げています(イザヤ40:7-8)
 「草は枯れ、花はしぼむ。主の風が吹き付けたのだ。この民は草に等しい。
  草は枯れ、花はしぼむが、私達の神の言葉はとこしえに立つ」
 私達は「キリストを証言して消える声、荒野で叫ぶ声」になることを恐れなくていいのです。自分を誇り、自己主張したところで、人は草のように朽ち果てるしかない。でも「神様の言葉はとこしえに立つ」。決して消えることも、失われることもなく、永遠に存在するのが、神様の言葉・キリストです。
 だから「キリストを証言して消える声になる」とは、失われることのない神様の言葉に、自分を丸ごと明け渡して、自分の中にキリストを宿すこと。神様の言葉・キリストと一体にされて、永遠に生かされること。そして私達が、キリストだけを現して讃美するよう用いられるという、神様の輝かしい恵みを受けるのです。
 「荒野で叫ぶ声、キリストを証言して消える声」。ヨハネの後に、無数の信仰者が続いてきました。そして神様は今、私達を「荒野で叫ぶ声、キリストを証言して、消える声」として召しておられます。私達の全存在、全生涯がキリストを証言する声とされ、天と地のすべての信仰者の声と重なり、力強い讃美の大合唱となります。指揮者のキリストに目を留め、キリストを証言する讃美の声を世に響かせましょう。

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