日本基督教団御殿場教会  United Church of Christ in Japan Gotenba church

神の業が現われるため

説教

タイトル :「神の業が現われるため
聖書   : ヨハネ9:1-12
年月日  : 2017-7-2
  
生まれつき目が見えない人が、道の隅に座り込み、物乞いをしていました。そう
する以外、生活することが出来なかったからです。そこをイエス様と弟子達が通り
かかり、イエス様はその人に目を留められた時、弟子達がイエス様に尋ねました。
2節「ラビ、この人が、生まれつき目が見えないのは、誰が罪を犯したからですか。
本人ですか、それとも両親ですか」。
 私達からすると、弟子達の質問は、かなり無神経で無礼な質問としか思えません。
でもこれは無理もないことでした。古代社会では病気になったり、災いが起きたり
すると、罪を犯したから、神様が罰しているのだと人々は解釈していたからです。
実際、旧約聖書には、罪を犯した人々が神様に命を奪われるなど、そういう場面は
たくさん出てきます。イエス様の時代も、不幸は、本人や親の罪のせいだと誰もが
思い込んでいました。いわゆる「因果応報」と言う考え方です。このものさしで、
人々は世間を判断していました。だから弟子達も「道端の人が盲人として生まれた
原因また責任は、誰にあるのか」とイエス様に尋ねたわけです。
しかしイエス様は「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない」
と言われました。
これは画期的な言葉です。世間では、「今ある不幸は、罪を犯したことが原因で、
その責任は当事者にある」、「そこには何一つ善いものはない」とされていたのに、
イエス様は「不幸や災い=罪のせい」と言う伝統的公式をあっさり否定しました。
それでは、この人が盲人として生まれたのが罪のせいじゃないなら、なぜこの人は
盲人として生まれたのでしょう。
私達も色々な不幸に遭って苦しみます。そのたび「こうなったのは親のせいだ」
とか「○○のせいだ」とか言いたくなります。でもそんなことを言っている限り、
何の解決にもならいなし、不毛な憎しみを生み出すだけです。
そこでイエス様は、これまでとは全く違う角度で、人の不幸や苦しみについて、
答えています。「神の業がこの人に現われるためである」。
彼が盲人として生まれたのは、彼の苦しみの中に神様の業が現われるためでした。
イエス様は、彼が盲人として生まれた原因、また人が苦しむ原因を探るのではなく、
「今ある苦しみは何のためなのか」「何のために苦しむのか」、人が苦しむ目的に、
焦点を当てます。
苦しみの原因ではなく、苦しむための目的を、イエス様は明らかにします。
しかもその目的とは「神の業が現われるため」と言う神様の栄光が目的です。
 旧約のヨブは、神様とサタンの賭けのため、いわれのない苦しみを背負います。
最初は苦しみに耐えていましたが、途中から「何のために苦しむのか」と、神様に
食ってかかります。でも与えられた苦しみが「サタンとの賭けに神様が勝つため」
であり、「ヨブの中に神様の業が現われるため」だと、もしもヨブが苦しみの目的を
最初から知っていたら、ヨブは一言のグチも言わず、それどころか喜んで苦しみに
耐えたのではないでしょうか。
 さてイエス様は4節以下で、「ご自分をこの世にお遣わしになったお方、すなわち
神様の業を日のあるうちに行わねばならない。誰も働くことが出来ない夜が来る」
と言い、更に「私は世にいる間、世の光である」と言っています。これはどういう
意味なのでしょう。簡単に言うと、イエス様はもうすぐ十字架につけられて、亡く
なられます。従って「世の光であるイエス様が地上におられる間に、少しでも多く
やるべき神様の業を行わねばならない」と言うことです。そのためには、安息日で
あろうが、例外はありません。
そしてその言葉通り、この日は安息日でしたが、イエス様はツバで土をこねて、
盲人の目に塗ると、「シロアム(遣わされた者と言う意味)」の池で洗うよう、盲人に
命じました。その人はイエス様の言葉に聞き従って、シロアムの池に行って洗うと、
目が見えるようになって帰って来ました。それは、シロアムの池の水に癒しの力が
あったのではなく「シロアム・神様に遣わされた者」であるイエス様の言葉に
癒しの力があったからです。だから力あるイエス様の言葉に聞き従い、水の洗い
を受けた時、生まれつき盲人だった人の目は癒され、見えるようになったのです。
「御言を受け入れて、水の洗いを受ける」。これは私達に洗礼を思い出させます。
でもここでは、癒された人の信仰については何も言っていません。ただイエス様が
命じた言葉に聞き従って、水の洗いを受けたら、その人の目が開いて、目が見える
ようにされた。それだけです。
でもこの人は地上の世界を見られるようになっただけではなく、イエス様が行う
神様の救いの業、神様の世界までも、見られるようにされました。地上にいても、
神様の救いの業、神様の世界が現われることを、見えるようにされたのです。
目が見えるようになった人が驚いたのは、初めて見る地上の景色ではありません。
こんな自分の中に実際に現われた「神様の業」です。イエス様の言葉によって、
貧しく弱い自分の中に、神様の救いの業が現われたのです。そしてそのこと
をハッキリこの人は見たのです。
洗礼は、「神様の業、神様の世界を見る目」が開かれるための「第一歩」
です。洗礼は、その人がどれだけ聖書や信仰の知識があるかではなくて、イエス様
からの一方的な恵みと、神様からの一方的な愛と導きによって与えられる贈物です。
この一方的な恵みと愛と導きを、素直に受け取ったことで、盲人の人生の中に、
「神様の救いの業」が現われ出たのです。
 14節に書いてあるように、この日は安息日だったので、病人の癒しは禁じられて
いました。イエス様は安息日違反を犯したことになります。このことは後で問題に
なりますが、そのことは次週以降のお楽しみです。
 イエス様によって神様の業が現われ、目が見えるようになった人を、人々が取り
囲み、不思議がっています。生まれつきの盲人で物乞いだった人が、目を見開いて
いるので、疑い深い人は「似ているだけで、本人ではない」と言い張りましたが、 
癒された人自身が本人だと証言しています。また癒された方法についても、正直に
答えています。ただ「目を癒した人が、どこにいるのか」と言うことについては、
「知りません」と答えています。本当に知らなかったからです。
 私達は病気や事故など様々な災難を、出来るだけ避けたいと願っています。でも
そう願っていても、信仰者であれ、牧師であれ、皆、災難に遭います。悪人だから
災難に遭うわけではない。パウロも自分の病気が癒されるよう、主に祈りました。
でも「私の恵みはあなたに充分である。力は弱さの中でこそ充分に発揮されるのだ」
(2コリント12:9)。これが主からの答えでした。
災難に遭い弱くされ、痛み、傷つき、泣きわめき、へこまされ、バックリ
口を開けた人生の中でこそ、また頑ななエゴが徹底的に打ちのめされた中で
こそ、神様の力が充分に発揮され、そして神様の業が現われてきます。
あの盲人のように、またパウロのように、神様の力を拒絶するものが取り去られ、
ただ神様の力を受け取るだけにされていることは、幸いです。
イエス様は無実でしたが、十字架で死にました。世間的には最低最悪の姿です。
でも十字架で死に、全く無力なイエス様の中に、神様の最強の力が発揮され、
そこに「最大最高の神様の業・全人類への神様の愛と赦し」が現われました。
 神様は、「死を復活に変える力」、「罪人を神様の子供に変える力」をお持ちです。
神様はどのような災難であろうと、「益に変える力」をお持ちです。そして災難も、
「神様の救いの業が現われるための現場」に、変えることが出来ます。この
神様の力を、私達の救い主・イエス様は持っておられます。
 「主は羊飼い、私には何も欠けることがない。‥・・・死の影の谷を行く時も、私は
災いを恐れない。あなたが私と共にいてくださる」(詩編23:1,4)。
イエス様は私達と共にいてくださり、どんな最悪の時も、死の床でも、そこを、
「神様の救いの業が現われる現場」に変えてくださいます。
と言うよりも、私達の1日24時間、私達が過ごす一刻一刻が、イエス様に
よって、神様の救いの業が現われる現場にされています。
私達が過ごす全ての時間が、「信仰の世界」が新たに現われる現場であり、
イエス様をもっと深く信じて、感謝して、ほめたたえるチャンスが、私達に
向かって大きく開かれている「恵みの現場」でもあります。
これほどの恵みが私達の日常生活に現われているのに、そのことに全く気づかず、
見過していたら、もったいない話です。
だから1人1人の中に、神様の業が現われているのをしっかり見させるために、
今日も私達を礼拝に招き、イエス様が私達の目に触れて、くもりも歪みもない清い
信仰の目を、私達に開いてくださるのです。

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