日本基督教団御殿場教会  United Church of Christ in Japan Gotenba church

私に会う

説教

タイトル :「私に会う」   
聖書   : マタイ28:1-10  
年月日  : 2015-1-4
特記事項 : 新年礼拝  
安息日が終った週の初めの日。日曜日のことです。夜が明けるとマリアたちが、
イエス様の墓へ出かけて行きました。他の福音書によれば、イエス様の遺体に香油
をぬるためとしています。イエス様を墓に納める時、安息日が迫っていて、充分な
遺体処理が出来なかったからだと思われます。マリアたちが墓についた時、大きな
地震が起きました。自分達が立っている大地が大きく揺らぎ傾き、ひび割れていく。
これだけでも腰が抜けるほどの恐怖なのに、更に主の天使が、光り輝く姿で天から
降り、墓をふさいでいた石をわきに転がし、その石の上に座りました。「大きな石も
封印も、神様の力を封じ込めることは出来ない」と言わんばかりです。
その場に居合わせたローマ兵は恐ろしさの余り、震え上がり死人のようになった
と書いてありますが、マリアたちも同じように、恐ろしさに震えていたのでしょう。
そこで天使が「恐れることはない」と言ってから、「十字架で死んだイエス様は墓の
中にはおられないこと。予告しておられた通りに、復活されたこと。そして死者の
中から復活したイエス様と、ガリラヤでお目にかかれること」を、急いで弟子達に
告げるよう、天使はマリアたちに伝言しました。
 「イエス様は死者の中から復活した」。
 イエス様を埋葬した時、マリアたちは絶望にうちひしがれて墓の前に座り込んで
いました。「神様は沈黙しておられる。イエス様の叫びにも、私達の祈りにも、何も
答えてくださらなかった」。そう思っていましたが神様の沈黙の答えがこれです。
墓の中で、神様が人に代わって闘って得た戦利品、「イエス様の死からの
復活」が、神様の沈黙の答えです。見捨てられ滅ぼされてしまう者を、死の中に
放置しないで、神様は新たな命で復活させ、救い上げてくださるのです。イエス様
が十字架につけられてから3日目の朝、日曜日の朝、ついに神様の沈黙は破られ、
イエス様の復活と共に、「罪と死の中から復活して生きよ」と、神様は私達に「罪の
赦しの宣言」と「死を超えた復活の命で生きる救いの宣言」をしてくださいました。
 石が取りのぞかれた墓の中は、外から見ても、カラッポだと分かったのでしょう。
マリアたちは恐怖で混乱していましたが、天使が告げた「イエス様の復活」によって、
かねてからイエス様が予告しておられた復活の言葉を、「そうだ、そうだった」と、
ようやく思い出したのではないでしょうか。
 「天使が告げたように、イエス様が言っておられた復活は本当のことだったんだ」。
そのことが分かると、今までの悲しみや嘆きは吹き飛んで、大きな喜びに満たされ、
彼女達は墓から立ち去って、弟子達の所へ走って行きます。
 その途中、マリアたちの行く手にイエス様が立っておられて、「おはよう」と声を
かけました。なつかしいイエス様の声。思わずイエス様に近づきました。やっぱり
イエス様です。本当にイエス様です。マリアたちはあふれでる喜びと畏れと共に、
イエス様の足を抱きしめました。その足には十字架の傷痕が残っていたはずです。
傷痕のある足を抱きしめたまま、マリアたちは、復活されたイエス様をひれ伏して
礼拝しました。何と言う幸い。復活のイエス様のお体に触れることができるとは。
「主よ、信じます。あなたは確かに十字架で死に、墓に葬られましたが、かねての
約束通り、3日目にこうして死の中から復活されました。」
マリアたちは歓喜の涙にあふれながら、大いなる畏れに震えながら、イエス様の
足を抱きしめて、イエス様を救い主と信じ、あがめ、礼拝をささげます。
そしてイエス様の足を抱きしめたということは、復活されたイエス様のお体は、
幻や夢などではなくて、確かにあると言うことです。
 救い主が誕生したと言う天使のお告げを聴き、飼い葉桶に眠る幼子のイエス様を
最初に礼拝したのは、祭司や律法学者などではなく、名もない羊飼いたちでした。
同様に、天使のお告げを聴き、弟子達の所に行く途中、イエス様に声をかけられて、
復活のイエス様を最初に礼拝したのは、12弟子ではなく、ただの女たちでした。
 イエス様の誕生、イエス様の十字架の死、そして復活。その現場に立ち合わせて、
証人となり、礼拝者となるのは人の意志によるのではなく、神様の自由な意志、
選び、導きです。神様が導いてくださらなければ、人はイエス様と立会い、イエス
様の証人となり、イエス様を礼拝することは出来ません。それ故、10節のイエス様の言葉は、貴重な「招きの言葉」として、聴くことができます。
 「恐れることはない。行って私の兄弟たちに、ガリラヤへ行くように言いなさい。
そこで私に会うことになる」。
 「私の兄弟」とは、イエス様の弟子達のことです。弟子と言っても「イエス様を
3度も知らない」と言ったペトロや、逮捕されたイエス様を見捨てて、逃げ出した
者たちです。彼らは臆病な者、裏切った者、失敗した者たちですが、そんな彼らを
復活のイエス様は「私の兄弟」と呼び、ガリラヤに招いて、お会いになるのです。
 「私に会う」。原文は「私を見る。見て知る。認める。体験する」ということです。
彼らはガリラヤに招かれて実際、リアルに「復活のイエス様を見て、認めて、
体験することになる」のです。
 何のために。復活のイエス様とガリラヤでお会いすることで、「死者からの復活が
事実だ」ということを彼らに体験させ、確信させて、復活の証人とさせて、彼らを
再びイエス様の弟子として、立ち上がらせ、この世に派遣するためです。
 イエス様の弟子達に限らず、人は皆、弱く、挫折します。信仰者であっても迷子
になり、大失敗をします。私達は皆、未完成な半端者です。でもそのような者を、
復活のイエス様は招き、会ってくださり、復活の命を体験させて、ご自分の弟子と
して用いてくださるのです。何度失敗しても、くりかえし招き、会ってくださり、
弟子として立ち上がらせて、用いてくださるのです。だからペトロをはじめとする
弟子達は、最後まで「イエス様の弟子としての道」を歩み通していきました。
 「私と会う」と言われているのは、ペトロたちだけではありません。私達もまた
復活のイエス様から「私と会う、私を見て、認めて、体験する」と言われています。
「私と会う、私を見る」と言うけど、「復活のイエス様を見たことはない」と私達は
言うでしょう。ペトロやマリアたちが見て、触った復活のイエス様は、その40日後、
天に昇られました。だから私達は肉眼で、復活のイエス様を見ることは出来ません。
でも私達はいつも復活のイエス様の目の前で生きています。目に見えなくても、
私達はいつも、復活のイエス様の目の前で食べたり、寝たり、泣いたり、笑ったり
しています。私達はいつも、復活のイエス様とお会いしています。そのことが一番
明らかになる場が、「礼拝」です。礼拝は、私達にとっての「ガリラヤ」です。
聖霊に満ちた礼拝に、復活のイエス様がおられます。だから礼拝に招いて、
「私と会う」と言う言葉を実現させてくださいます。誤解を恐れずに言うなら、
私達は礼拝において「復活のイエス様の中」に招き入れられ、イエス様の中
にいます。だから自分では気づかなくても、礼拝において、私達は復活のイエス様
に取り囲まれ満たされながら、復活のイエス様にお会いしています。そして私達は
イエス様の中で、イエス様が語りかけてくださる言葉を聴いて、イエス様から差し
出されるお体を食べ、イエス様ご自身を受け取ることで、復活のイエス様を見て、
お会いして、体験させていただいているのです。勿論、これらは聖霊の働きによる
ものです。例えると、お母さんのお腹の中にいる胎児に似ています。胎児はお腹の
中でお母さんの声を聴き、お母さん自身を受け取り、お母さんを体験しています。
 復活のイエス様は「私と会う」(あなたは私を見る。私を体験する)と言われました。
そしてこのことを、誰よりも第一に、イエス様ご自身が願っていてくださるのです。
それは、私達が復活の力に固く信頼することで、どんな所、どんな挫折や失望から
でも私達を立ち上がらせ救い上げて「イエス様の弟子の道」「復活の命に続く道」を
最後まで歩ませたいからです。
 先月、納骨式を行い、召された方の姉妹が出席されました(皆さん、信仰者です)。
納骨式の前日に、長女の方が召された方の夢を見たそうです。満面の笑顔で、何か
うれしそうに話かけているけれど、聞き取れなくて「Nちゃん、イエス様にお会い
できたの」と尋ねたら、益々、笑顔になって一生懸命、長女の方に話しかけてくる、
そういう夢だったそうです。
 私達が顔と顔を合わせて、復活のイエス様とお会いするのは、神様の国に帰って
からです。でもこの地上において、いつでも私達はイエス様の目の前で生きている
こと、また礼拝のたびごとに、復活のイエス様とお会いし、イエス様の言葉を聴き、
イエス様ご自身を受け取り、体験させていただいていることを忘れませんように。

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