日本基督教団御殿場教会  United Church of Christ in Japan Gotenba church

神様の全能

説教

タイトル :「神様の全能」   
聖書   : ローマ8:31-36  
年月日  : 2015-6-7
特記事項 :

 今、カテキズムでは使徒信条についての信仰問答を扱っています。今回は問い26。「我は全能の父なる神を信ずの全能とは、どのような意味ですか」。答え「全能とは、神様が何でもお出来になるということです。でも一番大切なことは、神様がご自分を低くして、私達人間を、心から愛してくださると言うことです。愛せない者をもすることができるということこそ、本当の全能なのです」
 この問いと答えを聴いて「そうだよね、アーメン」と言っていただけたら、もうそれだけで、今日の礼拝は充分、幸いです。でも与えられました御言に聴くことを通して、神様の全能が私達の生活とどのような関わりがあるのか、そのことを更にしっかり、それぞれの体で自覚しておきたいと思います。
 天地万物を言葉一つで造り上げるほどの全能の力を、神様はもっておられます。神様が口にされた言葉は出来事となって、この世に現われ、実現します。たとえば未婚だったマリアが、天使から男の子を身ごもったことを告げられて、「ありえない」と否定しますが、天使はマリアに「神に出来ないことは何一つない」(ルカ1:37)と告げていました。
 「神に出来ないことは何一つない」。神様が願い、望むならば万事が可能になる。神様の力には限界がなく、サタンも死も退ける最強の力であり、何にも妨げられることなく自由、かつ永遠に働くことができる力。これが神様の全能です。

 でも「全能の力」について、私達が注意深く心に留めておかねばならないことがあります。自由に働く最強の力。この力に、昔から人々は憧れ、求めて、この力を手に入れようと争ってきました。もちろん全能の力、万能の力と言うのは、神様のものですが、人がこの力を手にしたと思い込むと、その力は、善にも悪にも働くということです。もし独裁者が全能の力を手にしたら最悪です。最強の力で、自分に逆らう者の命を奪います。自分に全能の力があると勘違いする者たちのふるまいにより、傷つき、命や家族を奪われ、生活する場所さえなくなるなど、多くの悲劇が歴史の中に、昔も今も、深く刻まれています。

 従って私達が使徒信条で告白している神様の全能」は、このような身勝手で自分の利益追求のために使われる傲慢な力とは、全く別物だと言うことです。

 そこで神様の全能が、単なる万能の力、最強の力ではないことを、最も明らかにしておられるのが、神様の御子イエス・キリストです。全能の神様は、御子をこの世に送られました。しかもマリアを母とし、人の体をもつ者として御子をこの世に誕生させ、人と同じ生活をしながら、最後はすべての人の罪の赦しの「いけにえ」とするために、神様はご自分の御子を惜しむことなく、十字架の死に渡されました。
 御子を、人々の罪の赦しの「いけにえ」として死なせたということは、「人は皆、一点の曇りもない善人なんかではなく、神様に逆らう者、神様に背く者だ」と言う、明らかな事実、現実を示しています。

 何千年もの間、神様は預言者たちを通して、絶えず語りかけてきましたが、人はどんなに教え、諭しても、聞く耳を持ちませんでした。ですから神様は、ご自分に逆らう者、背き続けてきた人類を、全能の力で、一瞬にして、きれいサッパリ全滅させることもできたわけです。実際そうされても、文句は言えない私達です。
 でも神様は、私達を全滅させるために全能の力を使うのではなく、アダムに始まる「救うに価しない罪人、自分を罪人と思ってもいない私達」を罪から救い出し、神様の子供として新しく生かすために、全能の力を使われました。
その証が、御子の十字架の死です。御子イエス様は、万物が造られる以前から、父なる神様と共におられた命の言、神様の言であり、父なる神様と等しいお方です。
 でもイエス様は御子としての栄光を捨て、私達と同じ生身の人間になられました。そして何一つ罪を犯さず、地上において、神様の御心に従い通したにもかかわらず、愛する者たちに裏切られ、見捨てられ、十字架の苦しみと辱めを受けて、息を引き取ります。イエス様はご自分の死について、弟子達に何度も予告しておられましたから、逃げようと思えば、十字架の死から逃げ出すことは簡単でした。

 イエス様は神様の御子です。イエス様も神様の全能の力を使うことができました。でもイエス様は、ご自分を救うためには使いませんでした。イエス様は、人の体を持っていたので、当然、私達と同じエゴも持っていたはずです。でもイエス様は、ご自分のエゴや損得勘定など、何にも縛られることなく、全く自由にすべての人を愛し通すことに、神様の全能を使われました。
 すなわちイエス様は、無抵抗のまま、呪われた者、見捨てられた者、最も低い者、最も貧しい者となって、滅ぼされても文句の言えない全人類の罪の赦しのために、ご自分の命を十字架の上で、献げました。
 自分のエゴや自己保身から完全に自由になって、捨て身で、誰のことも分け隔てすることなく、すべての人を愛せる力。捨て身で、すべての人を罪から救い出して神様の子供として永遠に生かすという最善を願い、それを実現してくださる愛の力。
ここに、神様の全能の真価があります。
 神様が、御子イエス様のみじめで敗北としか見えない十字架の死を通して罪深い私達の味方になってくださる「究極の愛」こそが、神様の全能です

 従って、神様の全能と十字架のイエス様を、切り離すことは、出来ません。むしろ十字架のイエス様の中に、神様の全能が鮮明に現われ、輝いています。誰が罪人の味方になりたいと思うでしょう。厄介事には誰だって関わりたくない。しかしすべての罪人の味方になるために、あそこまで貧しく、みじめになれるほど、神様は愛することに、最強であり、最善であり、自由であり、全能なのです。

 ローマ書の著者パウロは、神様の愛の全能を、肌身で体験した1人でした。彼は教会の迫害者でしたが、神様の愛の全能によって救われました。自分が本当は神様の敵だったことに目を開かれ、終わりの日には、復活の主キリストが、自分の罪を神様の右でとりなしてくださる恵みを悟りました。「こんな自分が神様に救われる」と言う法外な神様の愛の全能にパウロは屈服して、残りの生涯を、「神様の愛と罪の赦し」を宣べ伝えるために献げました。迫害、拷問、最悪に思える時であっても、パウロの中で「神様の愛の全能」が燃えていたので、最後まで人を愛して、神様の救いを語ること、伝道することを諦めませんでした。これはパウロの力ではない。
 新約聖書に残されているパウロの手紙は、彼が悠々自適の時に書かれたものではありません。むしろ苦難の時、明日の命も分からない最悪の時に、恐れることなくパウロは諸教会に向け、渾身の愛の配慮をこめた手紙を、何通も書き送っています。
 神様の全能が、パウロに働いたからです。神様の全能が、ひとしずく与えられたなら、最悪の状況も最善へのチャンスに変える神様の全能を信じ、人は行動を始めます。捨て身になって、自由に愛するため、生き生きと働きだします。

 全能の神様は、御子と一緒に、必要なすべてのものを私達に与えてくださいます。自由に愛する神様の全能をも、ひとしずく私達にただで注いでくださいます。「ただで受けたのだから、ただで与えなさい」とイエス様は言われました(マタイ10:8)。
 「神様の全能のひとしずく」の中には「イエス様の十字架の愛」がつまっています。だから神様の全能をひとしずく、ただで受けた私達は、イエス様の愛に全身包まれて、多くの人を愛し、神様の全能をただで、互いに分かち合います。

 ある教会員の方と一昨日、面会しました。目も見えず、耳も悪くて補聴器に直接話かけて病室のベッドの上で会話をしました。お体が不自由なので、施設内にある教会に今は出席されています。「今、出席している施設内教会に転出したい」と面会で言われました。その教会で礼拝を守っているのは現在、男性会員1人だけです。
 だから「自分が教会に加わることで、その教会を少しでも支えていきたい」と言われました。御殿場教会から、たった1人しか出席者がいない教会に籍を移すことで、多くの重荷を担うことになるのは、目に見えています。でもほとんど寝たきりの不自由なお体の方ですが、この方に、神様の愛の全能が注がれていること、全身がイエス様の愛に包まれていることを確信しました。神様の愛の全能が注がれているから、体は寝たきりで、耳も目も不自由だけど、自由に愛する力は、ベッドの上から外に向けて、ドンドンあふれ出し行動します。全能の神様が味方になり、イエス様の愛に包まれているから、寝たきりでも決して後ろ向きにならず、愛することに自由に、大胆にチャレンジすることができます。

 これは、その方だけのことではありません。神様の全能の愛を、今、注がれている私達自身のことでもあります。

 

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