日本基督教団御殿場教会  United Church of Christ in Japan Gotenba church

私はあなたを選び、決して見捨てない

説教

タイトル:私はあなたを選び、決して見捨てない
聖書  :イザヤ書41:8-20 ヨハネ5:24-25
年月日 :2009.04.12
特記事項:イースター礼拝

 紀元前6世紀、イスラエルはバビロニアとの戦いで国を失い、主だった人たちは奴隷としてバビロニアに移されました。何十年もの年月が過ぎ、「我々は神に見捨てられてしまった、神に忘れられてしまった」と人々は嘆いていました。自分の国もなければ、自分を守る力もありません。弱く、小さく、心もとない奴隷の身です。先の見通しも立たないまま、外国で、はかなく消えて行く人生です。そんな彼らに神が救いの約束を語っているのが、先程お読みしたイザヤ書です。
  「私はあなたを選び、決して見捨てない。恐れることはない。たじろぐな。私はあなたの神。勢いを与えてあなたを助け、私の救いの右の手であなたを支える。・・・・・・恐れるな。虫けらのようなヤコブよ。イスラエルの人々よ。私はあなたを助ける」。(9,10,14節)
 「虫けら」と言われています。確かにそうです。彼らは虫けらのように、たちまちひねりつぶされてしまう、ちっぽけな存在です。自分の命を守ることも出来ない、吹けば飛ぶような虫けらを、誰が心に留めるでしょうか。虫けらの命を誰が惜しむでしょうか。でも神は、虫けらのような彼らを助けると、ハッキリ言われました。
そしてイスラエルの人々だけが「虫けら」なのではありません。すべての人間が弱く、はかない虫けらです。自尊心が高くて強情。そのくせ、罪と死のアリ地獄にズブズブと飲み込まれていくしかない、みじめな虫けらです。でも神は、虫けらのような私達人間を助けることに本気です。本気だから神は、ご自分の御子を私達と同じ人間として、この世に誕生させました。イエス様です。
神の御子が、私達と同じ虫けらの1人になりました。そしてご生涯の最後も、十字架の上で無抵抗のまま、ののしられ痛めつけられて、何の輝かしさもなく、虫けらのようにあっけなく死にました。
 私達はイエス様について、使徒信条の中で「十字架につけられ、死にて葬られ、陰府に降り」と告白しています。イエス様は死体となって、陰府の世界(死者の世界)に横たわりました。イザヤ書では「虫けら」と訳していましたが、使われているのは「うじ虫」と言う言葉です。イエス様は死んで陰府に降り、うじ虫の寝床に横たわるほど、無力で、卑しい虫けらに徹しました。生まれた時から死ぬ時まで、いいえ、死んでからも尚、イエス様は虫けらの私達と、どこまでも同じ姿になられました。
そしてその姿は、神の御心に適うものでした。なぜなら神は、虫けらの中にこそ、尊いご自分の命を、永遠の命を注ぎ込むからです。
  「キリストは、神の身分であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現われ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで、従順でした。このため神は、キリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになり
ました。」(フィリピ2:6-9)
 私達と同じ姿、いいえ、それ以上に、人からも神からも見捨てられて、虫けらのように死んだイエス様に、神は永遠の命を注ぐと、陰府の底から引き上げました。
イエス様を復活させたのです。仮死状態から、息を吹き返したのではありません。「完全な死」からの復活です。
これまでも聖書には、奇跡的に死人が生き返った話が出てきましたが、彼らは皆、時が来て死にました。生き返っても、彼らの命は朽ちる自然の命だったからです。
でもイエス様は、これまでとは全く別の命、永遠の命を注がれて、復活しました。
天地創造以来、初めて死人に、永遠の命が注がれました。そして死の中から立ち上がり、自然の命ではなく、永遠の命で生きる最初の人、新しい人が誕生しました。それがイエス様の復活です。
 虫けらの1人となっていたイエス様が、永遠の命を宿して復活しました。いわば虫けらの復活です。永遠の命が注がれて、虫けらだったイエス様が新しい人となって復活したのです。そしてイエス様が復活したのは、虫けらの私達を復活させるためです。イエス様の復活と同じように、私達を永遠の命で復活させるためです。勿論、そのためには終わりの日を待たなくてはなりません。でもイエス様が復活したから、イエス様の後に続いて、私達も復活します。虫けらが復活する道を、イエス様が開いてくださったからです。
「月とスッポン、ちょうちんに釣鐘」と言う言葉がありますが、「虫けらに永遠の命」です。とても釣り合いがとれません。ダンゴ虫やアリンコに本気でダイヤモンドを贈る人はいません。そんな人がいたら変だし、もったいない。でも神はイザヤ書で約束した通り、本気で虫けらを助けます。虫けらの私達にダイヤモンド以上のもの、永遠の命を本気で注いで、私達を助けてくださいます。大胆に永遠の命を注いで、虫けらの私達をイエス様と同じ神の子どもとして、神の家族として、ご自分の隣に座らせます。陰府に降ったイエス様が復活したから、陰府の底から神の隣に向かって、一本の道が伸びています。イエス様ご自身がたどった復活の道です。私達に歩かせるために、イエス様が開いてくださった復活の道です。そして私達に、この道を歩かせたい神なのです。私達は、取るに足らない虫けらなのに、そんな私達に、復活の道をどうしても歩かせたい神なのです。どうしても私達を失いたくない、私達を生かしたい、私達と一緒に生きたいと願う神なのです。私達を愛して止まない神なのです。
 神は清らかな天使ではなくて、虫けらの私達を選んで、愛してくださいました。私達が何かを持っているからではなくて、何も持っていない虫けらの私達を、神は選び、愛してくださいました。神の愛に理由はありません。神は愛だから、無条件に無制限に、私達をひたすら愛します。そして愛しているから、神は私達を見捨てません。たとえ私達が死んでも、神は私達を見捨てません。その証拠に、死んだら私達が向うはずの陰府の底に、神はご自分の御子を送って、そこからUターンして神に帰る復活の道を開きました。ちっぽけな虫けらのために、全知全能の神は、手段を選ばす何でもなさいます。なぜでしょう。先程も言いましたが、神の愛に理由はありません。ただ神は「私はあなたを選び、決して見捨てない」と言って、私達を愛してくださるのです。
 私達は、何と幸せな虫けらでしょう。私達は神から、ものすごく不釣合いな愛で愛されている幸せな虫けらです。そして神に愛されていることに気づいた私達に、イエス様は言われます。
  「私の言葉を聞いて、私をお遣わしになった方を信じる者は、永遠の命を得、また裁かれることなく、死から命へと移っている。」(ヨハネ5:24)
 イエス様の言葉を聞いて、神の愛を信じたすべての人に、永遠の命が与えられています。神の愛を喜び、神を信じるすべての人に、神の永遠が与えられています。歴史の流れの中では私達の人生など、ほんの瞬きの短さです。あっという間に、私達は衰え、朽ち果てて行きます。病も、老いも、貧しさも、愚かさもあります。苦しみや悩み、悲しみもあります。でも貧弱な虫けらの外見にもかかわらず、神を信じる私達に、永遠の命が宿っています。私達の朽ち果てる貧しさの中に、永遠が入りこんでいます。私達の弱さの中に、神ご自身が共にいてくださいます。そして私達のもろさを、全能の神の右の手がガッチリと支えていてくださいます。「見よ、私はあなたを脱穀機とする。新しく、鋭く、多くの歯をつけた脱穀機と」(イザヤ41:15)。
私達の見かけは貧弱でも、私達の中に宿る永遠の命は、死を噛み砕く脱穀機です。私達に立ちはだかる行き止まりの死の壁を、バリバリガリガリ噛み砕き突き破って、私達をイエス様と同じ姿で復活させます。「私は不毛の高原に大河を開き、谷あいの野に泉を湧き出させる。荒れ野を湖とし、乾いた地を、水の源とする」(イザヤ41:18)。
死と言う不毛を抱えた私達の中に、しかし永遠の命が大河のように流れています。まだそれは、地下水のように隠されていますが、復活の日に備えて、着実に私達を潤しています。だから虫けらであることを「恐れるな」と、神は言います。
 私達は、神に永遠をいただいている虫けらです。復活と言うダイナミックな神の約束を宿している虫けらです。そして神に愛されている虫けらです。だから私達は死にかかっているようで、しかしたくましく生きるのであり、何も持っていないようで、しかしすべてのものを持っています(2コリント6:10)。私達は虫けらであることを嘆かないし、恥じないし、恐れません。ミノ虫のように色々なものをかき集めて、見かけを飾ったりしなくても、神に愛されている今の自分をそのまま愛して、受け入れることが出来ます。
 神に深く愛されて、永遠の命をいただき、復活の約束をいただいていることは、私達の未来のためだけではありません。それは、私達の今をしっかり支えます。

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