日本基督教団御殿場教会  United Church of Christ in Japan Gotenba church

毒麦のたとえ

説教

タイトル:「毒麦のたとえ
聖書  : マタイ福音書24-30,36-43
年月日 : 2010-10-3
 

 イエス様は天の国について、例え話をしています。ある人が自分の畑に良い種を
蒔きました。畑の主人が蒔いたのは麦です。でも皆が寝ている間に敵が、麦の中に
毒麦を蒔いていきました。麦と毒麦は実をつけるまで区別がつきませんが、毒麦の
実は灰色で、食べると害をおよぼすそうです。そのために、実がつくようになって
初めて、麦畑に毒麦が生えていることに気がつきます。僕はこのことを主人に報告
して毒麦を抜こうとしますが、毒麦と一緒に麦まで抜いてしまうかも知れないから
と言って、主人は刈入れの時まで、両方一緒に育つままにするよう命じます。実際、
毒麦は、根が長い上に強くて、周りの麦の根にしっかりからみついて成長します。
そのため毒麦を抜く時に、周りの麦も抜いてしまいます。
 草花を育てたり、家庭菜園、また田んぼを持っている方は日々体験していること
ですが、花や野菜の種を植えたのに、いつの間にか雑草がびっしり生えてきます。
稲を植えたのに、雑草やヒエが生えてきます。手入れをしているのに、病気の花や
野菜が混じります。そんな時は見つけ次第、引き抜きます。雑草を抜いたりする時、
周りの花や野菜がいくらか犠牲になることもありますが、早めに抜いたり切ったり
しないと雑草や病気は広がって行きます。害になるものを取り除くことは、当然の
ことなのに、例え話の主人は収穫の時まで毒麦を抜かないで、そのまま麦と一緒に
育てさせます。主人のしていることは不可解です。そこで24節のイエス様の言葉を
原文通りに訳して、ふりかえってみました。
「天の国は、自分の畑に良い種を蒔く人に似ている」。
つまり、麦畑に良い種を蒔き、毒麦が生えても毒麦を引き抜かないで、収穫の時
まで麦と一緒に育つのを待つよう命じた畑の主人。天の国が、畑の主人のしている
ことに例えられているのです。
37節以下で例え話をイエス様が説明しています。良い種を蒔いた主人は人の子、
メシヤです。畑は世界、良い種は天の国を受け継ぐ者たち、毒麦は悪い者たちで、
毒麦を蒔いた敵は悪魔、サタンです。刈入れの時とは終わりの日のことで、その時、
刈入をするのは、メシヤが遣わした天使たちです。天使たちは毒麦・悪い者たちを
刈り取ると、まとめて処分します。
良い種を蒔いた畑に毒麦が生えたように、この世界は神様が「良いもの」として
造られたにもかかわらず、世界には様々な悪が、雑草のようにはびこっています。
「なぜ神様は、この世の悪を野放しにしているのか」と文句を言いたくなります。
この世に悪がある。それは教会も同じです。
マタイ福音書が書かれたのは、教会への迫害が盛んな時です。そのため教会には
信仰を全うする者ばかりではなく、信仰を捨てる者や裏切る者も出てきて、例え話
の麦畑のように、教会の中に次々と毒麦が現われました。
良い種が蒔かれたのに、毒麦が現われる。これはマタイ福音書が書かれた時代に
限ったことではありません。イエス様は12人の弟子をお選びになりました。しかし
12弟子の中から、イエス様を裏切るユダが出てきました。ユダだけでなくペトロも、
イザとなるとイエス様のことを「知らない」と言って逃げます。神様はイスラエルを
神の民としてお選びになりましたが、イエス様を十字架につけたのは、他でもない
神の民イスラエルです。
 たとえ良い種として蒔かれ、良いものとして造られても、この世では常にサタン
の誘惑に遭います。そして良いものの中からでも、悪いものが出てくる現実があり
ます。その意味でこの世も教会も、例え話のように「良い麦と毒麦が共に育つ畑」だ
と言えます。しかし畑の主人は、良い麦と毒麦が共に育っていることを知っており、
その上で、「刈取りの時まで、そのまま一緒に育ててなさい」と命じていました。
 これは、神様が悪を退治するのをヤメタと言うことではありません。畑の主人が
毒麦を抜く時、他の麦も一緒に抜いてダメにすることよりも、刈入れの時まで麦を
大切に育てることを選んだように、神様も今、悪を根こそぎ退治することよりも、
私達一人一人を天の国を受け継ぐ者として、終わりの日まで大切に育てていく
ことを選んでくださったのです。
 「終わりの日まで待つなんて、神様のやり方は手ぬるい」と思われるかもしれま
せん。でもそれは「自分が毒麦ではない」と思っているからではないでしょうか。
マタイ福音書が、教会における毒麦と言っているのは、イエス様を受け入れようと
しない不信仰な者たち、教会を破壊する反キリストのことです。しかし麦と毒麦の見分け方が難しいように、人の信仰が良いか悪いか、私達には判断ができません。
自分の信仰が神様の御心に適っているのかどうかさえ、私達には判断できません。
パウロが教会を迫害していたように、自分の信仰は正しいと思っていても、それが
本当に正しいかどうか定かでありません。第一、私達の中には良いものもあれば、
悪いものもあります。自分の中にキッチリ線引きして、「こっちは悪だから」と切り
捨てたら、恐らく私達は、自分のほとんどを失うことになるでしょう。
 自分の信仰の正しさが、徹底的に打ち砕かれる体験をしたパウロは、「正しい者は
いない。1人もいない」(ローマ3:10)と告白しています。イエス様が命じた唯一つの
掟「互いに愛し合いなさい」、これにも従えない私達は皆、引き抜かれても仕方ない
毒麦です。例え話では麦畑に毒麦が混ざっていましたが、実は畑一面、怪しい毒麦
ばかりなのです。こんな状態で、どれを引き抜くと言うのでしょう。
 どれが毒麦でどれが良い麦か、それを判断して刈取るのは、私達の仕事では
なく、メシヤが遣わした天使の仕事です。私達の信仰を最後に判断して、善悪を
見極めるのは、神様がなさることです。神様の領域を人間が犯してはなりません。
それゆえパウロは「主が来られる時までは、先走って何も裁いてはいけません」と
警告してします(1コリント4:5)。教会は終わりの日に、すべてを見極めて、正しく
審判を下される神様に固く信頼します。終わりの日の神様の審きに信頼します。
 では、教会で何が起きても、ただ終わりの日を待つことしか出来ないのか。そう
ではありません。先程も言ったように、世にある教会は、常にサタンの誘惑にさら
されていますが、教会にいるのは、神様から呼び集められた大切な一人一人です。
「これらの小さな者が1人でも滅ぶことは、あなたがたの天の父の御心ではない」
とイエス様は断言し、続く箇所で「兄弟があなたに対して罪を犯したなら、行って
2人だけの所で忠告しなさい。言うことを聞き入れたら、兄弟を得たことになる」
と言っています(マタイ18:14-15)。
教会の誰もが、神様にとって失われてはならない大切な宝物です。たとえ信仰の
道を誤った人や、意見が合わない人がいたとしても、教会がすべきことは、彼らを
早々と毒麦として取り除くことではありません。終わりの日の神様の審判、天使の
刈入れに信頼する教会がすべきことは、裁くことではなくて、1人でも多くの人が
悔い改めて、神様に立ち帰れるよう、とりなして祈ることです。
パウロは教会のことで労苦していましたが、復活の主が終わりの日に、すべてを
正してくださる希望に立って、同じように労苦していたテモテに命じています。
「御言を宣べ伝えなさい。折りが良くても悪くても励みなさい。とがめ、戒め、
励ましなさい。忍耐強く充分に教えるのです」(2テモテ4:2)。
終わりの日が来るまで、絶えずとりなして祈ること。そして絶えず御言を語り、
忍耐強く教えることによって、教会は迷っている人たちを主にある兄弟姉妹として
迎え入れることができます。教会にそんな力があるのかと侮ってはなりません。
教会は主イエス・キリストの体です。私達がガンコな毒麦だと百も承知の上で、
それでも私達を愛して、私達を天の国の住まわせるために、命を献げてくださった
イエス様が生きて教会におられます。イエス様こそ、神様の喜ばれる良い麦です。
イエス様は、毒麦ばかりのこの世界に、奇跡的に生まれた唯一つの良い麦です。
教会には、本物の良い麦、イエス様が生きて働いておられます。終わりの日まで
休むことなく、イエス様は働き続けておられます。私達の罪の毒気をご自分の血で
洗い清めて、私達を包みこみ、私達と1つになるためです。そして終わりの日に、
私達を毒麦ではなく良い麦として、神様の前に立たせてくださるためです。
「キリスト・イエスに結ばれている者は、罪に定められることはありません」
(ローマ8:1)
 死を復活の希望に変えたように、イエス様には、毒麦を良い麦に変える力があり
ます。ご自分の中に留まる者たちを、終わりの日の審きから守る力があります。
だから今日もイエス様は、1人でも多くの人がイエス様につながって、良い麦に
育つのを忍耐強く待っていてくださいます。刈入れはまだですが、刈入れに向けて、
着々と天の国では準備が進んでいます。終わりの日に、私達を失うまいと、神様はこの世界に良い麦イエス様を植えてくださいました。そのイエス様がおられる教会に招かれ、イエス様が私達の成長を待っていてくださる幸いに感謝しましょう。

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