日本基督教団御殿場教会  United Church of Christ in Japan Gotenba church

来なさい。そうすれば分かる

説教

タイトル :「来なさい。そうすれば分かる」   
聖書   : ヨハネ1:35-42  
年月日  : 2015-7-5
特記事項 :

 イエス様の上に聖霊が留まるのを見たヨハネは、「イエス様こそが、聖霊によって洗礼を授ける神の子であり、世の罪を取り除く神の子羊」と証言しました(29-34節)。その翌日、2人の弟子といたヨハネは、歩いておられたイエス様を見つめながら、再び「見よ、神の子羊だ」と証言します。すると、その言葉を聞くなり、どうしたことか、ヨハネの弟子2人は、イエス様の後に従っていきました。
  「従う」と言う言葉には「後からついて行く、弟子になる」と言う意味があります。つまり、ヨハネの弟子だった2人は、ヨハネをその場に残したまま、イエス様に従う弟子になったということです。
  「自分の弟子たちが自分を残し、イエス様の弟子となり、イエス様に従って行く」。普通に考えると、つらいことに思えますが、「あの2人は薄情だ」とヨハネが言ったとは、聖書には書いてありません。否、むしろ、このような出来事が起こることを心から願って、ヨハネは証言していたのです。
 ヨハネの証言は、自分自身を指差すためではありません。イエス様が神様の御子、世の罪を取り除く神の子羊、メシア・救い主だということを、人に告げ知らせて、人々をイエス様に従う弟子とさせるためです。その意味で、2人が自分を離れて、イエス様の弟子となるためしたがって行った時、ヨハネの証言は本来の目的を達成したと言えます。
 イエス様はふりかえって、ご自分に従ってくる2人を見て、彼らに尋ねています。「何を求めているのか」。イエス様に「何を求めているのか」と尋ねられたら、私達は何と答えるでしょう。優れた能力、健康、財産、地位、若さ。たくさんありすぎて、即答できないかも知れません。「救い主のイエス様に、私が本当に求めていることは何か」イエス様に自分が本当は、何を求めるべきなのか」そのことを。私達は案外、分かっていないのではないでしょうか。
 イエス様に尋ねられた2人は「先生、どこに泊まっておられるのですか」と言いました。ヨハネが「神の子」と証言したイエス様に従って来た2人の求めたことが「イエス様の宿泊場所だった」と言うのはピンと来ません。でもここに意味があります。「泊まる」には「留まる、宿る、1つになる、属する」と言う意味も含まれています。イエス様の言葉「私につながっていなさい」(ヨハネ15:4)の「つながる」も原文は「泊まる」と同じ言葉です。
 つまりイエス様は2人が「どこに泊まっておられるのですか」と聞いた問いには、「あなたは誰とつながり、誰に属しておられるのですか。あなたの留まっている所、あなたが宿っている源はどこですか」と言う深い意味が隠れていたのです。
 彼らに対して、イエス様はただ「来なさい。そうすれば分かる」と答えています。これを直訳すると「来なさい。そうすれば、あなたがたは見るだろう」となります。
 ヨハネ福音書にはキーワードとなる言葉が幾つもあります。「見る」と言う言葉もそうです。ヨハネ福音書において「見る」はただ目で見るだけではなく、「分かる、悟る、体験する、信じる」ことも含まれます。そして39節の「見る」は未来形です。
 イエス様はこの2人に「私の行く所に一緒についてくれば、あなたがたは私が誰に属している何者か。その答えを見つけ、体験し、信じることになるだろう」と答えておられたのです。そして2人はイエス様に従って行って、イエス様がどこに属している方なのか、分かったのです。イエス様が誰なのか分かって、信じたから、彼らはそのままイエス様のもとに留まり、イエス様につながり続けて、イエス様を信じる弟子となったのです。
 聖書では、短時間でこれらのことがすべて起きたように記されているので、「すぐイエス様を信じて、弟子になるなんてありえない」と思うでしょう。しかし2人がイエス様の所に泊まった「午後4時」の原文は「10時」です。10は聖書では大切な数字の1つです。十戒や1/10の捧げ物も10に関係しています。聖書では短時間にすべてが起きたように記されていますが、「10と言う、神様の恵みに満ちた特別な時間」の中で、2人に信仰が与えられ、イエス様の弟子となる奇跡が起きたのです。
 このようなことは、実際、ここにいる方々も経験しているのではないでしょうか。初めて行った礼拝で、また初めてのキリスト教の葬儀で、「イエス様を信じて生きてみたい」と、心を刺しぬかれた経験をされた方がいるはずです。イエス様を信じるのに、時間の長短は関係ありません。信仰をもつことは人の努力や知識の多さではなく、神様からの一方的な恵みです。だから人は一瞬にして、神様の恵みにとらえられて、信仰者に変えられてしまうことだって、あるのです。
 そのための第一歩が、「来なさい」と言うイエス様の招きの言葉に従って、理屈はいいから、とにかくイエス様と一緒に生きてみるということです。
 イエス様は「私のもとに来なさい。そうすれば私が父なる神様につながっている御子であり、メシア・救い主だということが分かるだろう。そして私を信じて生きていくことが出来るだろう」と2人にだけでなく、時代を越えて、私達にも約束してくださっています。イエス様が約束しておられるのです。何をためらうのでしょう。
 安定を好み、変化を嫌う私達は、今ある自分をなかなか手離しません。だからと言って、今の自分に満足しているわけでもない。そして時間だけが過ぎて行きます。残り時間も気になります。このままでいいのでしょうか。いいはずがない。
 だったら、せっかくイエス様が「来なさい」と招いてくださっているのだから、自分自身を自分の手から離して、イエス様の招きの中に思い切って自分を放流してみましょう。稚魚を川や海に放流するように、発育不良の自分をイエス様の招きと導きの中に、思い切って全部、放流してみましょう。
 決しておだやかではない川や海ですが、それでも稚魚を大きく育てていくように、年だけはとっていても、全く中身が育っていない幼稚な自分を、イエス様が育ててくださいます。イエス様を信じ、イエス様に聞き従う弟子となって生きていく中で(楽な生き方ではないですが)、私達はイエス様と1つにつながれて、いつの間にか、「イエス様に似た幸いな者」に成長させていただけます。それでもイエス様の招きを拒むのは、「イエス様は従うには値しない」という本音が、私達の中にあるからです。
 イエス様に従った2人のうち、1人の名前が40節にあります。シモン・ペトロの兄弟アンデレです。イエス様の弟子になったアンデレは兄弟のシモンの所に行って「私はメシア、油を注がれた者=キリストに出会った」と告げています。アンデレが言った「出会った」には「求めていたものを見出した」、そういう意味合いがあります。アンデレは「イエス様が待望のメシア、油を注がれた者、キリストだと言うことが、分かったのです。イエス様が神様につながっており、神様に属する者、救い主だと信じたのです。
 だから「メシアに出会った」生々しい実感を、兄弟シモンに伝えました。そしてアンドレの証言を聞いたシモンも、すぐ、イエス様に会いに出かけて行きました。ヨハネの証言が、2人の弟子をイエス様に従う弟子としただけでなく、イエス様の弟子となったアンデレの証言が、今度はシモンを伝道します。イエス様と出会った人の熱々の驚きと喜びの証言は、イエス様と出会って従う弟子たちを、次々と生み出していきます。これこそ、生きた伝道です。
 イエス様は、シモンを見つめると、彼にケファ「岩(アラム語)」と言う新しい名前を与えました。神様から新しい名前をいただくとは、神様から新たに使命を授かるということです。そしてケファは最後まで、イエス様の弟子として生きぬきました。
 私達も礼拝で、御言を聴き、主の食卓に与ることを通して、イエス様と出会い、「イエス様の弟子」と言う名前を、礼拝毎に新しく授かります。そしてイエス様を証言する使命を新たに与えられて、隣人のもとに遣わされて行きます。
 説教の中で、イエス様から「何を求めているのか」と問われたら「何と答えるか」お聞きしました。今、その答えとして「日毎、イエス様と新しく出会い、弟子として従って生きたい。イエス様を深く知って、イエス様と1つになりたい」と言います。そのために今、イエス様が自ら私達と出会い「来なさい。そうすれば私の弟子とされ、私と1つにされて生かされていることが分かる」と招いておられます。イエス様に従い、イエス様と出会った、熱々の驚きと喜びを、この世に証言していきましょう。

 

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