日本基督教団御殿場教会  United Church of Christ in Japan Gotenba church

愛の言葉

説教

タイトル :「愛の言葉
聖書   : ルカ23:32-43
年月日  : 2018-8-6
特記事項 : 合同礼拝  
礼拝後、富士教会との合同キャンプに出かけます。今年のテーマは「聖書・愛の
言葉」です。そこで神様の愛の言葉が明らかにされている箇所として、イエス様の
十字架の箇所を選びました。
イエス様は2人の犯罪人と一緒に十字架につけられます。イエス様は死刑判決を
受けてから、ローマ兵にムチ打たれて、肉は裂け、全身血まみれになっています。イエス様には何の罪もありませんが、ユダヤ人の妬み、憎しみによって死刑判決を
受けて、最も残酷な処刑と言われていた十字架につけられます。イエス様の手足が
ガツン、ガツンと十字架の太い木にクギづけにされました。そして2人の犯罪人の
真ん中には、イエス様の十字架が立っています。「真ん中いる者が一番の大罪人だ」
と言わんばかりの「見せしめ」なのでしょう。
イエス様を十字架につけたローマ兵たちは、仕事が一段楽したので、イエス様の
服を誰がもらうか、くじ引きで遊んでいます。彼らが十字架にクギづけにしたのは、
神様の独り子なのに、ローマ兵たちは、全く知らん顔です。また十字架につけられ、
苦しみに顔をゆがめるイエス様の姿を、大勢の群集が見ていました。その中には、
一週間前、イエス様がエルサレムの町に入った時、「ホサナ、ホサナ、ダビデの子」
と小躍りしてイエス様を迎えた人たちもいたかも知れません。でも人の心は簡単に
変わります。悲しいことに良い方に変わるのではなくて悪い方に、神様とは正反対
の方に、人の心は、いとも簡単に変わってしまいます。ユダヤ人の議員も、群集に
混ざってイエス様をあざ笑いながら言いました。
「他人を救ったのだ。もし神からのメシアで選ばれた者なら、自分を救うが良い」。
 ユダヤ人の議員も、イエス様が多くの病人を癒したり、悪霊を追い出して救った
出来事を見聞きして知っていました。「それほど偉大な力を神からもらっているなら、
まず十字架につけられている、みじめな自分を救ってみろ。十字架から降りてきて、
自分が本物のメシア、救い主だと言うことをここで証明して見せろ」と言いながら
イエス様をあざけり、ののしっていました。イエス様をあざ笑っていたのはユダヤ
人だけではなく、ローマ兵たちも同じです。
 イエス様の十字架には「これはユダヤ人の王」と書いた札が掲げてありました。
そのため兵士たちは「お前がユダヤ人の王なら、自分を救ってみろ」とイエス様を
侮辱して、ののしっていました。人々の悪意と憎しみ、軽蔑に満ちた、ののしりの
言葉が鋭い弓矢のように、イエス様の全身に突き刺さります。しかしそんな群衆の
混乱と狂気の中で、イエス様だけは十字架につけられたまま祈っておられました。
 「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」。
イエス様の祈りは、自分が救われるため、十字架から逃れるための祈りではありま
せんでした。イエス様を十字架につけ、ののしり、あざ笑っている人々が救われる
ようにと、父なる神様にとりなして祈っておられたのです。
「自分が何をしているのか、知らないのです」。
私達は新約聖書を読んでいますから、十字架につけられているイエス様が神様の
御子であり、真の救い主・メシア・キリストだということを知っています。しかし
本当に私達は、日頃、自分が何をしているのか知っているのでしょうか。「自分は、
日頃、イエス様に群衆がしたようなことはやらない」と言い切れるのでしょうか。
群衆は何の畏れも疑いも持たずに、神様の御子をあなどり、ののしっていました。
マルコ福音書などには、群衆の中に祭司長や律法学者と言ったユダヤ教の指導者が
いたと書いてあります。神様に関する専門家が、イエス様をののしっていたのです。
でもイエス様は、彼らを含めて群集が「何をしているのか、知らない」ことを、
ご存知でした。「自分が何をしているのか知らない人は、神様への畏れがない
こと」を、イエス様はご存知でした。それでは新約聖書を読み、イエス様が神様
の御子と知っている私達は「神様を畏れない」ことと無縁でしょうか。私達が
恐れるのは、自分が恥をかくこと、傷つくこと、損することではないでしょうか。
聖書を読んでいるにもかかわらず、私達の心の真ん中にあるのは、神様への畏れ
敬いではなく、自分の損得、自分の都合です。聖書を読み、イエス様を知っている
のに、私達の心の中心にイエス様がいない。イエス様への畏れ敬いがない。私達に
ご自分の御子を送ってくださった神様への畏れ敬いがない。神様を忘れて、自分の
ことを最優先にして生きている。聖書を読んでいても、これが私達の現実の姿です。
明日6日は広島に原爆が投下され、10数万人の一般市民の命が奪われた日です。
また金曜の新聞のテレビ欄に、旧日本軍731部隊の特集が載っていました。若い頃
「悪魔の飽食」(森村誠一著)という本で、731部隊が中国人に人体実験を行い、虐殺
していたのを知って愕然としました。罪のない人、罪のない国なんか一つもない。
どの国も大罪を犯しています。これまでも人は、神様への畏れを忘れて、人間性を
完全に失って堂々と罪を犯して来たし、今も、これからも罪を犯し続けるでしょう。
だからこそイエス様は、十字架につけられながら、とりなし祈っているの
です。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか、知らない
のです」。2000年前の群集のためだけでなく、過去、現在、未来。神様への畏れを
持たずに、自分が罪を犯していることさえ知らないすべての人のために、十字架の
イエス様は、父なる神様にとりなして、祈っておられました。そして人が犯
した罪の全責任を誰にも押しつけずに、イエス様が全部ご自分で引き受けて
くださいました。それは私達を愛しているからです。私達を愛しているから、
イエス様は、私達を罪から救い出し、神様と共に生かしたいと切に願って、
神様にとりなし祈ってくださるのです。
「死に方は、生き方に通じる」。西日本の集中豪雨で人命救助の最中、亡くなった
警察官がおられました。「死に方」の中に「人の生き方」が現われるように思います。
十字架につけられて、ののしられながらも尚、人々の罪をとりなし祈っておられた
イエス様がそうです。神様を畏れることを知らず、自分が何をしているのかも知ら
ない、そんな罪人が赦され救われるため、イエス様はご自分の命を十字架で手離す
ことを受け入れました。罪人をとりなして祈り、死ぬことで、イエス様はすべての
人に、「赦しの道、救いの道」を拓きます。すべての人を愛しているからです。
十字架につけられ、ののしられても、イエス様は人々を呪いません。イエス様は
自分をののしる人々を呪うのではなく、罪が赦されるよう神様にとりなし祈ります。
だからイエス様が人々のために祈ったとりなしの祈りは、「愛の言葉」です。
でもイエス様の愛の言葉は、群集(ぐんしゅう)の罵声(ばせい)にまぎれてしまいます。イエス様の隣で
磔(はりつけ)になっていた1人の犯罪人も、群集と一緒になって「お前はメシアではないか。
自分と我々を救ってみろ」と叫んでいます。イエス様はメシア・救い主だからこそ、
罪人を救うため、神様に今、とりなし祈っておられるのに、それにも気づきません。
イエス様はくりかえし、人々をとりなして祈っておられたはずです。そのつぶやく
ような、かすかな声を、磔にされていたもう1人の犯罪人は聞いていたようです。
 「この人は本当にメシアかもしれない。苦しみと恥の中でも、敵のために祈って
いる。自分をののしる者のために祈っている。ありえないことだ。この方こそが、
私達を救ってくださるメシアに違いない。私はメシアにお会いできたんだ」。
イエス様の愛の言葉を聞いた時、彼の中に、神様への畏れと救いの希望が
与えられました。「この方なら私の救いのためにも、きっと祈ってくださる」。
彼は唯一の命綱を必死に掴むように、イエス様を求めて言いました。「イエスよ
あなたの御国においでになる時には、私を思い出してください」。
するとイエス様は、数時間前、十字架につけられ隣にいただけの彼の方を向いて
「はっきり言っておくが、あなたは今日、私と一緒に楽園にいる」と、何の
条件もつけずに、イエス様に救いを求めた男に約束しました。メシア・イエス様が
一緒にいてくださるところが楽園です。「主の名を呼び求める者は誰でも救われる」
(ローマ10:13)と言う通り、死の間際でも、犯罪人でも、イエス様は救いを渡します。
「あなたは今日、私と一緒に楽園にいる」。これもイエス様の大胆な愛の
言葉です。聖書はイエス様を証しするものであり、イエス様は「愛の言葉
そのものです。しかも罪人と死の苦しみを共にしながら罪を赦すだけでなく、
尚、楽園にまで引き上げてくださる「永遠に失われることのない神様の愛
言葉」です。
 そしてイエス様の「愛の言葉」を聴いた人の中に、悔い改めが始まります。
今までの自分中心の生き方から「神様を畏れ敬い、神様に立ち帰る生活」へ
方向転換(悔い改め)が始まります。
愛の言葉は生きているから、これを聴いた人は「イエス様と生きる新しい人」と
され、愛の喜びと希望と共に歩み出します。

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