日本基督教団御殿場教会  United Church of Christ in Japan Gotenba church

私は福音を恥としない

説教

タイトル :「私は福音を恥としない
聖書   : ローマ1:8-17
年月日  : 2017-10-1
手紙の宛先はローマの教会です。当時、ローマは、世界を支配するローマ帝国の
首都でした。そのローマに既にキリストを信じる群れが生まれていました。「すべて
の道はローマに通じる」という言葉がありますが、ローマ帝国の首都にキリストを
信じる信仰者がいることは、キリストを信じる信仰が、全世界に向けて発信される
ことでもありました。だからパウロはこのことを喜び、神様に感謝しています。
 パウロは、御子キリストによる救い「良き知らせ・good news・福音」を各地で
宣べ伝えながら神様に仕えています。それは神様に祈り、神様と親しく交わること
無しには出来ません。その大切な祈りの中で、パウロはローマの教会を思い起こし、
ローマに行く機会が何とか与えられるようにと、願っていました。ローマの教会は
パウロが伝道した教会ではありませんが、「彼らに会いたい」とパウロが願うのは、
いくらかでも霊の賜物を分けることで、彼らの信仰が強められるよう願うからです。
でもそれ以上に、同じ信仰に生かされていることで、お互いに励ましと慰めを分ち
合いたいからです。
 先程、私達はニカイア信条を告白しました。A.D.4世紀に出来た信仰告白ですが、
この告白を共有するすべての信仰者と、時代も国も越えて、私達は同じ信仰の中に
います。御殿場にいながら、世界中に信仰の家族がいて、キリストを真ん中にして
つながっています。想像するだけでも、うれしくて励まされます。
 パウロはこれまで何回も伝道の旅を重ねて、各地で伝道の実を結んできました。
同じようにローマを訪問して、まだキリストの救いを知らない多くの異邦人の中で
伝道の実を結びたいと、何度か計画していたのですが、なかなか実現できません。
このことについて、パウロを良く思わない人たちから「地方では伝道ができても、
時代の最先端を行くローマでは、伝道する力も自信もないから、パウロはローマに
行かないのだ」と言われていたようです。確かに、ローマには高度な知恵や知識を
もつ人たちが大勢いました。しかしそんなことで、ひるむパウロではありません。
文化の盛んなギリシャ人だろうが、全く知らない外国人だろうが、知恵のある人、
ない人、一切関係なく、すべての人に対して果たすべき責任がパウロにはあります。
責任の直訳は「義務を負う」です。キリストから福音を受けて、救われたからこそ、
パウロはすべての人が自分と同じようにキリストを信じて、神様の愛と赦しと命を
受けて救われるように、また神様を喜び讃美して生きられるように、福音を告げて、
福音を手渡す「義務を、すべての人に負って」いたのです。
でもこの義務は、仕方なく引き受けた義務ではありません。教会を迫害していた
無知で愚かな自分さえも、救われる「福音」の確かな力を体験していたからこそ、
パウロは相手が誰であれ、福音のすばらしさを告げずにはいられなかったのです。
パウロが今、切に願うのは、ローマに行って、ローマの教会の人たちに、パウロが体験している福音のすばらしさ、力強さを、みずから語りかけることです。
 パウロについて、「手紙は重々しく力強いが、実際、会ってみると弱々しい人で、
話もつまらない」と言う人たちも、コリント教会には、いました(2コリント10:10)。
コリント教会は、ギリシャにあります。そして使徒言行録を見ると、ギリシャでは
最初、アテネでパウロは伝道していました。でも話が「キリストが死から復活した」
ことに触れると、人々はパウロをあざ笑って、相手にしません(使徒言行録17:32)。
 この世の常識や理性から見ると、「神様の御子が、人となって世に生まれたこと。
またすべての人の罪を償い、完全な赦しが与えられるため、御子が十字架で死んだ
こと。しかし御子は死から復活して、天に昇り、父なる神様の右におられること」。
そして「これらを成し遂げたイエス・キリストを信じるだけで、人は救われる」
という「福音」は、世間の常識と教養ある人たちには、「バカな話」にしか
聞こえません。
 世間から笑われるだけの「バカな話」を危険な旅をしてまで告げ知らせに行くと
したら、皆さんはどうしますか。また「バカな話」を信じる信仰者として生活して
いることを、世間に知られることに、皆さんは抵抗がありますか。私達が、一瞬、
答えをためらう時、パウロはハッキリと言います。「私は福音を恥としない」。
なぜなら「ユダヤ人を始め、ギリシャ人にも、信じる者すべてに救いをもたらす
神の力だからです。福音には神の義が啓示されていますが、それは初めから終わり
まで、信仰を通して実現されるのです」(16-17節)。
 「世間が笑うバカな話・福音」が表すのは、本来、救われるはずのない者、
滅びるしかない罪人が、ただキリストを信じるだけで、神様の目に正しい者、
聖なる者、神様の家族にされるという「神様の救いの奇跡」です。
「そんなうまい話が世の中にあるはずがない」と用心深い人は疑います。「危ない
カルト集団のマインドコントロールではないか」と疑います。
神様の御心は律法に記されており、この律法を守ることで救われるというのが、
旧約聖書に記されていた神様との古い契約でした。しかし今まで律法を完璧に守る
ことが出来た者は、誰もいません。唯一の例外を除いて。それが、人となって世に
来られた神様の御子イエス・キリストです。
キリストはこの世で、神様の御心を最初から最後まで、100%完璧に成し
遂げることが出来た唯一の方です。言い換えると、キリストは「律法の完成者」
であり、「律法で100点満点を取った唯一の方」です。律法は、100点満点を
取れないと合格になりません。99点じゃダメなのです。つまりキリスト以外は皆、
神様の律法を守れない「落第生、落ちこぼれ、赤点組」です。ユダヤ教では律法を
守れない落第生を「罪人」と呼びます。私達は皆、間違いなく「罪人」です。
でも神様の愛は、律法を守れない[罪人]に向けられました。すべての人が
落第生の罪人なら、罪人を救わない限り、人に救いの希望はないからです。だから
神様は、律法を守れず、神様の言葉に従いきれない罪人を拾い集めては、キリスト
と出会わせ、キリストを信じるだけで、すべての罪を赦し「あなたは宜しい・
Goodだよ」「あなたは清められて、救われたよ」と言ってくださるのです。
これが「キリストの福音」です。
 神様の言葉に従いきれない罪人に、本来、与えられるはずのない「罪の赦し」と、
神様から「よろしい・Good」と「神様の義(正しさ)」が宣言され、キリストを信じる
信仰によってのみ、神様の救いの中に入れられる。これがキリストの福音です。
こんな不可能な福音を、実現させてしまうのが、神様の愛の全能の力です。
キリストの福音には、神様の最強の愛の力、神様の愛の全能が、満ち満ちて
います。
人が救われるのは、山ほど学問を積み上げるからでもない。苦しい修行に耐える
からでもない。ただキリストを信じる信仰によってのみ、罪人が神様の救いに入る
ことが赦されるので、「救いの良き知らせ・Good News・福音」は「初めから終わり
まで信仰を通して実現される」と言うのです(17節)。また福音の実現に欠かせない
「キリストを信じる信仰」が私達に与えられるのも、自分の力や熱心さではなく、
ただ神様からの一方的な恵みによるものです。
本当はすべての人が神様の目に罪人なのに、「キリストを信じる信仰」が、
神様の恵みとして与えられることで、神様の目に正しい者とされて生きる
「救いの奇跡」が、人々に授けられます。だから『正しい者は信仰によって
生きる』とパウロは言ったのです。具体的に言うなら「正しい者は、キリストの
福音を信じる信仰によって、永遠の命で生きる」のです。自分の正しさでは
なくて、「キリストが実現した正しさ・福音」を信じることによってのみ、
罪ある私達にも、キリストの復活に続くことが出来る「永遠の命の道」が、
開かれるからです。
 だから私達がすべきことは、明らかです。キリストが十字架の死と復活を通して
実現してくださった「罪人に与えられる正しさ」(と言っても欠陥品や残り物では
ない。それどころか)「キリストの弟妹として生かされるほどの尊い正しさ」が
あります。「キリストが実現した正しさ・福音」が、私達に与えられている
ことに固く信頼して、福音に自分のすべてをあずけて生きる。これが私達の
なすべきことです。
 この世では、すべての人が未完成であり未成熟です。だからすべての人に福音が
必要です。自分の正しさではなく、キリストによる正しさが必要です。キリストは
人と人を隔てる罪の壁を取り払い、代りに福音を与えておられます。そして福音に
よる「神様の尊い愛と命の交わり」をすべての人に与えておられます。だからこの
世が続く限り、私達もひるまずに言います。「私は福音を恥としない」と。そして
自分の正しさではなくて、福音にこめられた「キリストによる正しさ」を、
自分に与えられている命の時間、生涯を通し、私達は宣べ伝えて行きます。

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