日本基督教団御殿場教会  United Church of Christ in Japan Gotenba church

真理とは何か

説教

タイトル :「真理とは何か」  
聖書   : ヨハネ18:28-38
年月日  : 2019-9-1  
 

 逮捕(たいほ)されたイエス様は、大祭司アンナスから大祭司カイアファに送られ、明け方
ローマ総督(そうとく)ピラトの官邸(かんてい)に送られました。でもイエス様を連れてきたユダヤ人は、
官邸の中に入りません(28節)。と言うのも、大切な祭(まつり)(エジプトで奴隷(どれい)だった時代、
イスラエルの民の家の戸口(とぐち)に小羊(こひつじ)の血(ち)を塗(ぬ)り、血を塗った家の前を死が過ぎ越(こ)した
ことで民は無事にエジプトを脱出(だっしゅつ)できた)、過(すぎ)越(こし)祭(さい)の前に異邦人(いほうじん)の家に入って身を
汚(けが)して、過越祭の食事の席につけなくなることを怖れていたからです。ユダヤ人が
怖れた汚れは「神様との交わりを妨(さまた)げること、神様に敵対(てきたい)すること」。すなわち「罪」
という汚れです。罪の汚れを避(さ)けるために、ユダヤ人は日頃から、規則(きそく)通(どお)り、神を
知らない異邦人(汚れた罪人)とは付き合わないなど、細(こま)かく神経(しんけい)を使いながら生活
していました。イエス様も、17章のとりなしの中で、弟子達が汚れた者ではなく、
聖なる者となるよう神様に祈っていますが、「規則を守ることで、弟子達を聖なる者
としてください」とは祈っていない。そうではなく「真理によって彼らを聖なる
者としてください。あなたの御言は真理です」と祈っているのです。
 さて他の福音書では、イエス様と弟子達の最後の晩餐(ばんさん)は、過越祭の食事となって
いますが、ヨハネ福音書ではイエス様の十字架の死が、他の福音書よりも1日早い
過越祭当日(とうじつ)になっています。そうすることで十字架のイエス様を、過越祭の食事
のために屠(ほふ)られる小羊と重ね合わせます。そのためヨハネ福音書では最初から
イエス様を、「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ」と告げています(1:29,36)。
 ローマの総督ピラトは、官邸の中に入ろうとしないユダヤ人のため、外で待って
いる彼らのところに出て行って、イエス様を訴(うった)えた理由を、彼らに聞いています。
でもユダヤ人は、イエス様を訴えた理由をハッキリ述べません。「総督に引き渡した
ことだけで十分な理由だ」というわけです。ピラトはユダヤ人の屁理屈(へりくつ)につきあい
たくなかったのでしょう。「あなたたちが引き取って自分達の律法に従って裁(さば)け」と
突き放します。するとユダヤ人は言います。「私達には、人を死刑(しけい)にする権限(けんげん)があり
ません」。これはおかしい。実際(じっさい)、ユダヤ教の律法では、石打(いしうち)の刑(けい)などで、人の命を
奪(うば)うこともできたからです。でもユダヤ人がピラトにイエス様の死刑を求めたのは、
32節でも言っているように、イエス様がどのような死に方をするか、予告していた
言葉が実現するためでした。「私は地上から上げられる時、すべての人を自分のもと
に引き寄せよう」とイエス様は予告しておられました(12:32)。「地上から上げられる」
とは「十字架の上にあげられて死ぬ」ことです。イエス様は、ご自分がユダヤ式
の石打刑で死ぬのではなく、ローマ式の十字架刑で死ぬことをご存知(ぞんじ)でした。
 死刑を求めるユダヤ人を外に残し、ピラトは官邸にいるイエス様に尋問(じんもん)します。
「お前が、ユダヤ人の王なのか」。イエス様とのやりとりが34節以下にありますが、
ピラトの関心(かんしん)は、イエス様がユダヤの王と言ってユダヤ人を扇動(せんどう)し、ローマに反抗(はんこう)を
企(くわだ)てる政治犯(せいじはん)かどうか、それだけです。多くの犯罪者を見てきたピラトからすれば、 
イエス様は、大祭司たちがムキになって殺そうとするほどの人物には見えません。
だからイエス様に向かって「いったい何をしたのか」とピラトは聞き直しています。
すると「私の国はこの世に属(ぞく)していない。もし私の国がこの世に属していれ
ば、私がユダヤ人に引き渡されないように、部下が闘(たたか)ったことだろう。しか
し、実際(じっさい)、私の国はこの世には属していない」とイエス様は言われました。
 2000年前、イエス様は私達と同じ姿となられて、この世で生活していましたが、
イエス様が属していたのは、ローマ帝国が支配するこの世ではなくて、神様が支配
しておられる神の国、神様の御心が完全に実現している天の国です。イエス
様が言う「私の国」とは、「神の国、天の国」のことです。
イエス様はこの世で生活しながらも、神様の御心に忠実で、神様の御心をいつも
この世で行いながら生きてきました。その意味でイエス様は「歩く神の国」であり、
「この世に現われた天の国」です。イエス様が属していたのは、この世ではなく、
「神の国、天の国」です。だから大祭司などこの世で力を持つ者たちは、こぞって
イエス様に敵対して、この世から排除(はいじょ)しようとします。しかしこの世にあっても、
イエス様を信じたのが弟子達でした。イエス様を信じた弟子達もまたこの世に
属する者ではなく、イエス様に属する者、神の国に属する者とされていたか
らです。この世に属していないイエス様を信じる弟子達もまた、この世から憎まれ、
排除されることは明白(めいはく)でした。だから十字架で死ぬ直前まで、イエス様は弟子達の
ため神様に祈りました。「私がお願いするのは、彼らを世から取り去ることではなく、
悪い者から守ってくださることです。私が世に属していないように、彼らも世に属
していないのです」(17:15-16)。
イエス様が「私の国はこの世には属していない」と言ったので、ピラトは「それ
では、やはり王なのか」と問いました。この世の力に仕えているピラトにとって、
この世がすべてであり、イエス様の言葉を聞いても、理解することができません。
イエス様は言われました。「私が王だとはあなたが言っていることです。私は真理に
ついて証(あかし)をするために生まれ、そのために、この世に来た。真理に属する人は皆
私の声に聞く」。
 ピラトは「真理とは何か」と尋(たず)ねましたが、イエス様が言った真理を理解しよ
うとしたのではありません。最早(もはや)ピラトにとって揉(も)め事(ごと)さえなければ、イエス様が
ユダヤの王だろうが、どこに属していようが、どうでもいいことでした。けれども
イエス様は、この後「真理とは何か」を、多くの人たちの前で十字架につけられて
証をします。
 それはすべての罪人が死を過ぎ越せるよう、神様の御子であるイエス様が、
過越の羊として、十字架の上で屠(ほふ)られるということです。神様は、十字架の
上でイエス様を屠ることで、すべての罪人にイエス様の血を注(そそ)ぎ、「罪と死
の支配」から救い出してくださる。すべての罪人を清め、新しく生まれさせ、
生かしてくださる。罪のない神様の御子が死ぬことにより、すべての罪人が
赦(ゆる)される。そこまで神様は、私達を愛しておられる。この不条理(ふじょうり)な愛こそが
真理です。
 イエス様は「私は道であり、真理であり、命である。私を通らなければ誰も父の
元に行くことはできない」(14:6)と言っておられました。イエス様は、私達を聖なる
神様の子供として生かすため、十字架の上で命を献(ささ)げて、父なる神様のもとに導く
道となってくださいました。そして私達は、道であるイエス様を踏みしながら最後
まで歩き続ける。これが神様の御心であり、イエス様は神様の御心に忠実に従いま
した。このイエス様こそ、私達に「不条理な愛と赦しと救いを、罪ある者に
惜(お)しみなく実現させる神様の真理」です。
 この神様の真理を、イエス様はこの世に向かって目に見える形で現わして、耳に
聞こえる声で証するために、この世に生まれてくださいました。先程(さきほど)、イエス様を
「歩く神の国」と言いましたが「歩く神様の真理、歩く神様の愛」を加えたい。
ユダヤ人が殺すことを願い、ピラトが適当(てきとう)にあしらったイエス様丸ごとが、神様の
真理です。でも真理であるイエス様の声に、ピラトも大祭司たちも聞けなかった。
真理とは何か」とピラトは尋ねたけれど、この世に属しきって、この世の力に頼(たよ)り
きっている人は、真理の声に聞けない。聞いても、信じて受け入れること、関わる
ことができない。でも真理が不要な人、信徒との関わりが要(い)らない人などいません。 
では私達はどうか。イエス様の真理の声に聞いて、本当に信じて、受け入れて、全身(ぜんしん)
全霊(ぜんれい)で関わることを望(のぞ)んでいるのか。
ここにいる多くの人は信仰者であり、イエス様の後に従って生きね弟子達です。
イエス様が言ったように、私達はこの世で生きていても、この世には属してない。
神の国に属し、神様に仕える者です。言うならば、この世にホームステイしながら、
イエス様を信じて従うことで、また神様を最優先にして生きることで、イエス様と
いう「神様の真理」を日々、証ししています。そのため世間から変人(へんじん)、邪魔者(じゃまもの)扱(あつか)い
されて恥(はじ)をかき、痛(いた)みや苦しみを負(お)います。だから真理を証することをためらい、
真理を隠(かく)すのか。信仰者とされているけど、フラフラして弱い私達です。
そんな私達だと知られているから、礼拝に招かれているのです。そして私達に今、
惜しみなくイエス様の血が注がれています。惜しみなく神様の不条理な愛と赦しと
救いが注がれています。惜しみなくイエス様と言う神様の真理が注がれています。 
この礼拝があるから、すべての信仰者は、神様の真理・イエス様と1つに結(むす)ばれて、
この世に向かって出かけて行きます。誰か1人でも、神様の真理・イエス様に向き
直って、神様の愛と赦しと赦しの真理に属する者として、新しく生き始めることが
できるよう祈りながら、今週も私達はイエス様を証しながら生きていきます。

 

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