日本基督教団御殿場教会  United Church of Christ in Japan Gotenba church

皆が一つのパンを分けて食べる

説教

タイトル:「皆が一つのパンを分けて食べる
聖書  : 第1コリント10:14-20
年月日 : 2012-3-4

        
14節でパウロはコリント教会の人々に「偶像礼拝を避けなさい」と言っています。
唐突に思えますが、8章の偶像に供えられた肉のことが、ずっとパウロの頭にあり
ました。コリント教会には、自分たちの信仰の強さを誇り、「偶像は無力で、偶像の
神殿で何をしようが自由だ」と言って、偶像を前にした宴会で平気で飲み食いする
人たちがいました。でも彼らの姿に、つまずく信仰者もいました。だからパウロは
8章19節で「食物のことが私の兄弟をつまずかせるくらいなら、兄弟をつまずかせ
ないために、私は今後決して肉を口にしません」と言って、強さを誇る人たちとは
正反対の行動をとります。
「たかが偶像に供えられた肉じゃないか。たかが偶像の宴会じゃないか」。信仰の
強さを誇る人たちがそう言っても、偶像礼拝は厄介で侮れません。
14節の「偶像礼拝を避けなさい」を直訳すると「偶像礼拝から逃げ出せ」です。
偶像礼拝には目には見えない火の粉が飛び散っています。20節でパウロが大胆にも
「悪霊」と言い切っているように、「悪霊の火の粉が飛び散っている危険な偶像礼拝
から直ちに逃げ出せ。悪霊の火が体に燃え移ってしまわないうちに、早く偶像礼拝
の場から立ち去れ」と言っているのです。
イスラエルの信仰の歴史をふりかえる必要もない程、偶像礼拝は危険な行為です。
信仰の強さを誇って、偶像の食卓で飲み食いする彼らのふるまいは、強さどころか、
信仰も命も失う「分別のなさ」そのものでした。従って15節で「あなたがたを分別
ある者と考えて話します」と言うパウロの言葉は、彼らに対する完全な皮肉です。
そこでパウロは、偶像の食卓とは正反対の「主の食卓」について語り始めます。
説教の後で行われる「聖餐」のことです。聖餐で私達もパンと杯をいただきます。
そのパンと杯について、パウロはハッキリ言っています。
16節「私達が神を讃美する讃美の杯は、キリストの血にあずかることではないか。
私達が裂くパンは、キリストの体にあずかることではないか」。
ここも直訳しますと「私達が神様をほめたたえるこの祝福の杯は、キリストの血
との交わりではないか。私達が裂くパンは、キリストの体との交わりではないか」。
原文には「交わり・コイノーニア」と言う言葉が使われています。これには「交際、
結合すること、分け前にあずかること」と言う意味があります。
キリストは弟子達との最後の晩餐で、「このパンは私の体、この杯は私の血、契約
の血である」と言われました。キリストの言葉の通り、聖餐で私達がいただくのは、
キリストの血と体を表す「目録やお品書きメニュー」のようなものではありません。
聖餐において私達は、まさにリアルな「キリストの血との交わり、キリストの体との
交わり」の中に入れられるのです。
 先週の説教を持ち出して申し訳ないのですが、「キリストは、私達の罪を取り除き、
私達の前を死が過ぎこしていくために十字架の上で屠られる神の小羊。私達を罪と
死から救い出すために、キリストの血が差し出されている」と先週、お話しました。
「あなたの罪が赦され、あなたの前を死が過ぎ越すことを、私は確かに約束する。
あなたを罪と死から救い出す契約の血を、あなたに与える」。
このようにキリストから言われて、主の食卓で私達はキリストの血、聖餐の杯を
受け取って飲みます。そして「罪と死からの救い」と言う「十字架のキリストからの
尊い分け前」にあずかるのです。
さらに愛される価値もない者を愛し抜き、十字架につけられ、傷だらけになった
キリストの体。でも死の底から、永遠の命を宿して立ち上がった復活のキリストの
体。このキリストの体、聖餐のパンを、主の食卓で、私達は受け取って食べます。
そして「十字架と復活のキリストの体」に、私達は固く結ばれるのです。
十字架と復活を果たしたキリストの血と体。そこには、「罪の赦し、復活の命と体」
と言う神様の永遠の豊かさがギッシリつまっています。この栄養豊かなキリストを
丸ごと、私達は主の食卓で食べて飲んで、私達の体の中に受け取ります。と同時に
キリストの血と体の交わりの中に深く入れられ、キリストの血と体にますます固く
結び合わされるのです。
大きな大きなパンを、イメージしてください。それは大きなキリストの体です。
この体を世界中のキリスト者がみんなで、ガブリとかじりつき、食べあっています。
聖餐と言う主の食卓を共に囲む私達・教会は、「キリスト」と言う「ごちそう」を
一緒に食べあう仲間であり、共同体なのです。
「同じ釜の飯を食う」と言う深い絆を表す言葉があります。食事を共にすることで
親近感が深まって行くということは、日頃、私達が経験していることです。同様に
主の食卓を囲み、一緒にキリストを食べあうことで、キリストを中心とした確かな
交わりが、お互いの間にも生まれます。
だから今日始めて礼拝で顔を合わせた者同士であっても、主の食卓を共に
囲み同じキリストを一緒に食べるなら、そこにはキリストを真ん中にした交わり、
キリストを真ん中にした共同体が、確かに実在しているのです。
パウロは「交わり・コイノーニア」と言う言葉を、単なる人間的な関係には使って
いません。同じものに関わり、同じものを互いに共有することで生まれる関係に、
「交わり」と言う言葉をパウロは使います。
従って「教会の交わり」は、仲が良いとか気が会うとか、人が中心になる交わり
ではありません。「お互いがキリストを中心に結ばれている、お互いにキリストを
共有している」と言う、この一致があることが本当の「教会の交わり」です。仲が
良くてどんなに楽しくても、「キリストが中心」におられないなら、それは「教会の
交わり」ではなくて、人間的な交わり、サークルです。
主の食卓において、同じ器からパンを取って食べ、同じ器から杯を取って飲む時、
私達はキリストを共に分かち合い、キリストの豊かさをお互いに共有し合います。
生まれも育ちも違う者同士が、キリストを分かち合って食べる主の食卓において、
神様からの賜物として「一致と交わり」が与えられます。
「主の食卓から生まれる一致と交わり」です。そして「主の食卓から生まれる
一致と交わり」は、「教会の一致と交わり」を支える揺るぎない土台です。だから
パウロはコリント教会に、言っています。
17節「パンは一つだから私達は大勢でも一つの体です。皆が一つのパンを分けて
食べるからです」。
さっきイメージしていただいた大きなパンです。たった一つのキリストの体です。
たった一つのキリストの体が、時代を貫いて、歴史の中に横たわっています。この
キリストの体を、主の食卓で大勢の人たちと分かち合い食べあって、すべての人が
キリストの豊かさを共有し、キリストと交わり、キリストと一つに結ばれるのです。
主の食卓を通して、キリストを分かち合う聖餐を通して、世界中にあるキリストの
群れ、教会が、信仰者が一つになって行きます。すべての違いを越えて共同体に
「一致と交わり」を生み出す力、神様の愛と赦しの力が、主の食卓にはあります。
中心に「十字架と復活のキリストがおられる」主の食卓にコリント教会もあずかり、
2000年後の私達もあずかっています。だから私達はキリストにあって一つです。
主の食卓の度毎に「一つの体として、一致し、交わること」へと招かれています。
そこで「誰が食卓の主人か、中心なのか」。このことに注意しなければなりません。
18節で「供え物を食べる人は、それが供えてあった祭壇と関わる者になる」と言って
います。コリント教会の人たちが「単なる食事、宴会」と軽々しく偶像の供え物を
飲み食いすることで、いつのまにか偶像にはまって、偶像に関わる者、否、悪霊と
関わる者、悪霊の仲間へと落ちて行きました。
だからパウロは「私はあなたがたに悪霊の仲間になって欲しくありません」と、
警告しています。そして「主の杯と悪霊の杯の両方を飲むことは出来ないし、主の
食卓と悪霊の食卓の両方に着くことは出来ません」と言って選択を迫っています。
これは「キリストとの交わりを選ぶのか、それとも、悪霊との交わりを選ぶのか」
と言うことです。この二つは相入れない、正反対のものだからです。
そしてこの選択を、私達も迫られています。二股かけることは出来ません。「主に
妬みを起こさせるつもりなのですか」とパウロは言います。「妬む」とは神様の愛
激しさを表す言葉です。なぜ神様がそこまで私達を愛してくださるのか、私達には
理由が分かりません。でも確かな事は、神様はこんな私達を愛して、ご自分の家族、
我が子として迎えて永遠に一緒にいたいから、私達を悪霊等に渡したくないのです。
そのために、私達の罪を御子に肩代わりさせ、私達を罪と死から救い出し、御国に
迎える準備をしてくださいました。十字架と主の食卓が、私達の正面にあります。
ここから神様の言葉が響いて来ます。「私はあなたを愛している。あなたは私のもの。
あなたは私の大切な子どもだ。私から永遠の命の糧・キリストを受け取りなさい」。

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