日本基督教団御殿場教会  United Church of Christ in Japan Gotenba church

神をほめたたえなさい

説教

タイトル :「神をほめたたえなさい
聖書   : コロサイ3:12-17
年月日  : 2017-3-5
 
前回はコロサイ3章5~9節で、洗礼を受けた時に脱ぎ捨てる「古い人」について
語っていましたが、本日の箇所では「古い人」を脱いだ後、神様が着せてくださる
「新しい人」について記しています。 
 洗礼を受けて「新しい人」を着た「あなたがた信仰者」は、神様により一方的に
選ばれた者、聖なる者、愛された者とされたのだから、当然のこととして「憐れみ
の心、慈愛、謙遜、柔和、寛容」をも着るようにと求めています。これらはすべて
キリストの特質です。つまり信仰者は、「キリストの豊かさ」を次々と、新しく着て
いくよう求められているのです。
でも12節は「身に着けなさい」と、命令形で語っています。なぜ命令形なのか。
キリストの豊かさは、一生かけても知り尽くせないほど限りなく奥深いものです。
その限りないキリストの豊かさを、日々怠らずに受け取って、着続けて行く
ことが、神様から与えられている信仰者の生涯の使命だからです。
前回も言いましたが、洗礼を受けて終わりではありません。洗礼を受けてから、
「新しい人」「信仰者」としての新しい人生が始まるのです。
 改めて本日の箇所を見てみると、ほとんど命令形の文章になっています。私達は
本能的に命令されることに反発しますが、この世の朽ち果てる豊かさではなくて、
永遠に朽ち果てない豊かさ、「キリストの豊かさを日々着なさい」と、神様から命じ
られているとは、何と幸いなことか。
 次に13節で命じているのは、「互いに忍びあうこと」です。互いに忍耐強くある
こと。これは1コリント13:4-7にある愛の本質でもあります。「愛は忍耐強い。・・・
すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える」。忍耐強さは重要な
愛の要素です。愛することは簡単ではなく、忍耐が求められます。忍耐しない愛は、
愛ではない。私達にはムリです。でも神様は愛です。取るに足らない厄介な私達を、
何があろうと決して見捨てず、あきらめないで、神様は、忍耐強く愛しぬきます。
この神様の満ちあふれる愛の神性を宿しているお方が、キリストです(コロサイ2:9)。
だからキリストのご生涯を見れば、いつでも、どこでも忍耐強い神様の愛によって、
キリストが働き、教え、語っておられたことが分かります。そしてキリストが証し
ている「忍耐強い神様の愛」の極みが、「十字架の死による罪の赦し」です。
13節の「赦す」は「恵みとして与える」が本来の意味です。従って「赦す」
とは、人間の力量で行えることではなく、あくまでも、「神様の恵みとして
与えられるしかないもの」です。
ペトロが「何回まで赦せばいいか」と尋ねた時、「7を70倍するまで赦しなさい」
(制限無く赦せ)と答えたキリストの言葉の通り、罪の無いキリストはムチ打ちされ、
辱められ、無残で呪われた十字架の死を遂げてまで、罪ある私達を忍耐強く愛して、
完全な罪の赦しを「恵み」として与えてくださいました。私達が罪の赦しを知る
以前に、もう既に「十字架のキリストからの恵み」として、完全な罪の赦し
が、すべての人に無条件で与えられていました。それゆえ13節は「互いに忍び
合い、責めるべきことがあっても、赦し合いなさい。主があなたがたを赦してく
ださったように、あなたがたも同じようにしなさい」と命じているのです。
こうして信仰者は「互いに赦し合える恵み」も着せていただきます。それなのに
私達は、あれこれ屁理屈を並べて、「赦し合う恵み」をなかなか着ようとはしない。
相手を赦したら、自分の正しさが曲げられてしまう気がするから。相手を徹底的に
打ちのめさないと気が済まないから。このように、油断していると私達のエゴは、
「キリストからの罪の赦しの恵み」を押しのけて、前面にしゃしゃり出て来ます。
 そのため「これらすべてに加えて、愛を身に着けなさい」(14節)と命じています。
これまで着たものはすべて、神様の愛によって与えられる恵みですが、それらが、
私達のエゴでバラバラにされないよう、すべての恵みと私達をシッカリつなぎ
合わせる「愛と言う完全な帯・絆を結べ」と言っているのです。
 お雛様の十二単じゃないですが、たくさんの恵みを重ね着させていただいても、
それらが、はだけないで自分の体と1つになって着こなせるように、帯でしっかり
結んでおく必要があります。この役目をするのが、愛です。神様の愛です。
私達のエゴ・神様の愛に背を向ける罪は、引き離し、対立させるために働きます。
けれども神様の愛は、全く異なるものを、1つに結び合わせるために働きます。
信仰者になっても「慈愛、謙遜、柔和、寛容、赦しの恵み、キリストの豊かさ」は、
私達人間にとって異物であり、本来、私達には備わっていません。だからそれらを
着崩れしないよう、あたかも浴衣一枚を着こなすためには「愛と言う完璧な
帯、絆」で、与えられた恵みをガッチリ体に結びつけておくことが大切です。
 これも1コリント13:1-3で言っていることですが、どんなにスゴイ賜物や知識、
信仰があっても、そこに愛が無ければ、無に等しい、無いのと同じなのです。 
さて、多くの神様の恵みと私達信仰者が、愛の帯でしっかり結び合わされた後、
命じられているのは「キリストの平和があなたがたの心を支配するようにしなさい」
(15節)。この世には争い、対立、混乱、不条理があります。でもこの世がどんなに
荒れていても、私達はこの世の只中で、キリストの平和を生きることが出来ます。
キリストの平和は、「キリストの愛と赦しを信じる平和」、「死に勝利した
キリストを信じる平和」です。この「キリストの平和」を、私達が肌身で体験し、
喜び、感謝して生きるために、神様は私達を教会に招き、互いに組み合わせ、1つ
のキリストの体としてくださいました。
キリストの体とは教会を意味します。でもキリストの体は御殿場教会だけでなく、
歴史に横たわる世界中の教会が、キリストの体です。歴史に横たわるキリストの体
の中に招き入れられた私達は、いつでもキリストと共にいます。時と場所を越え、
キリストの体の中で、私達はパウロやペトロ、ルターやカルヴァンなど、すべての
信仰者と1つにつながっています。
だからキリストの体の中に入れられている私達信仰者同士が、まず互いに
「キリストの平和」をリアルに生きていなかったら、内輪モメばっかりして
いたら、この世に「キリストの平和」を発信できません。誰よりも先に、私達
信仰者こそ、互いに「キリストの平和を信じ、感謝して、実際に生きるよう」
言われています。そのために欠かせないことが、16節以下に記されています。
まず礼拝において、キリストの言葉が私達の魂の奥深くまで、豊かに宿る
ようにしていただくことです。キリストの言葉とは、キリストご自身です。キリ
ストによって私達が埋め尽くされるよう、私達のすべてをケチケチしないで
キリストに明け渡すのです。そしてこの世の知恵ではなくて、キリストの言葉を
聴くことで与えられる神様の愛の知恵を、互いに分ち合いながら、教え合い、諭し
合うのです。
さらに、「詩編と賛歌と霊的な歌により、感謝して、心から神をほめたたえなさい」。
この手紙が書かれた当時、聖書の詩編や礼拝のための歌が歌われていました。詩編
以外の歌の具体的な種類については分かりません。今日の教会も御殿場教会のよう
な讃美歌を歌う教会もあれば、ゴスペルなどを歌う教会もあります。どんな讃美歌
でも、口先だけでなく、御言を聴いた恵みを受けて、歌詞や曲の意味を噛みしめ、
心から歌いたい。なぜなら讃美歌と言う言葉の通り、礼拝で歌われる歌は、すべて
神様をほめたたえるための献げ物だからです。献金だけが献げ物ではない。祈りも
讃美歌も、時間と体を献げる礼拝出席も、神様をほめたたえるための献げ物です。
「感謝して、心から神をほめたたえなさい」の直訳は、「愛(恵み)の中で、神様に
向かって、あなたがたの心をこめて歌いなさい」。つまり神様をほめたたえるとは、
時が良くても悪くても神様を愛して、自分を神様に向かって献げ尽くすこと。
最悪の時でも尚、神様の恵みを確信し、神様と1つになることを目指して、
忍耐強く生きぬくこと。これが「神様をほめたたえる」ということです。
この後に歌う讃美歌532番は、シベリウス作曲の「フィンランディア」と言う曲
の一部です。シベリウスの故郷フィンランドは、長く他国の支配下で苦しめられて
きた歴史があります。虐殺など残酷な仕打ちを受けても、尚、人々は神様を愛し、
神様の恵み、キリストの勝利を確信して、集っては讃美して歌い続けました。これ
こそ、神様をほめたたえる姿ではないでしょうか。
 先月、神山教会の礼拝後、Uさんの病室を訪問しました。体調はかなり悪そうで
した。既に目は見えなくなっており、微かに聞こえる左耳に声をかけると、教会の
方々の名前を次々とあげて、どうしているかと尋ねられました。一人一人のために、
ご自分は苦しい病床にありながら、神様にとりなし祈ってくださっていたのです。
 また先週は、松山の病院に入院中のKさんをお見舞いして来ました。面会できる
所で話をしていたら、同じ病室で、退院される方々が、Kさんに心から感謝して、
挨拶して行かれました。お互い手術を受けた病人同士で、Kさんは自分が信仰者だ
と言ったわけではありませんが、Kさんの言葉の端々や仕草いから、自然に神様の
愛が同じ病室の方々に伝わり、病の痛みや不安を和らげていたのだと思いました。
 「新しい人」を着た信仰者は、どんな状況におかれていても、尚、神様を愛して、
神様に信頼して神様をほめたたえて生きます。そして何を語り、何をするにしても、
主イエス・キリストの名によって行い、主イエス・キリストを通して、神様に感謝を
献げて生き抜きます。神様を本気で愛し、神様の愛に信頼して生きているから、
自分の生活のすべてで神様の愛、神様の御心を表し、神様をほめたたえます。
そしてその生き方は、必ず周りの人に伝わり、必ず人を変えていきます。

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