日本基督教団御殿場教会  United Church of Christ in Japan Gotenba church

最も小さな者にしたこと

説教

タイトル :「最も小さな者にしたこと
聖書   : マタイ福音書25:31-26-5
年月日  :2014-3-2
 終わりの日に明らかにされる天の国がどんなものか、イエス様はずっと例え話を
してこられました。本日はその最後の箇所です。先ほどの信仰告白の中にある通り
十字架で死んだイエス様は3日目に復活され、天に昇り、神様の右に着かれました。
でも終わりの日、イエス様は再び目に見える姿で、しかも輝く栄光の姿でこの世に
来られて、審判の席に着かれます。生きている者も、既に死んだ者も、イエス様の
前に1人残らず集められて、右と左に分けられます。その様子を羊とヤギを一緒に
養っていた羊飼いが、羊は羊だけ集めて右に、ヤギはヤギだけを集めて左に分けて
置くことに例えています。
 終わりの日が来ると、審判者であり、またすべてを支配する王であるイエス様は、
すべての人を右と左に分けてから、右側に集めた人たちに次のように言われます。
 「私の父に祝福された人たち、天地創造の時から、お前たちのために用意されて
いる国を受け継ぎなさい。お前たちは、私が飢えていた時に食べさせ、喉が
渇いていた時に飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、裸の時に着せ、病気
の時に見舞い、牢にいる時に尋ねてきてくれたからだ」。
 天地創造の時から用意されていた国とは、天の国、神の国のことです。すなわち
右に集められた人たちは神様の子供で、正式な天の国を受け継ぐ相続人にされたと
言うことです。天の国の相続人に関する証言は、聖書のあちこちに見られます。
「神の霊によって導かれる者は皆、神の子なのです。もし子供であれば、相続人
でもあります。神の相続人。しかもキリストと共同の相続人です」(ローマ8:14, 17)。
「キリストにおいて私達は、御心のままにすべてを行われる方のご計画によって
前もって定められ、約束されたものの相続者とされました」(エフェソ1:11)
このように聖書が証言する神様の子供たち、相続人とは、聖霊の導きによって
「イエス様を救い主と信じる信仰を与えられた信仰者」のことです。信仰者は
神様の子供たち、天の国の相続人なのです。だけど35節以下を読むと、ただ信仰者
と言うことだけで、右側に集められたのではないことが、分かって来ます。
 彼らが右に集められたのは、イエス様が飢え渇いていた時、食べて飲ませたから
です。雨が少ないイスラエルでは水は貴重です。干ばつの時は、作物も収穫できず、
食べ物も足りなくなります。そんな時でも他人に、貴重な食べ物や水を提供できる
のか。自分の分、家族の分を減らしてでも、他人に分けることが出来るのか。また
右に集められた人たちは、イエス様が旅の宿を求めていた時、友人を迎えるように
温かくもてなしていました。でも突然、現われた見知らぬ旅人を家に泊める勇気が
あるでしょうか。教会にも「泊めてください」と知らない方が来ます。寒い夜など
気の毒だと思いながら、やはり恐いのでお断りしてしまいます。さらにイエス様が
着る服もなく裸で震えている時に、右に集められた人たちは、気前よく自分の服を
着せ、イエス様が病気の時は、必要なものを持って見舞いに行き、イエス様が牢に
閉じ込められていた時は、自分が共犯者だと疑われることも恐れず、牢の中にいる
その人を見捨てることなく訪問し、声をかけて励ましていました。
 これを聞いて右側に集められた人々は「イエス様をもてなしたりした覚えがない」
と言います。でもイエス様は「私の兄弟であるこの最も小さい者の1人にしたのは、
私にしてくれたことなのである」と、ハッキリ言われました。
 貧しく、飢え渇いている人、病気で弱り果てている人、宿無しで震えている旅人、
牢に閉じ込められて、孤独に沈んでいる人。彼らは必死で助けを求めていますが、
世間から見たら、彼らは厄介で、できたら関わりたくない人たち。取るに足らない、
面倒な、最も小さな人たちです。賢い人たちは、彼らを無視して通り過ぎます。 
しかし、そんな最も小さな人たちの代表が、実はイエス様だったのです。
何よりもイエス様ご自身が、最も小さな人たちのことを、「私の兄弟」と、
呼んでいます。 
まさか、薄汚れた貧しく弱々しい小さな人たちが、イエス様の兄弟だったとは。
否、まさか最も貧弱な彼らの中に、イエス様が一緒におられたとは思っても
いないことでした。そうとは知らずに、最も小さな人たちを助けていた人たちが、
終わりの日に、イエス様によって、右側に集められて、神様の子供たち、天の国の
相続人として祝福された信仰者たちでした。
 その反対に、左側に集められた人たちはイエス様から「呪われた者ども、私から
離れ去り、悪魔とその手下のために用意してある永遠の火に入れ」と告げられます。
永遠の滅びが宣告されるのです。左側に集められた人たちの中には、信仰者もいた
のでしょうか。私達には、知りようがありません。
彼らに永遠の滅びが宣告されたのは、彼らが何か特別、悪いことをしたからでは
ありません。否、彼らが何もしなかったからです。最も小さい人たちが、助けを
求めていたのを見ても、無関心のまま、何もしないで通り過ぎてきたからでした。
でも助けることもしないで、無視してきた最も小さな人たちの中には、イエス様が
一緒におられたのです。そんなこと、左側に集められた人たちは知りませんでした。
助けを求めているのが、イエス様だと知っていたら、信仰者なら、小さい人たちを
助けたでしょう。左に集められた時、「こんなドッキリはズルイ。貧弱な人に化けて
いたのがイエス様だって、私達は知らなかったんだから」と言うかもしれません。
でも信仰者たちは、本当にイエス様が「最も小さな者、貧弱な者となること」を、
知らなかったのでしょうか。イエス様は26章2節で「人の子は十字架につけられる
ために引き渡される」と言っています。弟子達には、ご自分が苦難の末に殺される
ことを何度も告げています。
イエス様の十字架の死は、みずから現実に最も惨めで呪われた者となった
しるしです。神様の御子が、すべての人の罪を背負って、最悪の最も呪われた者、
最も小さな者となってくださったという確かなしるしが、イエス様の十字架です。
十字架の苦難と死を通し、イエス様は最も小さい人たちのため、世間から
軽蔑され、嫌われ、無視されるすべての人の兄弟となってくださり、彼らと
共に、彼ら1人1人の中で、イエス様がリアルに生きてくださるのです。
 このあと、聖餐式がありますが「パンにおいてキリストを受けて、務めにおいて、
生身の人々のもとにキリストを見出す」と言ったのは、インドのカルカッタで多く
の貧しい人、死に行く人に生涯を献げたマザーテレサです。たとえ信仰が違っても、
マザーには、出会う人々の中に、イエス様を見出す信仰の目が、与えられていました。 
すべての人のために十字架につけられ、とりなし祈っておられるイエス様のお姿。
すべての人の罪のドロ足を、身を屈めながら、洗っておられるイエス様のお姿を、
誰の中にでも見出すことができる信仰の目が、マザーには養われていました。この
信仰の目は、私達が本気で神様に祈り求めるのであれば、必ず与えらます。
先月、一人の方が洗礼を受けて、信仰者として誕生しました。洗礼は神様からの
すばらしい恵みです。でも洗礼で終わりではありません。洗礼を受けてイエス様と
1つに結ばれた信仰者は、イエス様と共に現実の生活に出かけて行きます。そして
日々の生活の中で、神様が造られた世界と人々と出会います。その時、「神様
と人を愛しなさい」と言う、神様の言葉、神様の願いを思い出すでしょうか。
すべては神様のもので、神様が愛する尊い作品です。すべての世界と人の中に、
神様の愛、ご計画、働きがあります。一人一人の存在に神様が主権を持って臨んで
おられます。だから最も小さい者でも、神様が造られた者として尊び、思いやり、
慈しむなら、その人は小さい者に寄り添っている神様の主権を認めて敬い、神様の
言葉に聞き従い、実践して生きる信仰者です。終わりの日には、右側に集められて、
天の国の相続人とされるでしょう。 
反対に最も小さい者を軽んじ無視することは、小さい人が神様の主権の下に
あることを否定し、小さい人への神様の主権を認めず、神様の言葉にも聞き
従わないと言うことになります。従って終わりの日には、左側に集められることに
なるでしょう。信仰者になっても、神様の言葉に聞き従って人を尊び、人を愛して
生きようとしない「ペーパードライバー」では、終わりの日に役立ちません。
「主よ、主よ、と言う者が皆、天の国に入るわけではない。私の天の父の御心を
行う者だけが入るのである」(マタイ7:21)
 終わりの日の審判はいつか来ます。神様の子供とされて、永遠の命を受けるか、
それとも永遠の罰を受けるか、私達はどちらかに分けられます。中間はありません。
こういうと、消費税前の駆け込み需要ではないですが、「終わりの日が来る前に、
何か対策を練って準備しておこう」と思われるかもしれません。でも終わりの日に
備えるとは、特別なことではありません。神様が招いておられる礼拝に参加して、
神様の言葉に聞き従い、イエス様を自分の主人として受け入れて、生きればいい。
イエス様は「神様と人を愛する」ことが完全に出来る唯一のお方です。この方が
私達の中で、自由自在に愛の業に励めるようイエス様に信頼し、自分自身を
全部イエス様に預けてしまえばいいのです。すると自分でも気がつかない内に、
私達の中でイエス様が働いて、神様が望み、神様が喜ばれる愛の業を、イエス様が
してくださいます。私達がするのではなく、私達の中におられるイエス様がなさる
愛の業を妨げないよう、イエス様に大胆に信頼して、終わりの日に備えましょう。

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