日本基督教団御殿場教会  United Church of Christ in Japan Gotenba church

父が与えた杯(さかずき)

説教

タイトル :「父が与えた杯(さかずき)」  
聖書   : ヨハネ18:1-14
年月日  : 2019-7-7 
 
17章では、十字架の死を前にしたイエス様が、地上に残る弟子達、そして彼らに
続く多くの信仰者を守ってくださいと、父なる神様に熱く祈り続けておられました。
この祈りが終わってから、18章でイエス様は弟子達と共にギドロンの谷の向こうに
ある園に行かれました。そこは、他の福音書ではゲッセマネの園と呼ばれています。
ここは、日頃、イエス様が祈りを献(ささ)げていた場所でしたから、弟子の一人であり、
イエス様を裏切(うらぎ)ったユダも知っていました。
 他の福音書では、イエス様が十字架につけられる前、「私は死ぬばかりに悲しい。
ここを離れず、目を覚(さ)ましていなさい」(マルコ14:34)と弟子達に言われ、また、
父なる神様に「私が願うことではなく、御心(みこころ)にかなうことが行われますように」と
この場所で祈ったことが記(しる)されていますが、ヨハネ福音書では、これら全(すべ)てが省(はぶ)か
れています。
 ヨハネ福音書と他の福音書では、十字架へと向かうイエス様の描(えが)き方が、完全に
異(こと)なるからです。ヨハネ福音書が描くイエス様は、十字架の使命(しめい)に向かって、何ら
迷(まよ)うことなく、みずから突(つ)き進(すす)んで行きます。
イエス様がおられる場所に、ユダはローマ兵や祭司(さいし)長(ちょう)たちが遣(つか)わした下役(したやく)たちを
引き連れてやってきました。彼らはそれぞれ武器(ぶき)や松明(たいまつ)を手にしています。イエス
様を逮捕(たいほ)するためです。これからご自分の身に何が起こるか、全て知っておられる
イエス様は、武器などを手にして、待ち構(かま)えている大勢(おおぜい)の人々の前に進み出ると、
言っています。「誰(だれ)を捜(さが)しているのか」。
彼らが「ナザレのイエスだ」と言うと、イエス様は「私である」とキッパリ答えて言われました。その時、どうしたことか、彼らは後ずさりして、地(ち)に倒(たお)れました。
なぜなのか。イエス様が言われた「私である」と言う言葉には神様の圧倒的(あっとうてき)な力が
秘(ひ)められていたからです。「私である」の原文は、「エゴ エイミー」です。そして
この言葉は、これまでにもイエス様がご自分の正体(しょうたい)を明(あ)かすために、何度か使って
います(6:20, 8:24, 8:28, 8:58, 13:19など)。「私である」これは「私はある」とも訳(やく)
されています。
そこで思い出すのが、旧約聖書でモーセが燃(も)える柴(しば)の中で神様の声を聞いた時に、
モーセが神様の名前を尋(たず)ねた場面です。神様は、ご自分の名前を、「私はある」と、
モーセに伝えていました(出エジプト記3:14)。つまり、イエス様が人々に言われた
「私である」(エゴ エイミー)とは、イエス様が「神であるご自分を証(あかし)する
言葉」だったのです。イエス様の言葉を聞いた瞬間(しゅんかん)、そこにいた人々は何のこと
だか、まだ分からないのですが、突然(とつぜん)、出現(しゅつげん)した神様の聖なる威力(いりょく)に圧倒(あっとう)されて、
思わず畏(おそ)れ、後ずさりして倒れたのでしょう。
 そんな人々に向かってイエス様は「誰を捜しているのか」と更に尋ねています。
彼らが「ナザレのイエスだ」と言うと、イエス様は「私である」と答えて、「私を
捜しているなら、この人々を去らせなさい」と命じています。イエス様は弟子達の
命を守るために、ここから立ち去らせます。神様が、イエス様に与えてくださった
弟子達が、1人も失われないようにするためです(17:12)。以前、イエス様は神様の
御心について、「私をお遣わしになった方の御心とは、私に与えてくださった人を
1人も失わないで、終わりの日に復活させることである」(6:39)と言っていました。
従って9節の「1人も失いませんでした」と言う言葉は、「弟子達が無事にこの場を
立ち去ることができた」ということだけではなくて、「終わりの日にも弟子達は
1人も失われることなく、復活させていただける」という、神様の確かな救い
の言葉なのです。
いよいよイエス様が1人で、神様の使命に向かって進んで行こうとした時です。
弟子のペトロが持っていた剣(つるぎ)を抜(ぬ)いて、大祭司の手下(てした)に打(う)ってかかり、右耳を切り
落としてしまいます。普通は「良くやった」と言うべきところですが、血のついた
剣を握(にぎ)りしめているペトロに、イエス様は静かに言っています。
 「剣をさやに納(おさ)めなさい。父がお与えになった杯は、飲(の)むべきではないか」。
 ペトロはイエス様を守ろうと、剣を抜いて、敵に抵抗(ていこう)しました。でもそのことは、
十字架と言う神様の使命に抵抗することになるのです。だからイエス様はペトロに
「剣をさやに納(おさ)めなさい。父がお与えになった杯は、飲(の)むべきではないか」と、彼を落(お)ち着(つ)かせ、たしなめたのです。
イエス様はこれから神様に与えられた大きな使命を果(は)たそうとしておられました。
その使命は、人間の剣などでは達成(たっせい)できません。剣どころか、世のいかなる財宝(ざいほう)や
戦力(せんりょく)、権威(けんい)を積(つ)んでも達成できない神様の使命です。イエス様は弟子達の助けも、
この世の力も一切(いっさい)求(もと)めず、ただご自分の体1つで、神様の使命に向き合い、進んで
行きます。この使命を果たすため、イエス様は「私である」と宣言し、無実なのに
十字架につけられる被害者(ひがいしゃ)としてではなく、むしろ十字架につけられることで、
すべてを導く「神のイニシアチブ」を誇り高く掲(かか)げます。そして父なる神様
から与えられた杯を飲み干(ほ)すために、十字架において、ご自分の全てを差(さ)し
出します。
 兵士たちやユダヤ人の下役たちは、何の抵抗もしないイエス様を捕(と)らえて、縛(しば)り
あげ、元(もと)大祭司(だいさいし)だったアンナスのところに連(つ)れていきました。彼はその年の大祭司
カイフファの舅(しゅうと)であり、強い力を持っていたからでしょう。カイアファは群集(ぐんしゅう)に
「民の代(か)わりに、1人の人間が死ぬ方が好都合(こうつごう)だ」と助言(じょげん)した人物でした。
 こうしてイエス様は逮捕(たいほ)され、不当(ふとう)な裁判(さいばん)や、むごいムチ打ちにも、何の抵抗も
言い訳(わけ)もせずに、まっすぐ十字架の死に赴(おもむ)いて行くことになります。
父なる神様が御子イエス様にお与えになった「杯」は、「十字架の死」と言う
「苦しく、惨(みじ)めで、呪(のろ)われた、最悪(さいあく)の杯」でした。でもこの杯に込められた
神様の使命は「十字架で神の御子が死ぬことにより、全ての人に完全(かんぜん)な罪(つみ)の
赦(ゆる)しが与えられる」という、神様の救いを実現させることでした。ここまで
するほど神様は、滅(ほろ)びて当然、滅ぼされても文句(もんく)は言えない罪まみれの1人1人を
愛します。誰であろうと、神様は、人が滅びること、失われることを惜(お)しみます。
そして罪人を救うためなら、神様は何でもします。
 よく「旧約の神様は怖(こわ)いけど、新約の神様はやさしい」と言います。では新約に
なって神様の性格が変わって、優(やさ)しくなったのか。そうではないことを示すため、
旧約の言葉を拾(ひろ)ってみます。
「私は背(そむ)く彼らを癒し、喜んで彼らを愛する」(ホセア14:5)。「私は悪人が死ぬ
のを喜ばない。むしろ悪人がその道から立ち帰って生きることを喜ぶ。立ち帰れ、
立ち帰れ、お前たちの悪しき道から」(エゼキエル33:11)。「主は恵みに富(と)み、憐(あわ)れ
み深く、忍耐(にんたい)強(つよ)く、慈(いつく)しみに満ちておられます。主はすべての者に恵みを与え、造
られたすべてのものを憐れんでくださいます」(詩編145:8-9)。
 このように「神様は、昔も今も変わることなく、愛と慈しみに満(み)ちたお方」
です。当然、父なる神様がイエス様に与えた杯は、神様の愛と慈しみであふれてい
ます。その杯は、罪人をも慈しむ神様の愛であふれています。神様は、罪人を切り
捨てる神ではない。それ故、イエス様に与えられた杯には「人を愛して、人を
救うことを願って止(や)まない神様を、どこまでも愛しぬいて、神様の願いに
忠実(ちゅうじつ)に、従順(じゅうじゅん)に従(したが)う」使命が込められていました。つまり「神様と人を
愛しぬく杯」です。この杯を、父なる神様はイエス様にお与えになったのです。 
 「神様と人を愛しぬく杯」を、イエス様はためらうことも、逃(に)げ出すこともなく、
ご自分の命と引(ひ)き換(か)えに、飲み干します。それがイエス様の十字架の姿(すがた)です。
イエス様は、父なる神様の愛を全面的(ぜんめんてき)に受け入れ、神様の愛に忠実に従いました。
本来(ほんらい)、神様は罪とは相容(あいい)れない聖なるお方です。神様にとって罪は完全な異物(いぶつ)です。
それでも完全な異物である罪人を赦し、愛して、受け入れる神様の痛(いた)み、苦しみを
イエス様は、生身(なまみ)の人の姿でそのまま受け取り、命を賭(か)けて飲み干しました。その
十字架が立っているから、すべての人が罪の負(お)い目を拭(ぬぐ)われ、赦され、神様の愛
中に置(お)かれています。
 父から子に杯が与えられ、そして今、御子から私達にも杯が与えられています。
どんな杯か。「神様と人を愛したイエス様を、生涯(しょうがい)、愛して、受け入れる杯」
です。「イエス様の弟子として生きる杯」です。この世は、この杯を飲むことは
しない。この杯を飲む私達を、理解も受け入れもしない。私達は、この世にとって
異物です。しかし「イエス様の弟子として生きる杯」を飲むことで、私という
存在(そんざい)は丸ごとイエス様に包まれて、救われます。この世で、どんな苦しみ、
悲しみにあっても、私はイエス様に愛され、復活の命で生かされます。なぜ
なら、17章でイエス様がすべての弟子達のために祈ったことが、私達にも実現(じつげん)する
奇跡(きせき)が起(お)こるからです。
 「父よ、あなたが私の内(うち)におられ、私があなたの内にいるように、すべての人を
1つにしてください。彼らも、私達の内にいるようにしてください」(17:21)。
「父と子の神様の愛の交わり」の内に、弟子とされた私達が招き入れられて、
神様と共にいることが実現します。弟子とされた私達は、神様の愛の交わり
の中で1つにされます。この奇跡を味わい知ったならば、イエス様の弟子として
私達は雄々しく生きるようにされます。イエス様の救いの喜びと感謝を、黙(だま)っては
いられません。
「イエス様を生涯、愛して、受け入れる杯」「イエス様の弟子として生涯、生きる杯」。
イエス様から差し出されたこの杯を飲む素晴(すば)らしさを、私達は困難な日々の生活を
通して、勇気をふるって大胆に、この世に現(あら)わしていきます。
 

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