日本基督教団御殿場教会  United Church of Christ in Japan Gotenba church

私につまずかない人は幸いである

説教

タイトル:私につまずかない人は幸いである
聖書  :マタイ福音書11:2-6
年月日 :2009.11.01
特記事項:

ここに登場するヨハネとは、イエス様に洗礼を授けた人物です。ヨハネは神からメシアの到来に人々を備えさせる務めを託されていました。しかし彼はヘロデ王の怒りを買って、投獄されています。そのヨハネに、イエス様の噂が届いたようです。2節は「イエス様のなさったことを聞いた」ではなく「キリストのなさったことを聞いた」となっています。
「キリスト」とは、ヘブライ語の「メシア」のギリシャ語訳です。つまり「メシアの業が行われているのを獄中で聞いた」ということです。イエス様が行っていた数々の業が、まさに旧約聖書に預言されていたメシアの業だったからです。
かつてイエス様が洗礼を受けるために、ヨハネのもとに来た時、彼はイエス様を見るなり、「私こそあなたから洗礼を受けるべきだ」と言いました。イエス様の中に「来るべきメシア」を予感させる何かを見たからです。そして獄中でイエス様の噂を聞けば聞くほど、ヨハネは、ますますイエス様とメシアを重ねて行きました。
またこの時代、ローマに支配されていたユダヤ人は、神から遣わされたメシアが敵を破って、イスラエルの王として君臨することを待望していました。
イエス様が本当に来るべきメシアなのか、ヨハネも確かめずにはおられません。そこで彼は自分の弟子をイエス様のもとに送って、確かめさせています。
「来るべき方はあなたでしょうか。それとも他の方を待たなければなりませんか」。
イエス様に洗礼を授けた時、この方だと思ったはずなのに、ヨハネの問いは随分控え目です。「あなたのことを待っていました」と言っても良かったはずです。
「メシアは神の敵を倒し、すべての罪を裁いて、神の民を回復するはずなのに、なぜイエス様はローマを倒して自分たちを解放してくれないのか」。そうした疑問がヨハネに、控え目な問いをさせたのかも知れません。
これに対してイエス様は「巷で見聞きしていることを、ヨハネに伝えなさい」と彼の弟子に言っています。
巷で人々が見聞きしていること。すなわち、イエス様によって目の見えない人が見えるようになり、足の不自由な人が歩けるようになり、重い皮膚病を患っている人が清くされ、耳の聞こえない人たちが聞こえるようになり、死者が生き返り、そして貧しい人たちに、福音が告げ知らされている事実です。
 目の見えなかった人が見えるようになる。これは「上を見る。仰ぎ見る」と言う意味の言葉です。イエス様によって、視力を回復されただけでなく、神を見失っていた人たちが、神を仰ぎ見るようになる。立ち上がる力のなかった人たちが、神を讃美して人生を歩み始める。病に苦しむ人たちは癒されて、神に造られた者として尊厳を取り戻していく。耳を塞がれていた人たちが、神の言葉に聞き従って行く。太刀打ちできない死の絶望と恐怖が、希望の命に向かってくつがえされる。立派な人たちにではなく、見捨てられていた貧しい人たちに、喜ばしい御国の福音が告げ知らされていく。ヨハネに伝言したイエス様の言葉は、明らかに旧約聖書を意識しています。たとえば・・・。
「その時、見えない人の目が開き、聞こえない人の耳が開く。その時、歩けなかった人が鹿のように躍り上がる。口の利けなかった人が喜び歌う」(イザヤ35:5-6)。
 「主は私に油を注ぎ、主なる神の霊が私をとらえた。私を遣わして貧しい人に良い知らせを伝えさせるために」(イザヤ61:1)
 これらの旧約の御言は、終わりの日に実現する救いの約束であり、救い主として
のメシアの業です。イエス様はヨハネの問いに、旧約の御言を交えて答えることで、
ご自分の業が、旧約に約束されていた救いの成就であることを、明かしています。
まさにご自分がメシアだと明かしているのです。そしてご自分が真のメシアだから
こそ、「私につまずかない人は幸いである」と、イエス様は言います。
 「つまずく」。聖書では「信じないこと、不信仰に陥ること」を意味しています。
イエス様は病人を癒したり、福音を宣べ伝えるほかにも、罪の赦しを宣言するなど
奇跡的な業をたくさんなさっています。だから世間がイエス様を来るべきメシアだ
と期待するのは、無理もないことです。英雄ダビデのように敵を倒し、自分たちに
神の民としての誇りを取り戻してくれる。偉大な力で罪人を撃ち滅ぼして、苦しめ
られている人たちを解放してくれると期待するのは、無理もないことです。獄中の
ヨハネも、恐らくそのように期待していたでしょう。
 しかしイエス様は、ヨハネをはじめ、世間の期待を完全に裏切るメシアでした。
 イエス様は、旧約聖書が預言してきた真のメシア、真の救い主です。しかし神が世の初めから準備し、イエス様に託した救いの業は、ヨハネたちが思いもつかないものでした。神がイエス様に託した救いの業、メシアの業は、いまだかつて歴史が経験したことのない、人間の期待や思いをはるかに超えるものでした。
「天が地を高く超えているように、私の道はあなたたちの道を、私の思いは
あなたたちの思いを、高く超えている」(イザヤ55:9)
イエス様は人々が期待するように、罪人を審いて、撃ち滅ぼすメシアとして来られたのではありません。罪人を赦して救うために、罪人の身代わりとなって命を捨てるメシアとして来られたのです。
なぜならヨハネだろうが、ユダヤ人だろうが、ローマ人だろうが、すべてが罪人だからです。すべての人が神の審きによって撃ち滅ぼされてしまう罪人だからです。
だから神は、みずからの罪によって滅ぼされてしまうすべての人を、独り子の命で贖うことを決意されたのです。イエス様は、そのために世に遣わされたメシアです。
罪人が神の審きによって滅ぼされないよう、すべての罪を肩代わりして、十字架で
死ぬことを、神に命じられたメシア。それがイエス様です。
 「あなたが御心に留めてくださるとは、人間は何者なのでしょうか。人の子は
何者なのでしょうか。あなたが顧みてくださるとは」(詩編8:5)
 アーメン、真に然り、その通りです。神は罪人である私達を、御心に留めてくださいました。そして私達を救うために、御子の命も惜しまず顧みてくださいました。
私達を愛しているからです。私達を愛しているから、神は罪人を審くのではなく、
御子の命と引き換えに罪人を赦して、神の家族として受け入れてくださるのです。
不条理なほど、罪人に惜しみなく注がれる神の愛そのものが、つまずきです。
 「私は背く彼らを癒し、喜んで彼らを愛する」(ホセア14:5)
「私の名を呼ばない民にも、私はここにいる、ここにいると言った。反逆の民、思いのままに良くない道を歩く民に、絶えることなく、手を差し伸べてきた」
(イザヤ65:1)
 神の愛は、人間の理解、人間の常識を、はるかに超えたつまずきです。そしてこの世の目からは、つまずきでしかない神の愛を実現するために、イエス様は世に来られました。だからイエス様のすべてが、この世の目には、つまずきと映ります。
 神の独り子が、罪人と同じ姿でこの世に生まれたこと。罪のない方がヨハネから罪の悔い改めの洗礼を受けたこと。偉大な力であれほど多くの人を救っていたのに、自分のためには石をパンにさえ変えず、英雄にもならなかったこと。無抵抗のまま何の弁明もしないで、神にさえ見捨てられて十字架で死んでしまったこと。しかし3日目に死人の中から甦られたこと。そしてこのことによって、イエス様が「罪人を復活の命に導く道」となられたこと。
イエス様がなさったメシアの業はすべて信じがたく、この世をつまずかせます。でもこれらのつまずきは、すべて私達のためです。神の御子が人となられたのも、洗礼を受けたのも、十字架で死に、そして復活されたのも、すべて私達を救うためです。「罪人を赦して、イエス様と同じ神の子に作り変える」という、常軌を逸した救いを成し遂げるためです。
「招かれるはずのない人を招き、救われるはずのない人を救う。」
自分の思いや期待をはるかに超える神の愛に、つまずかない人は、幸いです。この神の愛を忠実に実現していくイエス様に、つまずかない人は、幸いです。
自分のものさしに振り回されないで、イエス様をメシアと信じる人は、幸いです。
 私達が住む日本は99%がノンクリスチャンです。神がどのようにして1人1人を救われるのか。いつ、どこで、どのように1人1人と出会ってくださるのか。また途上にある私達の信仰を、どのような仕方で導き、養ってくださるのか。私達には知らされておりません。それは神の自由です。神の救いの計画を私達が下書きして「この通りにやってください」と、神に注文することは出来ません。
しかし私達を救うために、ご自分の独り子さえ惜しまなかった神の愛を、私達は知っています。だから私達は神の愛に信頼します。罪人を命の中に招いてくださる神の救いのご意思に信頼します。私達を日々救いの完成へと導き、養ってくださる神の言葉に固く信頼します。
引き続き、聖餐式を行います。イエス様は「これは私の体である」と言ってパンを
渡してくださいます。「私につまずかない人は幸いである。私に信頼し、私の言葉に信頼する人は幸いである」。幼子のように信頼して、イエス様を受けましょう。

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