日本基督教団御殿場教会  United Church of Christ in Japan Gotenba church

愛は忍耐強い

説教

タイトル :「愛は忍耐強い
聖書   : 1コリント13:4-7
年月日  : 2012-11-4   
お互いの賜物の違いの優劣を巡って、争い分裂していたコリント教会に向かって、
パウロが12:31で「もっと大きな賜物を受けるよう、熱心に努めなさい。そこで私は
あなたがたに最高の道を教えます」と語りだしたのが、13章の愛です。神様が人に
与える最大の賜物、最高の道とは、愛です。それも人の愛ではなくて、神様の愛
アガペーの愛です。ここでは神様の愛、アガペーの愛の性質が語られています。 
私達が神様の愛を知るのに一番ふさわしい場所は、主イエス・キリストの十字架
の下です。十字架の下に立ち、したたり落ちる血の感触を肌身に感じて、十字架の
キリストを仰ぎ見ながら、4節以下で語られている神様の愛を聞きましょう。
まず最初に「愛は忍耐強い」。キリストは「敵を愛しなさい」と言われましたが、
キリストが愛したのは、まさに愛するに価しない、救うに価しない罪人たちでした。
彼らは無実のキリストを十字架につけた上、石を投げ、つばを吐き、ののしります。
悪意と憎しみに満ち、平気でウソをつき、裏切り、攻撃する罪人たちを、十字架に
つけられながらも、キリストは愛します。彼らの罪が赦されるために、ご自分の命
と引き換えに、彼らの罪を神様にとりなして祈ります。理解されず、受け入れられ
なくても、それでもキリストは誰のことも諦めず、どこまでも罪人を追いかけて、
彼らを救いに招くことを放棄せず、忍耐強く愛し続けます。だから降りられるはず
の十字架からも、キリストは息絶えるまで降りることはありませんでした。
忍耐強さなら、私達にもあります。子育ての疲れと眠気をこらえて、夜泣きする
子供を一晩中、ダッコしながら、あやします。またとげとげしい人間関係の中で、
無理難題を押しつけられながら歯を食いしばり、業績を上げるため、昼夜を問わず
働いています。私達も皆、忍耐しています。ではキリストの忍耐との違いは何か。
注意深く観察してみると、私達が忍耐強く歯を食いしばって頑張っている中には、
自分の意地とかメンツがあるように思います。でもキリストの愛の忍耐強さには、
意地もメンツもありません。
キリストの忍耐強さは、ただ愛することだけが目的であって、自分の意地とか
メンツが目的ではありません。キリストの愛は誰のことも分け隔てすることなく
ただひたすら忍耐強く愛することだけが目的の愛です。キリストはただ愛する
ために、愛します。「神は愛」だから(1ヨハネ4:16)、愛想の者であるキリストは愛さず
にはいられない。それだけです。他には何もありません。それがアガペーの愛です。
だからキリストの愛は、広く、深く、すべてを受け入れて、すべての人に情け深い。
キリストは、相手が誰であろうと、その人を大切に思い、その人の幸いを願い、
最高のものを与えます。御子であるご自分の豊かさを惜しまず与えて、愛します。
その人の幸いを願って愛するから、キリストは誰かと愛の大きさを比べて、ねたん
だり、自慢したり、高ぶることもしません。コリント教会が、それぞれ自分の賜物
の優劣を競って、いがみ合っていた姿とは、非常に対照的です。
キリストは御子ですが、自分の力や栄光を誇って、相手の力を値踏みして上から
目線で応対するような無作法はしません。それどころか、一言も弁解せず十字架に
つけられ、全人類の罪を担ったまま、呪われた者となることに甘んじました。
キリストの愛に損得勘定はありません。キリストはご自分の利益など、すっかり
忘れて、ご自分を手離してすべての人を愛します。すべての罪人を愛するために、
キリストはどんな不利益でも受け入れます。だから罪人を愛し続けるキリストの
体は、傷だらけです。罪人は御子にとって、異物です。深く愛すれば愛するほど、
異物を受け入れるほど、傷は多くなり深く刻まれます。キリストの体には、無数の
傷が刻まれ、肉が裂け、血まみれになっています。
 相手が自分の愛に応えず、完全に無視していたら、私ならいらだって「こんなに
犠牲を払って愛しているのに、なんて奴だ」そう思ったでしょう。でもキリストは
いらだちません。私達がキリストの愛に応えようが応えまいが、いらだたず、恨み
を抱かず、キリストは、強情な私達を愛し続けてくださいます。
「恨みを抱かず」は直訳すると「悪を数えない、記録しない」と言うことです。
いつもキリストから愛され、赦され、招かれているのに、強情で恩知らずな私達の
行いをエンマ帳に書きとめて「終わりの日にみてろよ」とは、言わないのです。
しかし「悪を数えない」と言っても、私達が不義を行い、罪の中にとどまることを
キリストが見逃すと言うことではありません。キリストは私達を愛しているから、
私達の不義を喜びません。私達が神様の真実に目覚めて、生きることを喜びます。
 キリストが私達の悪、私達の罪を数えないのは、十字架につけられたご自分の体
からしたたる血で、私達の悪と罪を全部きれいに、洗い清めてくださるからです。
この十字架の血の赦しがあるから、キリストは私達の罪を数えることも、恨みを
抱くこともしないで、いつでも新しく私達を受け入れて、愛してくださるのです。
そして私達がキリストの愛を信じて、神様の真実の中で生きるようになるまで、
キリストは、私達のすべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐えて
私達を愛し続けてくださいます。何と言うぜいたく、なんと言う幸いでしょう。
世間では「仏の顔も3度まで」と言います。たとえ親子でも「これ以上やったら、
もう知らない。親子の縁を切る」と言う限度、限界があります。しかしキリストに
現れた神様の愛、アガペーには、限度も限界もありません。
神様に造られた一人一人が、今は神様から離れていても、神様に立ち帰って再び
神様の愛の中で生きることを熱望します。そのためには、どんな嫌がらせ、中傷、
迫害も忍んで、キリストはすべての人を愛します。
「女が自分の乳飲み子を忘れるだろうか。母親が自分の産んだ子を憐れまないだ
ろうか。たとえ女たちが忘れようとも、私があなたを忘れることは決してない。
見よ、私はあなたを私の手のひらに刻みつける」(イザヤ49:15-16)
親が見捨て、万人が見捨てたとしても、神様の愛はあなたを忘れず、見捨てない。
そして今、あなたが神様を完全に無視して、神様を拒んでいても、必ず神様の愛
気づいて、あなたが神様の愛の中に飛び込んで生きる時が来ることを、心から信じ、
心から望んで、キリストはあなたを愛します。
「世間の100人が100人とも、絶対にありえない。絶対にムリだね」と言っても、
しかしそれでもキリストは、あなたの前から立ち去らない。あなたを愛することを
決して止めません。あなたが神様の愛を受け取るまで、あなたが神様の愛を喜んで
生きて、あなたが神の国に無事に入るまで、いかなる時でも、キリストはすべてに
耐えて、あなたを愛し続けます。
「耐える」とは「逃げ出さずに留まる、持ちこたえる、待望する」と言う意味です。
私達は見かけは良さそうでも、中身は神様に対してかなり反抗的です。牧師の私も
そうです。誰でも人は自分に執着して、自分の思いを何よりも最優先します。その
挙句、神様に反抗して罪をくりかえします。子供ならまだしも、充分大人ですから、
もっともらしい罪の言い訳も用意できるので、余計に厄介です。でもこんな厄介な
私達から、キリストは逃げ出さないで、私達の前に留まります。そして私達が神様
の愛につながれることを、キリストは待望し続けます。「待望」とは、希望を持って
待つことです。つまりキリストは私達について、希望を捨てないのです。これが、
十字架のキリストから、すべての人に向かって差し出されている神様の愛です。
十字架のキリストから、あなたに差し出されているアガペーの愛です。
 これほどまで愛されているのを知ったら、「参りました。私の負けです」と白旗を
あげ、素直に神様の愛をいただくしかありません。固く閉じていた心の扉を大きく
開いて、神様の愛を受け入れて、心の中に宿っていただきましょう。やがて神様の
愛は働きだします。私達は、神様の愛が自由に働くのをジャマしないようにすれば
いいのです。神様の愛が大いに働くために、自分の体や時間が求められるならば、
喜んで自分自身を差し出して、神様の愛の働きのために、用いていただきましょう。
キリストがご自分の利益を求めることなく、ご自分のすべてを献げて私達を愛して
くださったように、私達も自分の利益を求めず、キリストの後についていきます。
そしてキリストが命じられた唯一の掟(私があなたがたを愛したように、あなたがた
も互いに愛し合いなさい。互いに愛し合うならば、それによってあなたがたが私の
弟子であることを皆が知るようになる。ヨハネ13:34-35)、この掟に私達はおのずと
従っていき、キリストの弟子とされていきます。
人は神様の愛を受けていることに目覚めると、今度はその愛で、互いに愛し
合う者とされていきます。でも目覚めの時は人によって様々です。何十年もかかる
場合もあるでしょう。だから神様の愛は、忍耐強いのです。忍耐強い神様の愛
アガペーの愛を、礼拝で受け取りましょう。難攻不落の家族や隣人から逃げ出さず、
神様が彼らを目覚めさせてくださることを信じて、希望をもって、家族また隣人を、
忍耐強く愛していきましょう。
私利私欲の無い神様の愛で愛するたびに、私達は傷だらけになります。でもその
傷は、十字架のキリストと同じ「愛するが故の傷」です。アガペーの愛に目覚めた
人は、傷ついても愛さずにいられません。その人の中で燃えているのは、十字架に
つけられても尚、私達を神様にとりなし祈り続けたキリストの愛だからです。

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