日本基督教団御殿場教会  United Church of Christ in Japan Gotenba church

私の家は祈りの家

説教

タイトル :「私の家は祈りの家
聖書   : マタイ21:12-17
年月日  : 2012-10-7
   
イエス様はエルサレム神殿の境内に入りました。神殿には至聖所と呼ばれる最も
聖なる部屋が一番奥にあり、その外に祭司の庭、続いてイスラエルの庭(男性のみ)、
女性の庭、異邦人の庭がそれぞれ門によって区切られていました。境内と言われて
いるのは、神殿の一番外側にある異邦人の庭のことでしょう。そこでは、献げ物に
するハトや動物を売る商人たちや両替商たちが、たくさん店開きをしていました。
各地から神殿に訪れる人たちは、ここを素通りするわけには行きません。
各地から来た人たちは、まず持参したお金を、シェケルという献金専用のお金に
両替しなくてはなりません。神殿に納めるお金は半シェケル(2日分の賃金)でしたが、
その際、両替商たちは、べらぼうに高い手数料を取るのが常でした。
またハトや動物を神殿に献げる時は、祭司が献げ物としてふさわしいかどうかを
調べます。少しでも傷ついていたり、弱っていたりしたら献げ物には出来ません。
礼拝者は自分で献げ物にするハトや動物を持参することもできたのですが、祭司は
礼拝者が持ってきた献げ物について、何やかやと難癖をつけるので、結局、境内で
売っているハトや動物を買わざるを得ませんでした。でもその値段は非常に高額で、
貧しい人たちの献げ物であるハトでさえ、普通の20倍の値段で売られています。
もちろん神殿の境内で商売するわけですから、祭司たちの許可を得て、両替商や
商人たちは何ら悪びれることもなく商売をしていました。そして彼らの商売を許可
することで、祭司たちも巨額の富を受け取り、神殿の境内で公然と行なわれている
ボッタクリ商売に、一役かっていました。腹が立ちますが、祭司たちがグルなので
誰も文句が言えません。神殿の権威を背負っている相手とは、誰も戦えません。
でもイエス様は違いました。境内で商売をしていた人たちを追い出して、乱暴に
店の腰かけや台をひっくり返しました。そして言われました。
「私の家は、祈りの家と呼ばれるべきである。ところが、あなたたちは、それを
強盗の巣にしている」。
日本で言うと、祭りの屋台を次々ひっくり返して、境内から商売人を追い出した
わけです。日本でもこんなこと出来ません。エルサレム神殿でもそうです。今まで
見たこともないことが起きたので、居合わせた人は度肝を抜かれたことでしょう。
同時に「これは神殿の祭司たちへの挑戦だ。神殿で公認されている商売を妨害して、
このまま無事でいられるはずがない」と、誰もが思ったはずです。
それにしても、いつもは穏やかなイエス様なのに、なぜ口で教え諭すのではなく、
店をひっくり返すなど、いきなり乱暴な行動に出たのでしょう。
貧しい人、病んだ人、見捨てられた人にも、イエス様は近づいてこられて、憐み、
お声をかけました。そんなイエス様でも、突然厳しい行動に出ることがこれまでも
ありました。ペトロがイエス様について、正しい信仰告白をした後で、イエス様が
十字架の死と復活を予告しました。その時、「そんなことがあってはなりません」と
言ったペトロに、イエス様は「サタン、引き下がれ。あなたは私のジャマをする者。
神のことを思わず人間のことを思っている」と、手厳しい言葉を投げつけました。
今日の箇所でも、神殿の祭司が公認している商売人を、イエス様は本気で怒って
「強盗」呼ばわりしています。エルサレムに近いエリコには、多くの洞窟があり、
強盗の住処になっていました。神殿の商売人たちは、洞窟から現われては人を襲い、
丸裸にする強盗たちと同じだと言っているのです。そして聖なる神殿が、強盗たち
の居心地の良い住処に成り下がっていることに、イエス様の怒りは爆発します。
「私の家は、祈りの家と呼ばれるべきである」。
イエス様は神殿のことを「私の家」と言います。神殿は父なる神様とお会いする場
であり、御子であるイエス様には、まさに「私の家」でした。神様とお会いするため
の家が神殿です。その聖なる家に人々は集い、神様とお会いして神様を拝み、祈り
を献げます。だからイエス様は神殿を「祈りの家」とも言っています。私達は祈り
と言うと、自分が神様に語りかけることが、祈りだと思いがちです。でも祈りは、
一方通行ではありません。私達が語る以上に神様は私達に語りかけてくださいます。
だから祈りの家は自分だけがしゃべる場ではなく、むしろ神様の語りかけを聴いて、
神様の言葉を心に染みこませる場です。神様の言葉を聴いて、神様に応答し感謝
して祈る聖なる家が、神殿です。そこに生ける神様が臨在しておられるのです。
それなのに祭司たちは神殿から神様を追い出し、信仰を隠れ蓑に、神殿を金儲け
の場、強盗の巣にしています。神殿の商売が盛んになれば、エルサレムの町全体も
潤いますから「まぁ固いことを言わなくても、良いじゃないか」とは人の理屈です。
でもイエス様は、神様を神様として崇めることについて、一歩も妥協しません。
神殿が、ひれ伏して神様を拝む場ではなくなっている現実、祭司もグルになって、
神殿がボッタクリ商売の場になっている現実。このことにイエス様は本気で怒り、
彼らの行いに真剣にNO!と言います。そのことにより、どんな反撃を受けようと、
構いません。いつもは優しいイエス様ですが、しかし神様の聖なる道を妨げたり、
ねじまげたりする行いには、容赦しません。キッパリNO!と言って行動します。
 私達はこの世で、物を作ったり、売ったり、色々な仕事をして生活しています。
そのことは一般の人達と何ら変わりません。でも聖書はこのように言っています。
私達は生ける神の神殿なのです」(2コリント6:16)
「あなたがたの体は、神からいただいた聖霊が宿ってくださる神殿であり、
あなたがたは最早、自分自身のものではないのです」(1コリント6:19)
 私達は一般の人たちと同じように、この世で生活していますが、でも私達の体は
聖霊が宿る神殿であり、神様のものとして聖別されています。私達の体は頼りなく
弱々しいですが、それでもイエス様を信じて、イエス様と1つに結ばれて以来、
私達の体は、イエス様から「私の家」と呼ばれ、「祈りの家」とされているのです。
高齢で不自由な体でも、病気を抱える不安定な体でも、イエス様は、私達の体を
「私の家」と呼んでくださいます。そしてこの体に神様の言葉を届かせてくださり、
この体で神様に感謝と祈りを献げて、神様との交わりの中に入れてくださいます。
私達は確かにこの世で生活していますが、私達の体は最早、自分のものではなく、
神様のもの、イエス様のものです。従って仕事をするにしても、遊びに行くにしても
神様が喜ばれるよう、神様が崇められるよう、体を使うことが求められています。
「あなたがたは、食べるにしろ、飲むにしろ、何をするにしても、
すべて神の栄光を現わすためにしなさい」(1コリント10:31)
 日曜でも休めず、仕事をしなくてはならない日本の中で生活している私達です。
神社の掃除当番の回覧板が回ってくる御殿場で暮らしている私達です。神様の道を
ジャマする障害物が、生活の中にたくさんあります。だから譲れる枝葉は譲っても、
神様から離れないよう、偶像礼拝に流されないよう、注意しなければなりません。
そして生活の中で神様が喜ばれないこと、神様の道をまげることを要求された時は、
イエス様が商人を神殿から追い出したように、私達もまたイエス様のように相手が
何者であろうと断固NO!と言います。そのことによって私達は中傷され、傷を負う
かもしれません。でもそれはイエス様が受けた傷と同じです。
 イエス様は境内で体の不自由な人を癒しておられました。律法では体の不自由な
人が、神殿(イスラエルの庭)に入って礼拝することを、禁じています(サムエル下5:8)。
しかしイエス様の癒しを受けた人は体の回復だけでなく、礼拝者としても回復され
ました。神殿で神様をひれふして拝み、感謝し、祈る者として回復されたのです。
そのすばらしさを見た子供たちが、「ダビデの子にホサナ」と喜び叫んでいます。
礼拝から遠ざかっていた人が、イエス様の力によって、神様の前で祈りをあわせる
礼拝者として神殿に帰って来たのです。このことを喜ばずにいられるでしょうか。
 でもユダヤ教の指導者たちは喜ぶどころか、子供たちの讃美を不愉快に思います。
神殿から商人を追い出したイエス様が、子供たちに讃美されていることについて、
イエス様を問い詰めています。悲しい事実です。幼子の目には真の救い主・メシアが
見えており、喜び踊って讃美せずにはいられないのに、信仰の専門家の目には全く
そのことが見えないのです。彼らには、目の前のイエス様が、長年の神殿の習慣を
つぶした「憎らしい新参者」にしか見えません。その憎しみはイエス様を、十字架の
死へと追いやります。長年勉強した信仰の専門家でさえ、この程度です。
人はどんなに勉強しても、神様を分からない不自由な者です。でも神様は私達の
すべてを分かっておられます。キリストの体の一部とされ、イエス様から「私の家
・祈りの家」と呼ばれても、この世に生きる私達が、神様の前に、未だ不自由だ
ということを、神様は全部、分かっておられます。
分かっているから私達は、神様が現臨している家、生きたキリストの体、教会に
招かれているのです。私達を不自由にしているものを、御言と共にひっくり返し、
私達から追い出すためです。そして現臨しておられる神様をひれふして拝み、
祈り、自由自在に神様に仕える聖なる神殿の一部、祈りの家の一部、キリストの
体の一部として、私達を、礼拝ごとに養ってくださいます。 
イエス様の招きに信頼し、従って行きましょう。イエス様は「私の家・祈りの家」
と呼ぶにふさわしく、私達を日毎、手入れし、励まし、育ててくださいます。

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