日本基督教団御殿場教会  United Church of Christ in Japan Gotenba church

気前の良い主人

説教

タイトル:「気前の良い主人
聖書  : マタイ20:1-16 
年月日 : 2012-6-3
        

本日の箇所のすぐ前には、イエス様から「持ち物を売り払って貧しい人に施し、
私に従いなさい」と言われて、そこを立ち去った金持ちの青年の話が出てきます。
これを聞いていた弟子のペトロが「何もかも捨ててイエス様に従って来た自分たち
には、どんなご褒美がもらえるのか」と尋ねています。ここを説教した時、ペトロの
問いは的外れだと言いました。的外れな問いをしたペトロですが、でもそれは彼に
限ったことではありません。そのためイエス様は、天の国について教えるために、
ブドウ園の労働者の例え話をしています。
ブドウ園の主人が、労働者を雇うために夜明けに出かけて行きました。ちょうど
良い具合にブドウが実ったので、一気に収穫するために、大勢の人手が必要です。
広場には、すでに仕事を求める人たちが集まっていたようです。主人は1日につき
1デナリオンを支払う約束で人を雇い、ブドウ園に送りました。1デナリオンとは、
当時の労働者の1日の賃金にあたります。
夜明けと共に雇われた人たちはブドウ園で働いていましたが、人手が足りません。
朝の9時頃、主人は広場に出かけて、そこにいた人々に「あなたたちもブドウ園に
行きなさい。ふさわしい賃金を払ってやろう」と言い、新たな人を雇ってブドウ園
で働かせました。しかしそれでも人手は足りません。主人は12時と3時にも広場に
行き、新しく人を雇ってブドウ園で働かせています。主人はその日の内に、残って
いるブドウの収穫を終えたかったのでしょう。夕方の5時にも人手を求めて広場に
出かけて行くと、そこに何もしないで立っている人々がいます。主人が聞くと「誰も
雇ってくれないのです」と彼らは答えました。
広場に集まっていたのは、仕事を求めていた人たちです。出稼ぎに来て、日雇い
などの仕事をしながら生活していた人たちでしょう。私達の社会もバブルの時とは
違い、新卒でも、なかなか就職が決まりません。でも世界には、働きたくても何の
仕事もなくて、家族を養えない、食物も買えない国が今でもたくさんあります。
広場にいた人々も仕事を求めて一日中、広場に立ち続けていましたが、もうすぐ
日没になるのに、何の仕事にもありつけませんでした。年を取っていたせいなのか、
見るからに体力がなく弱そうだったせいかも知れません。同じ失業者でも、すぐに
雇われる人もいれば、先を越されて、最後まで取り残されてしまう人たちもいます。
「誰も雇ってくれないのです」と言う彼らの言葉は切実です。
「誰も自分を必要としていない。自分は役立たずで、どこにも居場所がない」。
そのように聞こえます。これはたとえ話の中だけでなく、年に3万人以上の人が
自ら命を絶っている私達の社会にも響いてくる言葉です。特に昨年の3.11で、これ
まで積み上げてきた確かさ、よりどころを一瞬にして失う経験をしてから、明るい
未来予想図を描けず、多くの人が不安な思いで立ちつくしています。勉強をするに
しても、仕事をするにしても、何のためなのか、何が本当の幸せで、本当の豊かさ
になるのか、何を目指していけばいいのか、分からなくなっています。
 人として生まれてきたのに、人生の夕方5時になっても、自分の居場所が見つか
らない。自分を必要としてくれて、信頼して仕えられる本当の主人が見つからない。
人生の夕方になっても、渾身の力を込めて目指していく確かな目標が見つからない
と言うのは、むごいことです。
5時まで広場で立ち尽くし、誰からも雇われなかった人たち。彼らにブドウ園の
主人は声をかけて「あなたたちもブドウ園に行きなさい」と言っています。今から
働いても、日没と共に仕事は終りますから、働く時間は、ほとんどないはずです。
それでも主人は彼らを雇いました。こうして彼らは働き場を得て、例えわずかでも
賃金をもらい、生きる望みをつなぐことが出来ました。
広場に取り残されていた人たちに声をかけた主人と、イエス様の姿が重なります。
イエス様も行き場をなくして、世間から取り残されていた人たちを招いて、親しく
交わっていました。「私が来たのは正しい人を招くためではなく、罪人を招くためで
ある」と言われたように、イエス様は「何の落ち度もない」と胸をはる自信満々の
人たちではなく、世間から取り残されている人たちを招き、最もすばらしい交わり、
神様との愛の交わりの中に、招いてくださいます。これは昔も今も変わりません。
だからブドウ園の主人のように、イエス様は私達にも声をかけてくださいます。
「あなたたちも、私の父のブドウ園に行きなさい。そこで私と一緒に働いて、
終わりの日に、私の父から豊かな報酬を受け取りなさい。」
イエス様が招くブドウ園とは、「神様を信じて生きる生活」のことです。そこには
神様の愛、命、力、真実、神様のすべてが豊かに実っています。人として生まれた
者が生涯をかけるにふさわしい働き場所です。カソリック教会の古典「キリストに
倣いて」(トマス・ア・ケンピス)の一節に、このような言葉があります。
「私のブドウ園で忠実に働きなさい。私がお前の報酬になろうから。
書いて、読書して、賛歌を歌って、悔い嘆き、沈黙を守り、祈りなさい。
そして雄々しく禍に堪えなさい」(3巻47章2より)
「私がお前の報酬になろう」。イエス様が招くブドウ園で働いた者、つまり神様を
信じて生きた人には、神様ご自身、イエス様ご自身が1人1人に与えられるのです。
神様が、そしてイエス様が「私をあげるよ」と言ってくださるのです。
例え話で賃金を支払う時が来ました。5時に雇われた人から順番に1デナリオン
ずつ受け取っています。夜明けに雇われ、暑さに耐えながら一日中働いた人たちが
それを見て、「きっと自分たちは、彼らの何倍ももらえるだろう」と大いに期待して
自分の番を待ちました。でも主人が支払ったのは、1デナリオンだけでした。「冗談
じゃない」。夜明けから一日中働いていた人は、最後に雇われて、たった1時間しか
働いていない人と同じ賃金だということに納得できず、主人に食ってかかりました。
すると主人は、怒っている彼に「友よ、あなたに不正なことはしていない。私は
あなたと1デナリオンの約束をしたではないか。自分の分を受取って帰りなさい。
私はこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ。自分のものを
自分のしたいようにしてはいけないか。それとも、私の気前の良さを妬むのか」と
言っています。
確かにブドウ園の主人は不正なことはしていません。約束通り、1デナリオンを
支払いました。最後に雇われた人が「私に1デナリオンをくれ」と言ったわけでも
なく、ただ主人が最後の人にも、最初の人と同じように支払いたかっただけです。
とは言え1時間しか働いていない人と、長時間働いた人の賃金が同じだったら、
長く働いた人が「冗談じゃない」と怒るのは当然です。主人の言葉は常識外れです。
でもこれは、神様がどのような方かを教えるため、イエス様が語った天の国の例
え話です。天の国に、この世の常識は通用しません。長時間働いたら、報酬も多い
はずと思う期待も、天の国には通用しません。極端な話、最初にイエス様の弟子に
なって、最後は逆さはりつけで殉教したと言われるペトロも、平凡な信仰生活をし
ている私達も、またイエス様の十字架の隣で、死の間際に「御国で私のことを思い
出してください」と願った罪人さえも、天の国では皆、同じです。
なぜなら神様は、誰にでもご自分の愛を思うがまま、気前良く注いでイエス様
と同じ神様の子供、天の国の相続人にします。そして永遠の命を与えます。神学
校時代、同級生が「信徒のままでも、牧師になっても、神様からもらうのは、同じ
永遠の命1個だよね」と言っていたのを思い出します。そうです。牧師になったら、
永遠の命がもう1個余分にもらえるなんて、ありえません。ブドウ園の主人と同じ
ように、牧師だろうが信徒だろうが、信仰が長かろうが短かろうが、何の分け隔て
もなく、神様は誰彼かまわず、気前良く招いて、気前良く愛します。
「私の気前よさを妬むのか」と主人は言いました。「自分が神様のためにどれだけ
働いたか」をいつも計算している人は、誰彼構わず愛を注ぐ神様の気前良さが、気に
入りません。後から来た者にも最上の愛を注ぐ神様の気前良さに、腹が立ちます。
まして夕方まで残されていた人が雇われ、1デナリオンを得て、ホッとしたことも
喜べません。隣人が神様から愛されることを、喜べません。
しかしこの例え話で注意すべき点は、神様の愛は、私達の働きに対する賃金や
報酬ではなく、「気前の良い神様からの自由な贈物だ」と言うことです。
私達の働きは、「神様に愛されるための条件」ではありません。本来、私達は神様
から愛される資格もなく、神様の子供にふさわしくもない。神様の子供とされて、
永遠の命をいただけるはずもない。だから私達が神様に愛されるのは、ただただ
奇跡です。こんな私達を、神様は気前良く愛して、神様の働き人として招いてくだ
さいました。私達がどんな働き人であろうと、神様は私達を気前良く愛して、神様
の子供とし、天の国の分け前にあずからせ、永遠の命を与えます。「私をあげるよ」
と神様ご自身、イエス様ご自身を、私達に与えてくださるのです。だとしたら、
私達はどのように働くのでしょう。手を抜くのか。それとも忠実に働くのか。
私達の働きは、神様から気前良く愛されていることの感謝と喜びの応答です。しかも「応答する私達の働き」もまた、神様からの贈物なのです。私達の働きが、
神様からの贈物で、神様が私達にさせてくださるのなら、自分の働きを人と比べて
誇ったり、落ち込んだりするのは、意味ありません。
神様は、最初の人も最後の人も皆が、イエス様と同じ姿の神様の子供になるまで、
気前良く、愛し続けてくださいます。だから小ざかしい計算は忘れて、イエス様が
招いてくださるブドウ園で、神様に愛されながら、思い切り楽しく働きましょう。

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