日本基督教団御殿場教会  United Church of Christ in Japan Gotenba church

愛は律法(りっぽう)を全(まっと)うする

説教

タイトル :「愛は律法(りっぽう)を全(まっと)うする」 
聖書   : ローマ13:8-10
年月日  :2020.11.1
 「互(たが)いに愛し合うことのほかは、誰(だれ)に対(たい)しても借(か)りがあってはなりません」。
これは、7節「すべての人々に対して自分の義務(ぎむ)を果(は)たしなさい」ということから
来ています。「果たすべき自分の義務を果たさずに、周(まわ)りの人たちに迷惑(めいわく)をかけて、
借りを作ったまま、知らん顔(かお)するな」ということです。「自分はそんなことはしてい
ない」と思っていても、気がつかずに、誰かに借りをつくっているかもしれません。
でも例外(れいがい)があります。「互いに愛し合う」ことです。互いに愛し合うことについて、
貸(か)し借(か)りの、この世(よ)の原理(げんり)は通用(つうよう)しません。互いに愛し合うのは、神様の恵みの
業(わざ)だからです。
「互いに愛し合うこと」について「私は愛されるばかりで人を愛することには
多くの借りがある」と思っている方もおられるでしょう。でも愛するとは、本来(ほんらい)、
神様の出来事(できごと)で、人の力(ちから)ではできません。「人を愛せるようガンバロー!」と思う
のは大切(たいせつ)ですが、それにはまず神様に信頼(しんらい)して「愛する力をタップリください」と、
いつも神様に祈(いの)り求(もと)めることが欠(か)かせません。「神様からの愛」をいただくことで、
初(はじ)めて神様の恵みの業、神様の出来事として「互いに愛し合う」ことが私達の中で
少(すこ)しずつ可能(かのう)になり、始(はじ)まってきます。
 その反対(はんたい)に「私は愛してばかりで多くの人に貸(か)しがある。多く愛してやったのに何の恩返(おんがえ)しもない」という方もあるかもしれません。これも「愛することは神様
の恵みの業であり、神様の出来事だ」と、いうことを忘(わす)れているために、起(お)きて
しまう「大いなる勘違(かんちが)い」です。
愛することができたのは「神様の恵みの業が、その人を通(とお)して現(あら)われた」の
であって、その人の手柄(てがら)ではない。むしろ自分の体を通して神様の愛、神様の恵み
の業が現われたことを心から喜(よろこ)び、神様に感謝(かんしゃ)することこそが、愛において最(もっと)も
ふさわしいことなのです。
 聖書で愛と言う時、それは「神様の愛・アガペー」です。私達が、私利(しり)私欲(しよく)を
忘(わす)れて、人を愛する時、愛の主導権(しゅどうけん)を、神様が握(にぎ)っておられます。私達では
なく、神様が主導権を握っておられる愛こそ、私達またすべての人に、求められて
いる愛です。人が愛の主導権を握ると愛と言いつつ、貸し借りの損得(そんとく)勘定(かんじょう)が必(かなら)ず
始まります。
 神様は愛です。神様が私達に求めておられることも愛です。だから8節後半で、
「人を愛する者は律法(りっぽう)を全(まっと)うしているのです」と言っています。律法を「神様
が求(もと)めて、願(ねが)っておられること」と言い換(か)えると分かりやすいでしょう。旧約聖書
には、多くの律法が出てきますが、すべての律法の基本(きほん)は、十戒(じっかい)です。十戒、主の
祈り、使徒(しと)信条(しんじょう)(教会にとって重要(じゅうよう)な三(さん)要文(ようもん))を書いたシートが席上(せきじょう)に用意(ようい)されて
います。十戒はユダヤ教の教(おし)えだから、教会で十戒を語るのはおかしいと言う方が
います。しかし教会の三要文に十戒があるのは、十戒を守(まも)って救われるためでは
ありません。キリストによって救われた私達が、神様のもの、神様の子供と
して生きる指針(ししん)、目印(めじるし)として十戒があります。
くりかえしますが神様が私達信仰者に求めておられるのは、愛することです。
そして十戒には、愛するための事柄(ことがら)が具体的(ぐたいてき)に書かれています。十戒の前半には、
神様を愛すること、後半は、隣人(りんじん)を愛することについてです。
 「人を愛する者は、律法を全(まっと)うしている」。全うするとは「完成(かんせい)させる、満(み)たす」
と言う意味(いみ)です。つまり人を愛する時に、神様が求めていることを満たしているの
です。
本来、神様も人も愛せない私達だけど、もし私達が人を愛せたとしたら、それは、
神様の愛が私達の中で働(はたら)いているからであって、その時、私達は神様の力に
よって律法を守れたことになります。勿論(もちろん)、常にすべての人を愛しているわけで
はないし、愛することに終わりはありません。神様から愛する力をいただけること
を信じて、ひたすら神様の愛を祈り求めながら、人を愛し続けることで、「愛」と
いう律法の完成に向(む)かって、今、私達は日々(ひび)、歩(あゆ)んでいる最中(さいちゅう)です。
従って私達にとって(愛をくださる神様を信じる)信仰と愛は、生涯(しょうがい)、切(き)り
離(はな)すことができません。というより生涯、私達の中で、信仰と共に愛が「律法
の完成、律法の全う」を目指(めざ)して、成長(せいちょう)していくのです。
 9節に、十戒の後半部分が記(しる)されています(正確(せいかく)には「偽証(ぎしょう)するな」が抜(ぬ)けている)。
ここをユダヤ教的(きょうてき)ではなく、教会的に言い直(なお)すと「キリストによってあなたは救わ
れ、神様に愛され、御国(みくに)を受(う)け継(つ)ぐ幸(さいわ)いな神の子供とされているのだから、あなた
は姦淫(かんいん)しないし、人を殺(ころ)さないし、人から盗(ぬす)まないし、他人(たにん)のものをむさぼること
もないよね」となります。パウロの時代にも、十戒を土台(どだい)に、人間関係についての
多くの律法や掟(おきて)がありましたが、それらは、皆(みな)、「隣人(りんじん)を自分のように愛する」、
この一言(ひとこと)に要約(ようやく)できます。そして「隣人を自分のように愛する」ことは、世の
終(お)わりに至(いた)るまで、キリスト者だけでなく、すべての人にとって、大切な課題(かだい)です。
 10節「愛は隣人に悪(あく)を行(おこな)いません」。神様から出た愛は、隣人に対して意図(いと)的(てき)に
だけでなく、無意識(むいしき)のうちにも、悪を行わない。自分の不利益(ふりえき)さえ忘(わす)れて、純粋(じゅんすい)に
隣人を愛することに徹(てっ)するし、没頭(ぼっとう)する。愛する時に、何の計算(けいさん)も入(はい)り込(こ)まない。
「愛は忍耐(にんたい)強(つよ)い。愛は情(なさ)け深(ぶか)い。ねたまない。愛は自慢(じまん)せず、高ぶらない。礼(れい)を失(しっ)せ
ず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨(うら)みを抱(いだ)かない」(1コリント13:4-5)。
神様の愛について語っている有名(ゆうめい)な箇所(かしょ)です。そしてこの神様の愛を、この世で
全うした唯一(ゆいいつ)のお方が、神様の御子イエス・キリストです。キリストは、過去(かこ)、現在(げんざい)、
未来(みらい)、すべての人の罪(つみ)が赦(ゆる)されるよう、ご自分を十字架で献(ささ)げ尽(つ)くしました。
それが神様から与えられたキリストの使命(しめい)でした。なぜキリストは、こんな使命を
果(は)たしたのか。罪(つみ)を犯(おか)さずには生きられない愚(おろ)かな人間を、神様が憐(あわ)れみ、愛して
おられることを、キリストは知っていたからです。父なる神様とキリストは、1つ
だからです。だからキリストもまた、私達の愚かさを知りながら、神様と同じ様(よう)に
愛することを止(や)めなかった。十字架で、ご自分のすべてを使(つか)い果たしても、私達を
愛することを止めなかった。それなのに私達は、ずっと神様の愛にも、キリストの
愛にも気づかなかった。昔(むかし)から変わることなく私達を愛しておられるのに、神様も
キリストも「あなたたちには、大きな貸(か)しがあるよ」とは、一言も言わなかった。
私達が、神様とキリストから愛されていることに気づくまで何年も、何十年も、待(ま)ち
続(つづ)けてくださった。「愛は忍耐(にんたい)強(つよ)い。愛は情(なさ)け深(ぶか)い。愛は自慢(じまん)せず、高ぶらない」。
 神様は愛です。キリストも愛です。神様もキリストも、私達に悪を行いません。
私達が愚か者だと知っているのに、私達に悪を行うどころか、もったいないとか、
ムダだとか思うこともなく、昔も今もこれからも、私達に最善(さいぜん)の愛を注(そそ)ぎ続けて
くださいます。私達に注がれている愛の中でこそ、すべての律法が全うされ、
完成され、満たされています。そしてこの愛を体験(たいけん)する時、私達は変(か)えられ
ます。
 「私が来たのは、律法や預言者(よげんしゃ)を廃止(はいし)するためだと思ってはならない。廃止する
ためではなく、完成するためである」(マタイ5:17)。
このキリストの言葉の通り、全生涯(ぜんしょうがい)が神様の愛で貫(つらぬ)かれていたキリストこそが、
この世において律法を全うし、完成させました。キリストを通して私達に注がれる
神様の最善の愛を体験することで、私達は「キリストに倣(なら)う者」になりたいと願(ねが)い、
「キリストを信じる者」「キリストに従(したが)う者」へと変えられていきます。それは、
キリストから愛を分けていただきながら、愛するために生きていくことであ
り、神様が最(もっと)も喜(よろこ)ばれることだから、「愛するという神様が望まれること・
律法をみずから望(のぞ)んで、全うしていきます。
 従(したが)って「キリスト者、信仰者」とは「愛して生きる者だ」と言い換(か)えられます。
1度きりの人生を、どう生きるのか。憎(にく)しみや怒(いか)りで、人生を満たしてしまうのか。
それでは余(あま)りに勿体(もったい)ない。1度きりの人生が「聖なるもの、尊(とうと)いもの」となるよう、
私達は神様に招(まね)かれて、今、ここにいます。礼拝で、神様が与えてくださるのは、
キリストです。神様の愛そのものであり、神様の愛が充満(じゅうまん)しているキリストです。
説教を聴(き)くことで、また聖餐(せいさん)に与(あずか)ることで、私達はキリストを全身(ぜんしん)全霊(ぜんれい)にいただき
ます。そしてキリストご自身を私達の人生に全面的(ぜんめんてき)に迎(むか)え入(い)れ、圧倒的(あっとうてき)な愛の力で
私達が抱(かか)えるすべての憎しみや怒りが飲(の)み尽くされ、人生が愛によって満たされ、
全うされるのを切(せつ)に願います。否(いな)、自分の人生だけではなく、あらゆる人の人生が
愛で満たされて、愛によって全うされるのを、世界中の人と手を取(と)り合って、躍(おど)り
上がり、喜び、祝(いわ)いたい。
 そのためにも「私が来たのは、愛することを完成するためである」と言って
くださるキリストと共に、キリストに満たされながら、まずは自分の目の前にいる
1人1人を愛するため、礼拝から世に向けて、今、私達は遣(つか)わされて行きます。

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