日本基督教団御殿場教会  United Church of Christ in Japan Gotenba church

生きている水

説教

タイトル :「生きている水」   
聖書   : ヨハネ4:1-15
年月日  : 2016-02-07
特記事項 :

 4章の始めで、イエス様がヨハネよりも多くの人に洗礼を授けていることがファリサイ派の人々の耳に入ったことが書かれています。実際に洗礼を授けていたのはイエス様ではなく、弟子達だと補足していますが、イエス様の人気が高まることを不愉快に思うファリサイ派とのトラブルを避けるためでしょうか、イエス様たちはユダヤを去り、ガリラヤに向かいました。

 ユダヤからガリラヤへの一番早い道は、サマリア地方を通り抜ける道です。でもユダヤ人はめったなことではサマリアに足を踏み入れません。従って他の福音書もサマリア伝道には触れていませんが、ヨハネ福音書は、ここ4章でサマリア伝道が行われたことを記しています。

 サマリアは、イスラエル王国が南北に分かれて出来た北王国の首都でした。でも紀元前8世紀にアッシリアにより北王国が滅ぼされ、主だった人々が連れ去られた後、異邦人が入ってきたことで、残された民との混血が広がりました。このことでユダヤ人がサマリア人を「汚れた民」と軽蔑して、忌み嫌ったため、サマリア人はゲリジム山に神殿を造り、モーセ五書のみ正典とする独自の信仰を保ってきました。ユダヤ人とサマリア人との間には、イエス様の時代より何世紀も前から続いてきた「根深い憎悪の歴史」が横たわっていたのです。

 にもかかわらずイエス様たちは、サマリア地方に入り、シカルというサマリアの町に来ました。弟子達は町に食べ物を買いに行き、歩き疲れたイエス様は、シカルの町から1.5kmほど離れた「ヤコブの井戸」と呼ばれる水場に座っておられました。そして正午頃、サマリアの女が井戸に水汲みにやってきました。普通、朝夕2度、水汲みをしますが、その女は誰も水汲みする人がいない日中、しかも町から離れたヤコブの井戸に水汲みに来ました。人目を避けてのことだったのでしょう。

 イエス様は、そのサマリアの女に「水を飲ませてください」と声をかけました。予想外のことに驚いた女は、「ユダヤ人のあなたが、サマリアの女の私に、どうして水を飲ませて欲しいと頼むのですか」と聞いています。「ユダヤ人は、サマリア人と交際しない」と9節は説明しています。大昔から続く犬猿の仲だから交際はしない。
 「交際しない」と言う言葉は、「共に使用しない」と言う言葉が元になっています。つまり「器を共にしない。同じ器を共有して使わないほど不仲だ」と言うことです。

 ユダヤ人の男が、忌み嫌い、軽蔑しているサマリア女が手にしている桶を使って、水を飲むなどありえない。ましてユダヤ人の方から「水を飲ましてください」と、頼むことなんてありえないと、彼女は思ったのです。
 するとイエス様は「もしあなたが、神の賜物を知っており、また『水を飲ませてください』と言ったのが誰であるか知っていたならば、あなたの方から、その人に頼み、その人はあなたに生きた水を与えたことだろう」と言いました。

 ナゾめいた言葉ですが、「神様の賜物」とは、神様が、天からこの世に送られたイエス様のことです。「目の前にいるのが、神様からすべての権能をゆだねられて、天から来られた神様の御子・イエス様だと彼女が知っていたら、またそのイエス様から声をかけられている幸いに、彼女が気づいていたら、彼女の方からイエス様に水を求めて、イエス様も彼女に生きた水を与えただろう」と言っているのです。

 「生きた水」。それは水溜りの水や、にごって腐った水ではない。「生きた水」は清く澄んで、留まることなく絶えず流れ出て、動いているので、古くなることも、腐ることもない水であり、生きている水です。そして生きている水は、生き物の命を養い、保ちます。生きている水は、命の源です。

 この「命の源であり、生きている水」がイエス様です。イエス様は求めるなら誰にでも「命の源であり、生きている水・イエス様ご自身」を分け与えてくださるのです

 しかしイエス様の言葉を理解しきれない彼女は、先祖代々、使ってきたヤコブの井戸水のすばらしさを自慢して答えるだけで、精一杯でした。
 これに対してイエス様は「この水を飲む者は誰でもまた渇く。しかし私が与える水を飲む者は決して渇かない。私が与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水が湧き出る」と言っています。

 大昔からあるヤコブの井戸の水を、これまで多くの人たちが飲んできましたが、その水は、のどの渇きを一時、潤すだけです。でもイエス様が与える水を飲む者は「直訳・永遠に渇かない」。それだけでなく、人の中で「直訳・水源」となり、永遠の命に至る水が、絶えず湧いて流れ出て行きます。

 イエス様の言葉を聞いた女は、渇くこともなく、泉となって湧き出し、わざわざ井戸まで水汲みに来なくても済む便利な水を、イエス様に求めました。まだ彼女はイエス様の言葉を理解できていません。

 人の体の約65%は水で出来ているので、水無しで命を保つことはできず、まさに「水は命の源であり、命の水」なのですが、人には体の渇きだけでなく、心の渇き、魂の渇きというものがあります。でも自信満々で、自分が神に成り切っている時、人はなかなか心の渇き、魂の渇きに気づきません。先日、ある有名人が、覚せい剤常用のために、現行犯逮捕されたと報道されていました。自信や「自分と言う神の虚像」が崩れてしまった時、心の渇き、魂の渇きが、激しく自分を揺さぶっていることに、ようやく気がつきます。そしてどんなにたくさんの飲み物を口にしても、もちろん覚せい剤を常用しても、心の渇きや魂の渇きは満たされず、人はのたうち回り苦しむのではないでしょうか。それでは人の心や魂の渇きを癒し、うるおし、満たすものとは、何か。

 詩編63:2「神よ、あなたは私の神。私はあなたを探し求め、私の魂はあなたを渇き求めます。あなたを待って、私の体は乾ききった大地のように衰え、水のない地のように渇き果てています」。

 人は神様にかたどられて造られたので、神様抜きで、神様から離れたままでは、何をしようとも、本当の平安、本物の満足を得ることは出来ません。人の心と魂の渇きを完全に満たすことが出来るのは、神様だけです。詩編の作者はそのことに気がついて、必死で神様を探し求めて、叫んでいます。そして神様は詩編の作者の叫びや、声にもならない多くの人々のうめきに応え、ご自分の権能のすべてを御子イエス様にゆだねて、天からこの世に送り出してくださいました。

 だからイエス様は宣言します。「人を苦しめている心の渇き、魂の渇きを癒し、うるおして、満たせるのは、神様から送られた『生きている水』の私だけだ」

 事実、イエス様の中に充満する「神様の限りない愛と命」が、勢い良く噴き出し、生きている水として、自由自在に流れ出て行って、一人一人の心の渇き、魂の渇きを「神様の限りない愛」で、タップリ満たします

 さらに「生きている水」を受けた人の中に、イエス様は泉となって宿りながら、永遠の命に至る水をこんこんと湧き出させます。そして泉には「水源」の他に、「血の流れ」と言う意味があります。十字架のイエス様の死を確認するため、脇腹をヤリで突き刺すと、「血と水が流れ出た」ように(ヨハネ19:34)、イエス様において、血と水は切り離せません。イエス様の血と水は命であり、また完全な罪の赦しに欠かせないものだからです(エフェソ1:7)。

 クリスマスに、父、子、聖霊の御名において水が注がれ、洗礼が行われました。あの時、洗礼を受けた方々は、イエス様の「生きている水」を注がれると同時に、その方々の中にイエス様が泉となって宿り、「イエス様の永遠の命と、完全な罪の赦しの血の流れ」が、泉から湧き出て全身を駆け巡り、心と魂を満たします

 例えると、洗礼を受けた時、それまで止まっていた神様の心電図が、永遠の命の鼓動を感知して、動き出します。そしてイエス様の「生きている水」を注がれて、洗礼を受けた方は、病院の心電図が止まっても、神様の心電図は止まることなく、動き続けます。地上の命の鼓動が止まっても、その方の永遠の命は、死を軽々とまたいで、力強く鼓動しているからです

 このことに目覚めると、イエス様の「生きている水」を注がれて、洗礼を受ける大切さが分かって来ます。色々な事情で洗礼をためらっている方もおられますが、「生きている水」を注がれて、死を超えた「永遠の命の泉」をご自分の中に宿していただきたい。永遠の命の希望と神様の限りない愛は、泉となってその方を満たすと共に、神様に生かされ、愛されている喜びとなって、外にあふれ出て行き、周りの方々も満たします。そしてこのことを、誰よりも熱望しているのは神様であり、イエス様です。「渇いている者には、命の水の泉から価なしに飲ませよう」(ヨハネの黙示録21:6)と、イエス様は常に呼びかけ、招いておられます。説教後に行われる聖餐の食事は、私達信仰者の中に宿る泉の水量を豊かにし、永遠の命の鼓動をより強くします。すべての方が「生きている水」を注がれて、聖餐に与れますように。

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