日本基督教団御殿場教会  United Church of Christ in Japan Gotenba church

私は世の光である

説教

タイトル :「私は世の光である
聖書   : ヨハネ8:12-20
年月日  : 2017-5-7
 ニカイア信条が告白する「父と子が同質・イエス様が父なる神様と等しい方」と
言うことは、ヨハネ福音書の重要なポイントです。本日の箇所でも、そのことが、
イエス様の言葉を理解するための重要なカギとなっています。でもファリサイ派の人々は、イエス様が神様と等しい方だと言うことを、全く理解できません。
 イエス様が、エルサレム神殿の宝物殿の近くで、人々に教えておられた時、「私は
世の光である。私に従う者は、暗闇の中を歩かず、命の光を持つ」と言われました。
 この言葉を聞いて思い出すのが、ヨハネ福音書の冒頭に出てくる言葉です。
「初めに言があった。言は神であった。この言は神と共にあった。言の内に命が
あった。命は人間を照らす光であった。光は暗闇の中で輝いている。暗闇は
光を理解しなかった。その光は真の光で、世に来て、すべての人を照らすの
である」(ヨハネ1:1, 4-5,9)
ヨハネ福音書はイエス様が「世の初めから神様と共におられた神様の言」であり
また「命の光として、世に来てすべての人を照らす真の光」だと証言しています。
従ってイエス様も自ら「私は世の光である。私に従う者は、暗闇の中を歩かず、
命の光を持つ」と、8章で公に証言するのです。
イエス様は、神様の栄光、神様の命の輝きを、どこでも放つことが出来る
真の光です。夜空の星のように、私達の手の届かない所で輝いているだけの光では
ありません。
イエス様は、死に至る病を背負って苦しむ「暗闇の世」にリアルに入って来て、
どんなに深い暗闇をも照らすことが出来る「真の光」であり、人々を死に至る病・
暗闇の世から立ち上がらせ、新たに生かすことが出来る「神様の命の光そのもの」
のお方です。イエス様の光に初めて照らし出された人々は、暗闇の中では見なくて
済んだ自分の姿を見て、驚き、嘆き、悲しみます。「なんて惨めな姿なのか。他人を
散々、あげつらっていたのに、なんだ、この自分の醜い姿は」と衝撃を受けます。
だから自分の本当の姿を見たくない人は、イエス様から逃げます。イエス様の言に
耳をふさぎます。そして暗闇の世界の中に、再び隠れてしまいます。
でもイエス様は、私達を追いつめるため、こらしめて罰するために、来られたの
ではありません。先月のイースターの説教。姦淫の現場で捕まった女のことを思い
出してください。ユダヤ教の律法では、石打の刑で殺されるはずの女でした。でも
イエス様は「罪を犯したことが無い者が、石を投げなさい」と言われ、群集は1人
残らず立ち去りました。罪の無いイエス様だけは律法の定め通り、女に石を投げる
ことが出来ました。でもイエス様の前で、死を覚悟するほど自分の罪と向き合い、
自分の罪を恥じていた女に、イエス様は石を投げず、彼女を罪に定めませんでした。
光に照らされ、明らかになった女の罪を、すべてイエス様は赦し、「行きなさい」と
言って、女を新しく生かしてくださいました。
そしてイエス様は、私達にも同じようになさいます。私達を光で照らして、醜い
自分の罪と向き合わせますが、でも光の中で明らかになった私達の罪のすべて
をイエス様は赦してくださいます。罪の暗闇から立ち上がらせ「行きなさい
と言って、私達を神様の光の中、神様の命の光の中に、送り出してくださる
のです。
イエス様は、この世に来られた真の光、命の光です。イエス様の光に照らされて、
丸裸になっている罪まみれの私達の体に、イエス様は十字架の死と引き換え
に買い取った「罪の赦し」、シミ1つない真っ白な「罪の赦しの衣」を私達
に着せてくださいます。「罪の赦し」の裏地は、イエス様の十字架の血で真っ赤に
染まっています。真っ赤な「罪の赦し」の裏地が、私達の罪を完全にぬぐい取って、
完全に清めてくださったから、「罪の赦し」の表地はシミ1つなく真っ白で純白なの
です。
それだけではありません。純白の「罪の赦し」の上に、イエス様はご自分と
同じ「命の光」を、私達に重ね着させてくださいます。それは神の国の世継ぎ・
神様の子供だけが着ることを許される「聖霊の衣」です。イエス様が着ておられる、
光輝く「聖霊の衣」を着せていただく時、私達はイエス様の光にスッポリ包まれ、
「イエス様の光の一部、命の光の一部」とされるのです。
だからイエス様は、「私に従う者は暗闇の中を歩かず、命の光をもつ」とキッパリ
言ったのです。でもこれを聞いたファリサイ派の人々は「自分勝手な証しで、真実
ではない」と反論しました。ユダヤ教の律法によると、二人以上の証言が無ければ、
真実と認められなかったからです(申命記17:6,19:15)。しかしそれでも、イエス様の
証しは真実でした。
14節で「自分がどこから来て、どこへ行くのか、私は知っている」とイエス様が
言われた通り、「神様のおられる天から、この世に遣わされ、十字架で死に、陰府に
降りますが、神様によって復活させられて、再び天に帰り、神様の右に座られる」
ことを、イエス様は知っていました。でもファリサイ派の人々には、そんなことは
分かりません。彼らの霊的な目はふさがれており、肉の目に映るものだけで物事を
判断し、裁いていたからです。
ファリサイ派の人々の愚かさを、私達は笑えません。私達の霊的な目はどれだけ
クリアでしょうか。ひょっとしたら霊的な目がふさがれ、肉的なことしか見えない
まま、頑なに物事を判断し、決め付け、人を裁いているかもしれません。
15節でイエス様は「私は誰をも裁かない」と言われましたが、もし裁くとしても、
イエス様の裁きは真実でした。それは、イエス様お一人だけの判断や裁きではなく、
いつでも父なる神様がイエス様と一緒におられて、すべてを判断し、裁くからです。
イエス様が語るすべての言と共に、父なる神様がおらました。
父なる神様と、子なる神様が、いつでも共に語り、共に判断し、共に裁きます。
イエス様についての証しも、父なる神様と子なる神様が、共に証しをしています。
「二人以上の証しが必要」と言うユダヤ教の律法をはるかに越えた神様の真実が、
イエス様の言葉にはありました。だからイエス様の言葉は、人の証しによって保障
される必要は全くなかったのです。
 しかし「父も私について証しをしてくださる」と言うイエス様に、ファリサイ派
の人々は「あなたの父はどこにいるのか」と言い返し、イエス様の言葉を受け入れ
ようとはしません。イエス様の父は、大工のヨセフではなく、天におられる父なる
神様です。このことが分からないから、ファリサイ派の人々はイエス様が誰なのか、
何のために世に来られたのかも、依然として分かりません。
 幼い時から、聖書について、神様について英才教育を受けてきたファリサイ派の
人々ですが、イエス様から「あなたたちは、わたしも私の父も知らない」。つまり、
「メシアである私のことも、父なる神様のことも、あなたがたは全く知らない」と
言われているのです。彼らは自分の信仰のメンツにこだわって、神様さえも自分の
小さな殻の中に閉じ込めているから、今、神殿でメシアであるイエス様と出会って
いながら、メシアを見られない。イエス様の言葉を聞いていても、イエス様と共に
おられる父なる神様に気づけない。彼らの信仰は、一体、何のための信仰なのか。
熱心に聖書を研究しても、心を全開にしてイエス様を信じ、受け入れなければ、
罪と死の暗闇に留まって滅びるだけです。暗闇に逃げ込めば一見、楽そうですが、
何の解決にもならない。決して私達は、そうであってはならないのです。
イエス様は、罪と死の暗闇の世に、神様の命の光を持ち込んでくださいました。
私達に命の光を与えるためです。罪と死の暗闇の世にあっても、尚、命の光の
中を歩ませて、私達を「復活の命」に至らせるためです。
罪と死が、イエス様の復活に飲み込まれたように、罪と死の暗闇も、イエス様の
光の中に飲みこまれます。罪と死が、イエス様の復活には勝てなかったように、
罪と死の暗闇も、イエス様が放つ「命の光」には勝てない。
ヨハネ1:5の「暗闇は光を理解しなかった」は「暗闇は光を打ち負かせなかった」
とも訳せます。口語訳聖書はストレートに「闇はこれに(光に)勝たなかった」
と言っています。
神様から造られた人は誰であっても、罪と死の暗闇の中で滅んではなりません。
神様にかたどって造られた人は、空しくチリに返って、滅んではならないのです。
人は、世の光であるイエス様と固く結ばれて、命の光を着せていただき、命の光と
して、私達の本籍である神様の中、「永遠の命・復活の命」の中に帰るべきなのです。
だから神様は、暗闇の世に、世の光としてイエス様を遣わしてくださったのです。
私達を愛しているからです。私達を愛しているから、神様はイエス様の中にある
すべて、命の光も、復活の命も、御国をも、私達に分け与えようとなさるのです。
イエス様は弟子達に「あなたがたは世の光である」(マタイ5:14)と言われました。
イエス様を信じて従う人は、イエス様と同じ世の光とされています。そして
世の光とされた体で、イエス様の後に続いて、暗闇の世に雄々しく出かけて
行きます。  
今、教会にイルミネーションをつけ、「ここに教会がある」とアピールしています。
イエス様が「あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい」と命じたように(マタイ5:16)、
私達はイエス様によって、光とされていることを隠しません。むしろ、イエス様に
よって光とされた自分の体を高く掲げて、「イエス様を信じる道、復活の命・神様に
帰る道はこっちですよ」と、教会を、またイエス様を指し示しながら、暗闇の世に
いても私達は、多くの人を復活の命に導く「光の案内人」となって働くのです。

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