日本基督教団御殿場教会  United Church of Christ in Japan Gotenba church

祈りで闘(たたか)う

説教

タイトル :「祈りで闘(たたか)う」 
聖書   : マルコ14:32-42
年月日  : 2020-3-1

「最後(さいご)の晩餐(ばんさん)」と言われる弟子達との最後の食事をしてから、イエス様は弟子のペトロ、ヤコブ、ヨハネを伴(ともな)って、ゲッセマネという所に来ました。でもいつものイエス様とは明(あき)らかに様子(ようす)が違(ちが)います。イエス様はひどく恐れて、もだえ始めると彼らに「私は死ぬばかりに悲(かな)しい。ここを離(はな)れず、目を覚(さ)ましていなさい」と言われました。しかしなぜイエス様が死ぬほど悲しいのか、何を恐れて苦しんでいるのか、彼らにはサッパリ分かりません。
 イエス様は彼らから少し先に行ったところで、地面(じめん)にひれ伏(ふ)して祈り始めました。
「できることなら、この苦しみの時が自分から過(す)ぎ去(さ)るように」(35節)
 苦しみの時とは、十字架の時です。神様の御子でありながら、人の姿(すがた)でこの世に生まれてきました。それは十字架の苦しみを、人の姿のままで受け取るためです。
そしてすべての人の代(か)わりに「神様から完全(かんぜん)に見捨(みす)てられた者」とされるためです。
この十字架の時を迎(むか)えるために、誕生からこれまでの歩みがあったのです。それは充分(じゅうぶん)、分かっています。分かっているけど、こう祈らざるをえなかったのです。
 私達は教会で、十字架を当たり前のように見ています。また十字架のクロスが、世間でもアクセサリーになるほど親(した)しまれています。でも十字架は処刑(しょけい)道具(どうぐ)です。
イエス様は十字架で死ぬ直前(ちょくぜん)に「我が神、我が神、なぜ私をお見捨(みす)てになったのですか」(マルコ15:34)と大声(おおごえ)で叫(さけ)びました。
そうです。イエス様が1番(ばん)苦しんでいたこと、イエス様が何とかして逃(のが)れたいと祈っていたのは、「神様から見捨てられた者となってしまうこと」でした。
 さきほどニカイア信条(しんじょう)で、御子イエス・キリストについて「父と同質(どうしつ)である」と告白しました。イエス様は、父なる神様の御子であり、父なる神様と等(ひと)しいお方、そして父なる神様と常(つね)に共(とも)におられて(ヨハネ16:32)、父なる神様と1つになっているお方です(ヨハネ10:30)。人の姿でこの世に誕生(たんじょう)されても、イエス様は片時(かたとき)も父なる神様と離(はな)れたことはありませんでした。どんな時も父なる神様と1つでした。
しかし、これから向き合わねばならない十字架の上では、違(ちが)う。いうならば生身(なまみ)の体が、真(ま)っ二つに引(ひ)き裂(さ)かれるように、父なる神様から引き離されてしまうのです。
だからイエス様は、36節で、このように祈らずにはおられませんでした。
 「アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯を私から取(と)りのけてください」。
 この杯(さかずき)とは、イエス様が父なる神様と切(き)り離(はな)され、引き裂かれてしまう苦しみの杯です。過去(かこ)、現在(げんざい)、未来(みらい)、罪(つみ)を犯(おか)しながら生きることしかできない、すべての人が本来(ほんらい)、飲(の)んで、神様から捨(す)てられるはずの杯。この杯をすべての人の代(か)わりに飲(の)み干(ほ)すことが、神様からイエス様に与えられている地上(ちじょう)での使命(しめい)です。
 横道(よこみち)にそれますが、1月に休暇(きゅうか)をいただいて、旅先(たびさき)で行ったルター派(は)の教会です。
正面(しょうめん)の祭壇(さいだん)には大きな絵(え)が飾(かざ)られていました。その絵は、イエス様がゲッセマネで腕(うで)を前(まえ)に突(つ)き出して、両手(りょうて)を組(く)み、祈っておられる場面(ばめん)でした。祈っているイエス様の横(よこ)上(うえ)には天使(てんし)がいます。「天使が何をしているんだろう」と、暗(くら)い画面(がめん)をじっと見ていたら、天使の手に、杯がにぎられているのが見えてきました。天におられる神様から「飲みなさい」と、イエス様に差(さ)し出された苦しみの杯です。と同時に、「この杯を、私から取(と)りのけてください」というイエス様の言葉がリアルに迫(せま)ってきました。 この世に誕生されてから、イエス様は、神様の御心(みこころ)に聞き従(したが)って忠実(ちゅうじつ)に生きてこられました。でもこのことは、私達が思っているほど簡単(かんたん)なことではありません。
イエス様は私達と同じ弱(よわ)い体を持っており、私達と同じ誘惑(ゆうわく)に対(たい)する弱さも持っています。しかし父なる神様と1つなので、イエス様には神様の力が宿っています。
そんなイエス様に、サタンは神様の力を使うよう何度も誘惑しますが、イエス様は誘惑に乗(の)りませんでした。もし私達がイエス様のように神様の力を持っていたら、神様の力で、やりたい放題(ほうだい)です。石をケーキに変えます。しかもどんなに食べても太(ふと)らない。世界中の称讃(しょうさん)をあびて、有頂天(うちょうてん)になると思います。しかしイエス様は人の弱さを持っていたのに、神様の力を、自分の利益(りえき)のために使うことは、決してしませんでした。だからこそ、イエス様の言葉は神様の言葉であり、イエス様の業(わざ)は神様の御業(みわざ)でした。そしていつでもイエス様と父なる神様は、1つでした。
 ということは、イエス様が神様の御心を拒(こば)んでしまったら、苦しみの杯を拒んでしまったら、その瞬間(しゅんかん)から、イエス様は父なる神様と1つではなくなります。杯を拒み、十字架の死から逃(のが)れることで、イエス様は父なる神様と1つではなくなる。
人間の頭では想像(そうぞう)しきれませんが、神様が差し出す杯をイエス様が拒み、十字架の死から逃げ出してしまったら、もっと恐ろしいこと、「父と子の断絶(だんぜつ)」と言う取り返しのつかない恐怖(きょうふ)が、この世に実現(じつげん)していたかも知れません。
 だからこそイエス様は、祈り続けました。
「私が願うことではなく、御心にかなうことが行われますように」(36節)。
 これは私達と同じ弱さを持っておられるイエス様が「最後(さいご)まで神様の御心に従うことを心から願う者にしてください」と、苦しみながら、ご自分の弱さと闘(たたか)っている祈りです。しかもこの祈りは、1度きりの祈りではありませんでした。
イエス様が祈りを中断(ちゅうだん)して弟子達の所に行くと、彼らは眠(ねむ)っていました。それをご覧(らん)になったイエス様は「シモン、眠っているのか。わずか一時(いっとき)も、目を覚ましていられなかったのか。誘惑に陥(おちい)らぬよう目を覚(さ)まして祈っていなさい。心は燃(も)えても、肉体(にくたい)は弱い」(38節)とペトロに言われました。
「心は燃えても、肉体は弱い」。
イエス様の言葉は弟子達だけに言ったのではなく、今、祈りの闘いから一歩(いっぽ)でも退(しりぞ)いたら、たちまち誘惑に負(ま)けてしまう弱い自分自身にも言っていたのではないでしょうか。だからイエス様は、くり返し祈っています。「私が願うことではなく、御心にかなうことが行われますように」と何度も何度も同じ言葉で祈りながら闘っています。祈りで弱さと闘っています。祈りで激(はげ)しく闘っています。
イエス様が再(ふたた)び、弟子達のところに行くと、彼らは眠っていました。彼らは言い訳(わけ)の言葉も見つかりません。また眠りの誘惑の何と心地良(ここちよ)いことか。人間は眠りの誘惑にはどうしても勝(か)てません。イエス様が3度目、弟子達のところに行った時も、彼らは眠っていました。するとイエス様は言われました。
「あなたがたはまだ眠っている。休(やす)んでいる。もう、これでいい。人の子は、罪人(つみびと)たちの手に引(ひ)き渡(わた)される。立て、行こう。見よ、私を裏切(うらぎ)る者が来た」。(41-42節)
罪は私達人間の問題(もんだい)ですが、問題(もんだい)解決(かいけつ)の当事者(とうじしゃ)になるには、私達は余(あま)りにも弱い。
私達は罪の中で眠ってしまう。罪と闘うには弱すぎる。でもいいのです。弱すぎる私達に代わって、イエス様が祈りで、罪と闘ってくださった。そして十字架と言う神様が差し出しておられる杯を飲(の)み干(ほ)すため、今、イエス様は出かけて行きます。
 ゲッセマネで、イエス様が最初(さいしょ)に神様に向かって祈っていたのは、「杯が自分から取り去(さ)られること」でした。「神様の御心が変わること」でした。しかしその祈りが「御心が行われること」へと変えられました。激(はげ)しい祈りの闘いの中で、変えられて行ったのは、神様の御心ではありませんでした。
祈りの闘いの中で、変えられたのは、イエス様がもっておられた「生身(なまみ)の人間の弱さ」です。イエス様は人間の弱さを持ったまま、人間の弱さを背負ったまま、「御心が行われることを真剣(しんけん)に願う強さ」へと変えられました。
これこそが、「真(まこと)の人であり、真の神であるイエス様」の姿(すがた)です。
 人間の弱さを持ったまま、イエス様のすべてが神様の御心と完全に1つに重(かさ)なりました。祈りで闘いぬいたからです。それゆえイエス様は御心に従って、まっすぐ十字架に向かっていきます。
イエス様は私達と同じ弱さを持っており、私達の弱さを充分(じゅうぶん)知っておられます。
だからこそ、ご自分が御心と1つになるよう、祈りで闘いました。私達の日常にも多くの闘いがあります。でもこの世と闘う前に祈りで闘う。御心が行われるよう、まず祈りで闘う。神様と向き合い、祈りの闘いを乗(の)り越(こ)えた体で、この世の闘いに出て行くのです。とは言え弟子達と同じで、目を覚まして祈れない弱い私達です。
でもそのことをご存知(ぞんじ)のイエス様がおられます。御心を行うために祈りで闘って、勝利(しょうり)されたイエス様が、私達のために絶(た)えず祈ってくださっています。ただ私達はイエス様の祈りに支(ささ)えられながら、導(みちび)かれながら、祈ればいいのです。
「聖なる父よ、私に与えてくださった御名によって彼らを守ってください。私達のように、彼らも1つとなるためです」(ヨハネ16:11)

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