日本基督教団御殿場教会  United Church of Christ in Japan Gotenba church

私に良いことをしてくれた

説教

タイトル :「私に良いことをしてくれた
聖書   : マタイ26:6:16   
年月日  :2014-4-6  
 エルサレムから約3キロ行くとベタニアがあります。マルタ、マリア、彼女達の
兄弟で、イエス様が生き返らせたラザロが住んでいる所です。そのベタニアに住む
重い皮膚病のシモンの家に、イエス様はおられました。きっとイエス様によって、
シモンの病が癒され、みんなで喜びの食事をしていたのでしょう。
その時、一人の女が高価な香油の入った石膏のツボをもち、食卓の席におられた
イエス様に近づいてきて、イエス様の頭に、持っていた香油を注ぎかけました。
 この出来事は、若干の違いはありますが、マルコ、ヨハネにも記されています。
ヨハネでは、ラザロの兄弟マリアがナルドと言う高価な香油をイエス様の足に注ぎ、
自分の髪の毛でイエス様の足をぬぐったと書かれています。マルコでは1人の女が
イエス様の頭にナルドの香油の入ったツボを壊し、香油を注いだと書かれています。
マルコとヨハネに書かれているのに、マタイで省かれているのは、注がれた香油が
300デナリオン以上もするという点です。300デナリオンと言うと、当時の1日の
賃金が1デナリオンでしたから、約1年分の収入にあたります。従って、マタイで
女がイエス様の頭に注いだ香油も、約1年分の賃金に価するほど非常に高価な香油
だったことが想像されます。
元々、お客へのおもてなしとして、香油を数滴注ぐという習慣があったそうです。
でも女はイエス様に数滴、香油を注いだのではなく、ツボの中に入っていた香油を
全部、イエス様に注いだようです。たちまち部屋中、すばらしい香りで一杯になり、
誰もが、「これは高価なナルドの香油だ」と気づきました。ですから弟子達は一斉に
「なぜ、こんな無駄遣いをするのか」と憤慨しました。弟子達は、ナルドの香油が
世間ではいくらで売れるか知っていたので「高く売って、貧しい人々に施すことが
できたのに」と、香油を1度に全部、イエス様に注いでしまった女を責めたのです。
 弟子達の言い分も良く分かります。弟子達は貧しい人々と食べ物を分かち合い、
一緒に寝泊りするなど、彼らの苦しい生活ぶりを知っていました。ナルドの香油を
1度に使い切ってしまうより、それを売ってお金に替えて、少しでも多くの貧しい
人々に、生活費として、いくらかずつでも分けた方が、賢い使い方だと弟子達には
思えたのです。けれどイエス様は違いました。
「なぜ、この人を困らせるのか。私に良いことをしてくれたのだ。貧しい人々は
いつも、あなたがたと一緒にいるが、私は、いつも一緒にいるわけではない。この
人は私の体に香油を注いで、私を葬る準備をしてくれた」。
 女が、ツボに入った高価な香油を、1度に全部、イエス様の頭に注いだことは、
無駄遣いではなくて、イエス様に良いことをしたのだと言うのです。しかも、その
良いこととは、「イエス様への葬りの準備」だと言うのです。弟子達には、何のこと
だか、さっぱり分かりません。20節以下を見ると、イエス様と弟子達は、過越祭の
食事をします。いわゆる最後の晩餐です。それが木曜日です。翌日の金曜日には、
イエス様は十字架につけられて死に、その体は手早く墓に葬られます。つまり女が
イエス様に香油を注いだのは、イエス様が十字架につけられて死ぬ2日前だったと
思われます。
 十字架で死んだイエス様の遺体が引き取られたのは夕方でしたから、日が沈むと
土曜日の安息日になり、何も出来なくなります。恐らく、遺体に香油をぬるなどの
充分な処置をする時間はなかったでしょう。せいぜい遺体をきれいな布に包み墓に
納めるのが、精一杯だったはずです。だとしたら、安息日を目の前にして、充分な
葬りの処置もされないイエス様のために、この女は高価な香油を全部使い切って、
今、イエス様が生きている間に、葬りの準備をしていたということになります。
 イエス様はこの2日後には、十字架で死んでしまいます。弟子達は高価な香油を
イエス様に注いだのは、無駄遣いと言いましたが、貧しい人々への施しは、今後も
弟子達は出来ますが、でもこの女は、「今しかできないこと」をしていたのです。
イエス様に香油を注ぐことは、今この時を逃したら、もう2度と出来ません。
女は、ただイエス様への愛と感謝の気持から香油を注いだのですが、でも神様は
女のしたことを、「イエス様への葬りの準備」としました。だからイエス様は「私に
良いことをしてくれた」と言ったのです。「良い」。元々は「美しい」と言う意味です。
女はイエス様のために、神様の時にかなった「美しいこと」をしていたのです。
 さらに、女は自分でも気がつかないうちに、イエス様にとって、一番ふさわしく、
美しく、良いことをしていました。サムエル記上16:13で、神様が王として選んだ
ダビデに、サムエルが油を注ぐ場面があります。神様に選ばれて、油を注がれた者
のことを、「メシア(ヘブライ語)、キリスト(ギリシャ語)」と言います。
 イエス様は、メシア、キリストです。しかもすべての人を罪と死の呪縛から救い
出すための「償いのいけにえ」となるために、裏切られ、見捨てられ、罵られて、
十字架の上で、惨めに死ぬ「メシア、キリスト」です。そして女はイエス様に
高価な香油をすべて注ぐことにより、イエス様こそがまさに「油注がれた者、
メシア、キリスト」であることを、神様の時にかなって「美しく」示すこと
になりました。
 でもこれらのことはすべて、女が「美しいことをしよう、良いことをしよう」と
思ってしたのではありません。女は、たまたまベタニアで、イエス様とお会いした
から、大切にしていた高価な香油をイエス様に注いで、お献げしただけです。でも
その時を準備して、女を行動させたのは、神様です。他人から「無駄遣いだ、バカ
じゃないの、もったいない」と言われても、女は神様のうながしに損得勘定もなく、
素直に従いました。
何の計算もなく、ただ単純に神様のうながしに従ったからこそ、女のした
ことは、イエス様にとって「良いこと」「美しいこと」になったのです。
神様に導かれて名前も記されない女のしたことは、イエス様から「私に良いことを
してくれた」と言われました。そしてイエス様の言葉通り、2000年後の今も彼女が
イエス様にした良いこと、美しいことは、世界中で宣べ伝えられています。
 その一方で、イエス様の葬りの準備をしていた者がいました。イエス様の弟子の
1人、イスカリオテのユダです。ユダはイエス様と寝食を共にしてきたイエス様に
最も近い弟子の1人です。ユダは、イエス様が英雄ダビデ王のようなメシアになる
ことを期待していました。そして自分たちも高い地位につけると期待していました。
でもイエス様は何度もご自分の死について弟子達に予告しています。26章2節でも、
「人の子は十字架につけられるために引き渡される」と言っていました。「ここまで
ついてきたのに、イエス様は期待はずれだった」。そんな憤りからでしょう。ユダは
祭司長たちの所に行って、銀貨30枚で、イエス様を彼らに引き渡す準備をします。
2人の人物が行った「イエス様への葬りの準備」。しかし名もなき女が香油を注いだ
ことと、弟子であるユダの裏切りは、あまりに対照的です。
 女が1年分の年収にあたる香油を、ためらいもなく全部イエス様に注いだのは、
神様の導きがあったのは勿論ですが、女がイエス様を心から慕い、感謝し、愛して
いたからです。愛は、他人から「無駄遣い」と言われることを平気でします。
愛はそもそも無駄遣いなんです。計算がないから。もし計算が入っていたら、
それは、愛じゃなくて、取引です。
私達がイエス様を礼拝しようと、教会に来ること。礼拝で献金し、奉仕すること。
他人には「無駄遣い」に見えても、すべてイエス様への愛から出てくることです。
愛するが故に出てくるから、神様の時に適った「良いこと、美しいこと」になります。
 しかし私達人間がどんなに「良いこと、美しい」ことをしても、決して届かない、
「最も良いこと、美しいこと」を、イエス様が十字架の上で行ってください
ました。
無謀にも、すべての人を愛しぬき、すべての人のありとあらゆる罪を赦すために、
ご自分の命を十字架の上で全部、使い切ったのです。ですから女が、高価な香油を
イエス様に全部注いだ以上に、すべての人にイエス様の尊い血潮、罪の赦しの
血潮が惜しみなく、注がれています。誰がこのことに気づいているでしょう。
弟子達の言葉を借りると「なぜ御子の血をこんなに無駄遣いをするのか」。それは
すべての人を計算なしで愛しているからです。
無視され、感謝もされないのに、それでもイエス様はすべての人を愛して、罪の
赦しのすべての人に向かって血潮を注ぎ続けます。
でもせめて今、この礼拝の場にいる私達は、イエス様がしてくださる「最も良いこと、美しいこと」に気がついて、心からの愛と感謝と讃美をもって、イエス様に応答したいのです。

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