日本基督教団御殿場教会  United Church of Christ in Japan Gotenba church

愛と平和の神

説教

タイトル :「愛と平和の神」 
聖書   : 第2コリント13:11-13
年月日  : 2016-8-7

 第2コリント10~13章は「涙の書簡」とも呼ばれています。文字通りパウロが
涙を流しながら、コリント教会を思いつつ書いた手紙です。この手紙を受け取った
コリント教会は、自分達の過ちに気がつき、悔い改めて、パウロと和解しています。
和解後の手紙は1:1-2:14 と7:5-13だろうと言われています。従って順番としては
前後していることになります。パウロがコリント教会に書き送った何通もの手紙の
断片を、後の編集者たちが組み合わせて、今の第2コリントの手紙としたわけです。
その第2コリントの最後、「涙の書簡」の最後が、13:11-13です。直前の13:10と
比べると、パウロの言葉使いが若干、穏やかになっているように感じられます。
 コリント教会は、パウロが手がけて生まれた教会ですが、やがて外から異端的な
信仰が持ち込まれて、パウロやパウロが語った正しい信仰にも疑いをもち始めて、
教会は分裂状態にありました。パウロが、あの手この手を尽くした後に書き送った
「涙の書簡」の結びは、「終わりに、兄弟たち」と言う呼びかけで始まっています。
 コリント教会は、どんだけパウロに心労をかけ、パウロが差し出したキリストの
救いを、乱暴に踏みつけ、拒んできたことか。それでもパウロは、コリント教会を、
「兄弟たち」と呼びかけて言います。
「誰かが弱っているなら、私は弱らないでいられるでしょうか。誰かがつまずく
なら、私が心を燃やさないでいられるでしょうか」(第2コリント11:29)
信仰的に深く病み、教会と言う共同体が、今にも崩壊する危機的状況にあるのを
知れば知るほど、パウロはコリント教会を、どうしても見捨てることが出来ません。
心を燃やさずには、いられません。そしてコリントにいるキリストの兄弟姉妹に、
パウロは語りかけています。
「喜びなさい。完全な者になりなさい。励ましあいなさい。
思いを1つにしなさい。平和を保ちなさい。
そうすれば、愛と平和の神が、あなたがたと共にいてくださいます」(13:11)。
 「うれしくもないのに、作り笑いをして喜べ」と言っているわけではありません。
教会の頭(かしら)キリストに招かれ、「あなたが自分の中に見つけ出した罪はすべて、
十字架に置いて行け。私が全部、きれいに処分する。あなたの罪は赦されている。
だから赦されていることを信じて、あなたは安心して行きなさい」とキリストから
宣言されています。神様から無条件で愛されて、キリストと同じ神様の子供、天の
国の相続人とされています。神様が「死を越えた命と体」を与えようと、用意して
おられます。頼りない自分が永遠に神様のものとされており、神様によって守られ、
支えられ、救われています。これを知ったら、うれしくて躍り上がり、歓喜の声を
はりあげて、喜ばずにはいられません。
でも何年も教会に来て、礼拝を守りながら、これらを信じられず、実感できず、
喜べなかったら、信仰の警報が鳴っている証拠です。礼拝後、教会から喜んで出て
くるのではなく、暗い顔をして出てきたら、救われた喜びはどこにあるのでしょう。
教会の周りの人たちは、ちゃんと見ています。暗い顔をして出てくる教会に、誰が
行きたいと思うでしょう。だからパウロは互いにいがみ合っているコリント教会に、
救いの喜びが回復することを願って「喜びなさい」と言うのです。
 「完全な者になれ」とは「何一つ落ち度のない完璧な人になれ」と言うことでは
ない。「完全になる」とは「整頓する、直して回復する、ふさわしいものにする」と
言う意味です。コリント教会と言う「キリストの体」に集められた人々は、御心の
もとに1つになって生きる必要があります。それなのに、キリストの体の各部分で
ある人々がバラバラになって、キリストの体をバラバラにしています。それゆえに
「キリストの体として、1人1人の信仰がふさわしく整えられ、回復させてもらい
なさい」と、パウロは言っているのです。そのためには、キリストの体の一部分と
されている人々が、お互いの信仰を励まし合い、慰め合うことが求められて来ます。
「励ます」の元々の意味は、「そばに呼び寄せる」。そこから「そばに呼ばれた者・
慰め主・聖霊」と言う言葉が出てきます。疲れ果て、座り込む人のそばに寄り添い、
「慰め主・聖霊」の助けを祈り求めて、励まし合い、互いの信仰をふるいたたせて
いく共同体。それが教会です。
 だから教会は、神様から呼び集められた人が、バラバラのままでは成り立たない。
一匹狼の教会もありえない。それぞれの思いが1つにされることが欠かせません。
では何によって、教会にいるそれぞれの「思いが1つに」されていくのか。
世間には、大規模の教会もあります。しかしどんなに多くの人がいたとしても、
イエス・キリストを共に救い主として信じて仰ぎ、仕える信仰によって一致
することで、皆の思いが1つにされて行きます。
無条件ですべての人を愛する唯一の神様の言葉に共に聴いて、愛をもって
応答する信仰によって一致することで、皆の思いが1つにされて行きます。
教会の中心にキリストがおられ、神様の愛の御言に、それぞれが喜び仕える
ことによって、「キリストの体の一致」が、具体的に現われて来ます。
キリストを中心に、「キリストの体・教会」の一致に仕えて、参加していく中で、
「キリストの一部・教会の枝」として1人1人が成長します。そしてそのことが、
教会の「平和を保つ」ことへと、つながって行きます。
11節に「平和」と言う言葉が2度、出てきます。何度も言いますが、聖書で言う
「平和」とは、戦争がないことだけでなくて、「キリストによって神様と和解させて
いただき、神様に救われている恵み」のことです。
それぞれが、「キリストによって神様に救われている信仰」で思いを1つにして、
「平和・神様の救いの恵み」を保っているなら「愛と平和の神様が、あなたがたと
共に、教会と共に、いてくださるはずだ」と、パウロは言います。
私達は皆、異なっていて、お互いに受け入れ難く思っています。でもそれ以上に
全く異なり、全く受け入れ難いのは、神様と罪ある私達の関係です。
しかし愛は全く異なっている両者を、1つに結び合わせます。神様にとって
異物でしかない私達を、ご自分の中に受け入れて、共に生きていくことを、
愛は赦します。全く異なる同士の中に一体性を作り出せる。これが愛の神様
です。 
そして平和の神様も、敵対する者の中に、和解の一体性を作り出します。
またお互いの敵意を和解させることで、命の救い、命の平和をもたらします。
分裂をくりかえすコリント教会ですが、愛と平和の神様が、コリント教会と共に
いてくださることで、互いの違いや敵意を越えた「教会の一体性」が、新しく作り
出されていくことを、パウロは願っています。
さらに愛と平和の神様が、コリント教会と共にいてくださることで、教会の一人
一人が分裂することなく、キリストの体の中で1つになり、キリストの体の奥深く、
キリストの命の水脈に届くまで共に根を降ろし、命の救いを得ることを、パウロは
強く願っています。
こうした教会の一体性を、言葉だけではなく、体を使って具体的に示すために、
聖なる口づけで互いに挨拶するよう、コリント教会に勧めています。
海外の教会で聖餐式の後、周りの人がお互いに頬を寄せてハグする場面に出会い
ました。初めてのことで、私は握手だけで精一杯でしたが、これは大切なことだと
思いました。パンを食べ、杯は回し飲みでした。アジア人は、私1人だったと思い
ますが、そこではあらゆる垣根が取り壊されて、キリストによって共に赦され、
和解を受け、神様の家族とされていると言う一体感、親しい交わりがお互い
の体を通して、具体的に現わされていました。
同様に、キリストに赦され、神様の家族とされた「聖なる者」たちが、パウロと
共にコリント教会に挨拶を送っています。コリント教会を見捨てないのは、パウロ
だけでなく、他の信仰者も同じであり、コリント教会のために共に祈る家族です。
「涙の書簡」の最後は、祝福で閉じます。罪人を十字架の血で清めて、神様と
和解させてくださったキリストの恵み。そのために、ご自分の御子さえ惜し
まず、世に遣わされた神様の無条件の愛。父、子、聖霊と言う神様の共同体
の中に人々を導いてくださる聖霊の交わり。「キリストの恵み、神様の愛、聖霊
の交わり」がコリント教会に属するすべての人と共にあるようにと、パウロは祝福
します。
父、子、聖霊の神様の交わりは、ちょうど輪になって踊るダンスのように、
互いに調和しつつ、一体になっている愛と平和の交わりです。この愛と平和の
神様の交わりの中に、パウロを中傷し非難してきたコリント教会が招かれることを、
パウロは切に願い祝福するのです。そして私達も神様につぶやきますが、それにも
かかわらず、神様から祝福され、愛と平和の神様の交わりの中に招かれています。
最後にルカ福音書から、キリストの言葉をお聞きください。
「悪口を言う者に、祝福を祈りなさい」(ルカ6:28)

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