日本基督教団御殿場教会  United Church of Christ in Japan Gotenba church

神の御心はあなたがたが聖なる者となること

説教

タイトル:神の御心はあなたがたが聖なる者となること
聖書  :第一テサロニケ4:1-8
年月日 :2009.05.03
特記事項:

 パウロはテサロニケ教会に願いを伝えるにあたり「主イエスに結ばれた者として」と言っています。直訳すると「主イエスの中で」ということです。田んぼでは今、田植えをしていますが、パウロもテサロニケ教会も、罪の苗床から引き抜かれて、「主イエス・キリスト」と言う新しい命の中に植えられた人たちです。お互いに
キリストの中で、神のものとされた人たちです。
そして神のものとされた彼らが、生活の指針としていたのが、「神の喜び」です。「何が神に喜ばれることなのか。どうすることが神の望みなのか」。これが、彼らの思うこと、行うことの土台となっていました。そしてこのことは、彼らだけでなく、本来、すべての信仰者に言えることです。
 私達も洗礼を受けて、キリストの命の中に移され、神のものとされていますが、私達は日々の生活の中で、何を喜びとし、誰を喜ばせているのでしょうか。家庭において、職場において、また信仰生活において、私達は誰が喜ぶことを目指しているのでしょうか。私達は自分の喜びにはとても敏感です。だから益々自分の喜びを追い求めて行きます。でもその喜びが、自分ひとりだけの喜びになってはいないか。自分が喜んでいる時、果たして神も喜んでおられるのか。私達は少し立ち止まって見直してみる必要があります。
 でも「神の喜び」について、きちんと押さえておかねばならないことがあります。それは、神を喜ばせたら私達が救われるとか、神を喜ばせた分だけ、私達にご利益があると言うのではありません。神の機嫌取りを神にしなさいと、パウロは勧めているのではありません。
そうではなくて、神に愛され、神に救われ、神のものとされたから、私達は神の喜びを求めるのです。
神に愛されていることが分かった時、自分ひとりだけの喜びは色あせて行きます。
そして私達を愛して、受け入れてくださった神を悲しませたくないと、心から願う
ようになります。神に愛されて救われたから、そして神のものとされているから、
私達は神の喜びを、みずから願うようになります。
 テサロニケ教会は、パウロの伝道の生き様を通して、神が喜ぶ生き方を目で見て学んできました。そして彼らも実際、パウロにならって、困難の中でも神の喜びを
求めて生きていました。そんな彼らにパウロは「どうか、その歩みを今後もさらに続けてください」と念を押すように、願っています。パウロが特別、心配性だったからではありません。
テサロニケ教会は、真の神を知らない異邦人に囲まれて、みだらな行い、貪欲な行いが当たり前の環境の中にいました。神を知らなければ、神の喜びを求めることも知りません。ただ自分の喜びだけをむさぼり、求めて行きます。
3節以下では、みだらな行いを避けること、汚れのない心と尊敬の念をもって、妻と生活すること、情欲におぼれないこと、人を踏みつけたり、あざむかないことが命じられています。世間では、これとは反対のことが頻繁に起きていたからです。だからパウロはそうした環境の中にあっても、神に喜ばれる生き方を失わないようにと、テサロニケ教会に念を押していたのです。
その上で更に「神の御心は、あなたがたが聖なる者となることだ」と告げています。
神が願い、神が望んでおられるのは、私達が周りに流されないで、聖くされることだと、パウロは告げています。確かに旧約聖書には、このように書いてあります。
「あなたたちは私のものとなり、聖なる者となりなさい。主なる私は聖なる者だからである」(レビ20:26)。
神は昔から「聖なる者になれ」と命じてきました。そのように命じる神は、愛と正義の源であり、唯一聖なるお方です。にもかかわらず、「聖なる者になれ」とは、
「神と同じ聖なる者になれ」と言うことです。しかもパウロは、「私達が神と同じ聖なる者となることが、神の御心、神の願い、神の意志だ」と言っています。
でも人は、自力で聖くなることは出来ません。聖さとは神の聖さであり、人から出てくるものではないからです。
「聖」とは元々「分ける、区別する」と言う意味です。だから神の聖さは、罪ある私達には本来、近づき難いもの、遠く隔たったものです。しかし驚くべきことに、神はご自分の聖さ、聖なることを独り占めしません。なんと、ご自分の聖さを分け与えて、私達を神と同じ聖なる者にすることが、神の御心なのです。
神の聖さは、私達に分けたら、減ってしまったり、汚れてしまうような聖さではありません。神の聖さは、罪ある私達が、神の聖さを身にまとうことを願う愛の聖さです。神の聖さは、私達を罪の汚れの中に放置しない愛の聖さです。それ故、
聖なる神は、私達がどのような者であろうとも、ご自分の聖さを惜しみなく、分け与えてくださいます。
だから「聖なる者になれ」とは、「自分で頑張って聖くなれ」と言うことではなく、「神の聖さを受け取りなさい、神ご自身を受け取りなさい」と言うことです。
 そして神は、礼拝の説教の言葉に、また聖餐式のパンと杯に、聖霊を働かせて、これを受け取る私達の中に、神の聖さ、神ご自身を分け与えてくださいます。
洗礼を受けて、それで私達の聖さが完成するのではありません。洗礼はゴールではなくて、洗礼から私達の中に神の聖さが始まります。洗礼から私達の中に神が始まります。それはインマヌエルの神、キリストです。
私達が聖なる者となるとは、「洗礼によって私達の中にキリストが生まれ、聖霊に満ちた礼拝によって、私達の中でキリストが大きく広がっていく」と言うことです。
そして自分を日々占領していくキリストを体感していたパウロは「生きているのは私ではありません。キリストが私の内に生きておられるのです」と告白しています(ガラテヤ2:20)。
 7節「神が私達を招かれたのは、汚れた生き方ではなく、聖なる生活をさせる
ためです」。
礼拝を通して、私達には神の聖さ、愛の聖さが与えられます。そして私達の中にキリストが大きく広がっていきます。すると、私達の中のキリストが、自分だけが喜ぶ生活ではなくて神が喜ぶ生活へと、私達を突き動かします。愛さない生活ではなくて愛する生活、汚れた生き方ではなくて聖なる生活へと、私達を突き動かして行きます。
 自分だけの喜び、自分だけの居心地良さを追い求めていた私達です。それが礼拝の中で、神の聖さ、愛する聖さをふんだんに与えられて、神の喜びに向かって、愛することに向かって、私達は聖められて行きます。
礼拝は私達を形作ります。神を喜ぶ者、愛する者、キリストに似た聖なる者へと、私達を形作ります。そして礼拝の中で、私達が聖くされること、私達が聖なる者となることを、神は喜んでくださるのです。私達が愛さない者ではなく、愛する者になること。赦さない者ではなく、赦す者になること。キリストに似た者になることを、神は喜んでくださるのです。
4章の小見出しには「神に喜ばれる生活」とあります。「神に喜ばれる生活」と言うと、私達は「神のために何かしなくては」と思いがちです。でも実際は逆でした。神が私達に聖霊を与えて、神の聖さを分け与えてくださるのです。私達を聖くするために、神がすべて働いてくださるのです。そして私達が少しずつ聖くされていくことを、神は喜びます。神は何よりも私達を喜びとします。神は私達のために喜んでくださるのです。
そして私達が神の聖さにあずかり、聖なる者となることは神の御心なのだから、
私達は自分が聖なる者にされるよう、もっと大胆に、遠慮なく、ガンガン神に祈り求めて良いのです。そのように私達が神の聖さを祈り求めることをも、神は喜んでくださいます。それだけではありません。
私達が受け取るのは、神の聖さです。ご自分の聖さを独り占めしないで、惜しみなく私達に分け与えることを願い、そのことを喜んでくださった愛の聖さです。
だから神の聖さを受ければ受けるほど、私達は自分に与えられた聖さが、さらに多くの人たちに分け与えられることを願い、そのために仕えて行くようになります。
そして自分が聖められたように、さらに多くの人たちが聖められること、聖なる者とされることを、心から喜ぶようになります。
 そして私達は、神の喜びに加えられて行きます。神の喜びを、喜ぶようにされて行きます。愛する喜び、聖なる喜びを、喜べる者とされて行きます。それこそが、聖なる者です。
 「天地創造の前に、神は私達を愛して、ご自分の前で聖なる者、汚れのない者にしようと、キリストにおいてお選びになりました」(エフェソ1:4)
私達が聖なる者とされることは、神の御心であり、天地創造前からのご計画です。それゆえ神は必ず私達を、そして教会を聖めてくださいます。神の御心に信頼し、さらに多くの人たちが聖なる者とされるよう、大胆に祈り求めて行きましょう。

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