日本基督教団御殿場教会  United Church of Christ in Japan Gotenba church

新たに生まれねばならない

説教一覧
タイトル :「新たに生まれねばならない」   
聖書   : ヨハネ3:1-15  
年月日  : 2015-12-6
特記事項 :

 ユダヤ教の律法や戒めを厳格に守ることで知られているファリサイ派で、その上ユダヤ議会(最高法院)の議員でもあるニコデモと言う人が、人目を避け、夜になってこっそりイエス様を訪ねてきて、言います。

 「ラビ(先生)、私共はあなたが神の下から来られた教師であることを知っています。

 神が共におられるのでなければ、あなたのなさるようなしるしを誰も行うことはできないからです」。

 ニコデモはイエス様を理解しているし、信じていると言いに来たのです。そして彼は「私共」と言っています。つまりニコデモのようなユダヤ教エリートの中にも、イエス様が行うしるしを見て、心を動かされ、神様の特別な力がイエス様に働いていると信じた人達がいたのです。でもニコデモが人目を避けてきたように、彼らは立場上、イエス様を信じていることを、おおっぴらにすることは出来ません。
 
 しるしを見てイエス様を信じた人達。少し前の箇所(2:23-24)で、イエス様はそういう人達を信用していなかったと書いてあります。イエス様は、ニコデモの言葉に対して、信じるとはどういうことか、直球勝負で答えています。

 3節「はっきり言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることは出来ない」。直訳しますと「アーメンアーメン(本当に本当に)、私はあなたに言う。人は上から生まれなければ、神の国を見ることは出来ない」。

 「新たに」の元々の意味は「上から」と言うことで「天におられる神様によって」と
言う意味がこめられています。また3節5節に「神の国」と言う言葉が出てきますが、これは15節の「永遠の命」と、ほぼ同じ意味で使われています。

 イエス様は「人はどんなに律法を守り、聖書に詳しくても、上から、つまり神様によって新しく生まれなかったら、神の国(永遠の命)を見られない」と言われたのです。
 
 しかしニコデモはイエス様の言葉を理解できず、「1度生まれて年を重ねた者が、母親の胎内に戻って、再び生まれることは出来ないだろう」と言い返しています。

 そこでイエス様は更に、神の国の奥義、永遠の命の奥義に踏み込んで語り出します。

 5節「はっきり言っておく。誰でも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることは出来ない」。

 水と霊は、洗礼を意味していると解釈して良いと思います。洗礼の時、「父と子と聖霊の御名によって」水が注がれます。と同時に霊も注がれます。神様の霊、聖霊です。洗礼を受けた者は,誰であれ、神様によって新しく生まれた者であって、
神の国に入ること、そして永遠の命を得ることが、約束されています。

 何十年も前のことで、洗礼を受けた重さを忘れている方もいるかも知れませんが、私達は、人の肉をもってこの世に生まれただけでなく、水と聖霊を注がれて洗礼を受けた時、神の国に入る者、永遠の命を得る者として新しく生まれたのです。またどんなに高齢であっても、洗礼を受けたら、その人は新しく生まれます。これまでとは全く違う、新しい人生を生きることができます。だから遅すぎることはない。

 「もう年だから」とあきらめる必要も無い。

 6節「肉から生まれた者は肉である。霊から生まれた者は霊である」。このことは簡単に言うと、肉を持って生まれたままなら、欲望、エゴ、傲慢など、肉の思いに引きずられて生きて、その先にあるのは死だけです。しかし肉を持って生まれても、水と聖霊を注がれ洗礼を受けるなら「聖霊に導かれて生きる新しい人、神様と永遠の命に属する新しい人として、生まれ直すことができる」と言うことです。

 今日は礼拝後、洗礼試問会があり、洗礼が決まれば、今月のクリスマスで私達は、「聖霊に導かれて生きる新しい人たちの誕生」に立ち会うことになります。洗礼は単なるセレモニーではない。この世で行うにもかかわらず、神の国に届く出来事、神の国の門を開く出来事が、激しく聖霊が働きまわる洗礼の場で、起きるのです。朽ちるしかない肉の人が、永遠の命を宿す神様の子供としてリアルに生まれる現場。それが洗礼です。既に洗礼を受けている人は、洗礼を軽んじて欲しくない。大いに聖霊に揺さぶられて、洗礼に込められている畏れ多い神様の奥義、神の国の恩寵に、自分が与っていることに目覚めて、踊り上がって喜んで、神様をほめたたえ、感謝せずにはいられなくなって欲しい。洗礼とは、それほど崇高で尊い恵みなのです。

 7節でイエス様は「あなたがたは新たに生まれなければならない」とニコデモに言っています。イエス様が行ったしるしを見て、イエス様のことが分かったような気になっているけど、人目を気にして中途半端にイエス様を理解しよう、信じようとするのではなくて、「思い切って水と聖霊の洗礼を受けて、永遠の命を宿す人へと新しく生まなければならない」と言っているのです。

 「あなたがたは新たに生まれなければならない」。原文は、もっと強い表現です。

 「当然のこととして、あなたがたは新たに生まれるべきだ!」。「気が向いたら、洗礼を受けて、新たに生まれることが出来たらイイネ」と言う曖昧さは微塵もない。この言葉には''「あなたがたは肉のままで終るな。洗礼を受け、あなたがたが
新たに生まれるのは神様の定めだ」と言う強い思いと祈りが込められています。''

 短期間で洗礼を受ける人もいれば、長い時間をかけて洗礼を受ける人もいます。それは人が決めることではなく、聖霊の働きです。聖霊は「風、息」とも訳されます。風は見えないし、風が窓をガタガタ揺らす音は聞こえても、風がどこへいくのか、分からない。同様に、聖霊がいつ誰に向かって働くのか、私達には分かりません。だから風を受け、帆をふくらませて走る舟のように、いつでも聖霊を求めて祈り、体中に聖霊を受けて、洗礼へと動き出せるようにしておきたい。また洗礼を受けているなら、陸に結んである綱をほどいて、神様に向かって、もっともっと沖に漕ぎ出せるよう、全身を帆のようにして聖霊を受けて、聖霊の導くまま、自分の予想をはるかに越えて、新しく成長させられることを体験して欲しい。私が洗礼を受けた時、赤ん坊を抱いた主婦でしたが、その時、自分が牧師になると思ってもいません。聖霊の導きはいつも想定外です。しかしニコデモはかたくなに、狭い常識と理性の中に留まって「どうしてそんなことがありえましょうか」と言いはります。
 
 するとイエス様はニコデモに「あなたはイスラエルの教師でありながら、こんなことが分からないのか」とダメ出しをします。そして彼が2節で告げていたのは、上辺だけの言葉で、実はイエス様の教えを全く理解しておらず、分かったつもり、信じたつもりになっていただけだということが、バレてしまいます。
 
 11節以下のイエス様の言葉の裏には、イエス様を救い主と信じる教会と、教会を拒むユダヤ人との対立があります。教会は救い主イエス・キリストについて、実際に自分達が見て聴いて知ったこと、体験したことを語っているのに、ユダヤ人たちは教会が語る言葉を受け入れようとはしません。

 だからイエス様は、「地上での出来事を語っても信じないなら、天上での出来事はなおさら信じることは出来ないだろう」と言っています。そしてイエス様は天上で準備されている神様の救いのご計画をご存知です。なぜなら、唯一イエス様だけが神様の御子でありながら、人として、この世に天から降ってこられた方だからです。 

 イエス様は天から降り、私達と同じ肉をもって、この世に生まれました。でも昔、荒野で神様の怒りを受けた民が死んでいく中、神様が命じた通り、モーセが青銅の蛇を竿に掲げると、それを見上げた人々が死から救われた話があります(民数21:4-9)。それと同じようにイエス様もまた、十字架に磔にされて、上げられねばなりません。 

 十字架による罪の赦しを仰ぎ見て、イエス様を救い主と信じて洗礼を受けた人が、罪と死から救われ、永遠の命を宿した神様の子供として新たに生まれるためです。そうです。死すべき肉の私達なのに、聖霊の導きにより、十字架を仰ぎ見てイエス様を信じ、洗礼を受けるなら、永遠の命が与えられます。神様が私達のために、死では終らない新しい命、永遠の命を用意してくださっているからです。この命を受け取らないままで、いいのか。否、受け取らなかったら、もったいない。

 だから人は十字架のイエス様を仰ぎ見て、新たに生まれなければならないのです。私達一人一人が神様の子供として新たに生まれるため、そして御子イエス様は、十字架で上げられるために、すべての栄光を捨てて天から降り、死すべき肉をもつ人となられて、この世に生まれてくださいました。

 これがクリスマスです。先週、コンサートのポスターを貼らせてもらうために、駅前の「カフェ・マルタ」に行きました。その時、お店の方が「クリスマスおめでとうではなくて、クリスマスありがとうですよね」と言われました。クリスマスの尊さを噛みしめれば噛みしめるほど「その通り、アーメン」です。クリスマスありがとう。

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