日本基督教団御殿場教会  United Church of Christ in Japan Gotenba church

神の右に座したまえり

説教

タイトル :「神の右に座したまえり」   
聖書   : ヨハネ5:9-18 問い37
年月日  : 2016-05-01
特記事項 :

 本日もカテキズムの信仰問答をふまえて御言に聞きます。本日の問い37は「全能の父なる神の右に座したまえりの意味を説明してください」。答え「全能の父なる神の右とは、全能の神様と等しい地位と言う意味です。復活の主は、神の御力をもって私達を守り、導き、支えていてくださいます。そのイエス様を私達は礼拝しています」

 イエス様は、ベトザタの池で38年間も病気で苦しんでいた人に、「起き上がりなさい。床を担いで歩きなさい」と命じて、癒しの奇跡を与えました。その人はすぐ良くなって、寝ていた床を担ぎ、歩いていたのですが、それをユダヤ人たちが見て言っています。「今日は安息日だ。だから床を担ぐことは、律法で許されていない」。

 十戒にも安息日を守るよう記されています。しかし時代と共に、安息日の解釈は神様を愛することより、仕事をしないことに重心が置かれて、「安息日に歩くことが出来る範囲や持ち運べる荷物の重さ」などが、呆れるほど細かく決められ、それを越えると仕事をしたということで即、律法違反になりました。イエス様に癒された人が担いでいた床は、安息日に運べる荷物の重さを越えていたのでしょう。そこでユダヤ人たちは、彼を律法違反と決め付けたのです。

 でもその人は「自分は床を担いで歩けと言われただけで、自分は悪くない」と、言い逃れをします。「では、床を担いで歩けと言ったのは誰か」と、ユダヤ人たちはその人を問いつめましたが、彼はイエス様のことを知りませんでした。

 この後、彼は神殿の境内で、再びイエス様と出会うことになります。イエス様は彼に向かって「あなたは良くなったのだ。もう罪を犯してはいけない。さもないと、もっと悪いことが起こるかもしれない」と言われました。「38年も苦しんだ病気が癒され、あなたは良くなった」。でもそれは「肉体が健康になった」というだけではありませんでした。イエス様に働く神様の力で、肉体が良くなっただけではなく、神様の御前にも「良くなった、清くされた、神様の御業を現わす器とされた」と言うことです。だから神様の御前に良くなり、清くされ、神様の器とされたことを、罪を犯して(神様を拒んで)ムダにするな」とイエス様は警告しているのです。

 私達は、病気のこと、家族のこと、仕事のことなど、助けを求めて祈りますが、助けられた後で、私達は神様に、イエス様に、どう応えて生きているのか。そこが問われています。「喉もと過ぎれば、熱さ忘れる」。自分が大変な時にだけ、助けを求めて「神様、イエス様」と大騒ぎするけれど、助かってしまうと後は知らんぷり。神様の助け、イエス様の救いが、信仰に結びつかない。神様を信じて生きることにつながらない。イエス様に従って生きることにつながらない。自分の苦しみが取り除かれれば、それだけで良い。信仰は要らない。「ご利益のつまみぐい」です。

 病気を癒していただいた人は、そうならないよう警告されていたのですが、彼はイエス様を信じて生きるのではなくて反対のこと、すなわち「自分に安息日違反をさせたのはイエスだ」とユダヤ人たちに知らせました。自分が律法違反とされるのを恐れて、大恩人のイエス様を裏切り、告げ口したのです。この後ユダヤ人たちはイエス様を迫害し始めます。長患いを癒された男は「恩を仇で返し」ました。いえ、それ以上のことを、彼はしてしまいました。

 「御子を信じる者は裁かれない。信じない者は既に裁かれている。神の独り子の名を信じていないからである」(ヨハネ3:18)
 イエス様から大きな救いをいただいたのに、イエス様を信じることを拒んだため彼は「38年の病気より、もっと悪いこと、最悪なこと」「神様の審き」を、みずから引き寄せてしまったのです

 イエス様はユダヤ人たちから迫害されるようになりましたが、それでも構わず、安息日だろうが、平日と同じように、イエス様は人々を助けて、救っていました。律法を守ることに厳格なユダヤ人にとって、イエス様は忌々しく目障りな目の上のタンコブです。そんなユダヤ人に向かって、イエス様は言われました。17節です。

 「私の父は今もなお働いておられる。だから私も働くのだ」
 天におられる父なる神様は、天地万物を造られた後、休んだままではありません。神様の言葉に聞き従うことを拒み、神様から離れたすべての罪人が救われるよう、神様は今も休むことなく、働き続けます。生ける神様は安息日に縛られることなく、ご自分の救いの御業を自由に行い、働き続けます。だから神様から世に遣わされた御子イエス様も、父なる神様と同じように、神様の救いが完成する終わりの日まで、休むことなく、自由に働き続けます。しかしイエス様の言葉は、ユダヤ人の怒りに油を注ぎました。彼らはイエス様を殺そうと、イエス様の命を狙い始めたのです。
と言うのも、イエス様が安息日を破るだけでなく、神様をご自分の父と呼んで、ご自分を神様と等しい者とされたからです(18節)。

 ユダヤ人にとって、神様とは祖先をエジプトから導き、救い出してくださった方お1人だけであり、「他に神があってはならない」と十戒の最初にも書かれています。

それなのに神様のことを、堂々と父と呼び、あたかも「自分を第2の神」のように神様と等しい者とするとは、神様への最大の冒涜であり、ユダヤ人が烈火のごとく怒り、イエス様を殺そうとするのは、当然のことでした。けれども''ヨハネ福音書は一貫して、「イエス様を神様と等しいお方」と、証言しています。

 「言は神であった。・・・言は肉となって、私達の間に宿られた・・・それは父の独り子としての栄光であって・・・父の懐にいる独り子である神、この方が神を示されたのである」(ヨハネ1:1,14,18)
「トマスは答えて、『私の主、私の神よ』と言った」(ヨハネ20:28)
「これらのことが書かれたのは、あなたがたがイエスは神の子メシアであると信じるためであり、信じてイエスの名により命を受けるためである」''(ヨハネ20:31)

 これらを心に留めて本日の信仰問答を見てください。「全能の父なる神の右に座したまえり。右と言うのは力の象徴です。そして「神の右」は、神様の全能と権威を表しています。従って「十字架の死から復活されたイエス様が天に昇り、全能の父なる神様の右に座られた」と言うことは、「復活されたイエス様は、父なる神様と同じ全能と権威を持っておられる神様であり、神様の独り子として、父なる神様と等しいお方だ」と言うことを告白しています。

 「神様の独り子イエス様は、父なる神様と等しい地位におられる」から、マルコ福音書の不当な裁判が行われる場面で、大祭司を始めとする大勢のユダヤ人たちに向かって「あなたたちは、人の子が全能の神の右に座り、天の雲に囲まれて来るのを見る」(マルコ14:62)と、イエス様は言われたのです。

ユダヤ教徒にとって、神様への最大の冒涜としか聞こえないし、思えないこと、知恵や理性ではつかみきれないことが、実は、''神様の救いの奥義''だったのです。

 復活のイエス様は天に昇り、父なる神様の右の座について、父なる神様と等しい全能の力、偉大な権能を持っておられます。それは何のためか。
神様から、毎日たくさんの賜物や助けをいただきながらも、不信仰な私達です。しかしイエス様は神様の右にいて、不信仰な私達を絶えずとりなし、ご自分が持っておられるすべての力と権能で、私達の信仰を日々守り、導き、支えてくださっています。そしてご自分が座っておられる天にある王座、ご自分の隣りに、私達のことも座らせて、私達を救ってくださるのです。

 そうです。私達をご自分の隣りに座らせて、救うために、イエス様は天に昇り、一足先に、神様の右の座に着いてくださいました。このイエス様を、花見の席を確保するため、皆より早く良い場所にブルーシートを広げて、皆が来るのを座って待って、「ここだよ、ここだよ」と招いてくれる人に譬えたら、失礼でしょうか。

 先週の「天に昇り」の説教の中で、「復活されたイエス様が、天に昇ってくださったことで、私達は天に本国を持つ者とされた」と言いました。そして私達の本国を天にしてくださったイエス様は、インマヌエル(神、我らと共にいます)のお方です。

 だから天に帰っても、私達はイエス様と離れ離れになりません。天においても、イエス様はインマヌエルのお方ですから、神様の家族として、イエス様の弟や妹として、私達はイエス様の隣りにいることが赦されます。これほどの救いと恵みが、私達のために、天において、ちゃんと用意されています。

 この救いと恵みを確信していたから、使徒パウロは、迫害など数多くの苦しみに遭いながらも、希望と讃美をもって、次のように言えたのです。
 
''「現在の苦しみは、将来、私達に現わされるはずの栄光に比べると、
取るに足らないと、私は思います」''(ローマ8:18)

powered by Quick Homepage Maker 4.27
based on PukiWiki 1.4.7 License is GPL. QHM

最新の更新 RSS  Valid XHTML 1.0 Transitional