日本基督教団御殿場教会  United Church of Christ in Japan Gotenba church

忠実(ちゅうじつ)な大祭司(だいさいし)

説教

タイトル :「忠実(ちゅうじつ)な大祭司(だいさいし)
聖書   : ヘブライ2:14-18
年月日  :2020-12-6

ヘブライ人への手紙は1世紀(せいき)後半(こうはん)、迫害(はくがい)が激(はげ)しかった最中(さなか)に書かれたといわれて
います。「迫害に苦(くる)しむ信仰者が次々(つぎつぎ)と信仰を捨(す)てて、逃(に)げ出して行く中で、なおも
信仰に踏(ふ)みとどまるのは、なぜか。そこにはどんな意味(いみ)、どんな価値(かち)があるのか。
自分の命や生活を守る方が、信仰を守ることより大切じゃないか」。そんな思いが、
信仰者を悩(なや)ませていたはずです。
13節最後で「神が私に与えてくださった子らがいます」と言っています。「私」
とは救い主であるイエス様のことであり、神様が与えた「子ら」とは、私達のこと
です。
子らと呼ばれる私達は14節で言う通(とお)り、血(ち)と肉(にく)を備(そな)えています。この世で生きる
ために必要(ひつよう)な体(からだ)、けれども悪魔(あくま)の誘惑(ゆうわく)に弱(よわ)く、時間(じかん)と共(とも)に衰(おとろえ)え、朽(く)ちていく体が
私達にはあります。私達人間は最初の人アダム以来(いらい)、命の源である神様から勝手(かって)に
離(はな)れて、罪と死の滅(ほろ)びの中に閉(と)じこめられているからです。いわば自業自得(じごうじとく)です。
にもかかわらず神様の御子(みこ)イエス様が、私達を救うため、私達と同じ姿(すがた)になられた。
しかも全(まった)く無力(むりょく)で、無防備(むぼうび)な幼子(おさなご)の姿で来られた。これが、救い主イエス様がこの
世に現(あら)われてくださった最初(さいしょ)の姿です。
こんな面倒(めんどう)なことをしないで、眩(まぶ)しい栄光(えいこう)に輝(かがや)く御子の姿で現われたら、迫害(はくがい)も
反論(はんろん)もなく、皆がイエス様の言葉に聞き従(したが)ったはずです。それなのに、イエス様が
あえて私達と同じ弱(よわ)さを背負(せお)い、同じ血と肉を受(う)け取(と)ったのは、なぜか。
14節「イエスもまた同様(どうよう)にこれらのものを備(そな)えられました」。ここを直訳(ちょくやく)すると、
「彼ら(人間)のものを、彼(イエス様)は同じように、分(わ)かち合(あ)った」となり
ます。
もし子供が氷(こおり)の張(は)った冷たい池(いけ)の中に落(お)ちたら、無我夢中(むがむちゅう)で私達は池の中に飛(と)び
込(こ)みこむでしょう。同様にイエス様は人間を救いたいから、どんな深(ふか)い闇(やみ)や死の中
でも入って来て、追(お)いかける。そして私達と同じ所に来てくださる。私達と同じ
苦しみ、弱さを分かち合い、私達のすべてを味(あじ)わい知ってくださいます。
それだけじゃない。イエス様が、私達と同じ姿となられて、私達と同じ所に
来てくださるのは、すべての人間の前に立ちはだかり続ける最強の敵(てき)・罪と
死の力、また悪魔(あくま)の力を、ご自分の体に引(ひ)き受(う)けて滅(ほろ)ぼし、長く敵の奴隷(どれい)と
なって、死の恐怖に怯(おび)えていた私達を、敵の手から取り戻(もど)して解放(かいほう)するため
です(14-15節)。
しかもイエス様が助けようとするのは、助け甲斐(かい)のある者たちではありません。
16節「確かに、イエスは天使たちを助けず、アブラハムの子孫を助けられるのです」。
イエス様が助けるのは、天にいて神様に仕(つか)える天使ではなく、アブラハムの子孫(しそん)、
つまり罪深(つみぶか)い人間たちです。自分をふくめ、滅(ほろ)ぼされても文句(もんく)の言えない私達人間
です。そして「助ける」と訳(やく)されている言葉の元々(もともと)の意味(いみ)は「獲得(かくとく)する」です。
私達を救い、私達を助け、私達を神様のもの、イエス様のものとして獲得
するために、傷(きず)つくことも、死ぬこともない神様の御子が、私達と同じ人の
姿になり、しかも弱く小さな幼子となって、この世に誕生されたのです。
世間(せけん)のクリスマスの華(はな)やかさとは、全(まった)く異(こと)なるイエス様の姿があります。私達に
寄(よ)り添(そ)い続(つづ)けながら、どんな痛(いた)みや苦しみ、死の恐怖(きょうふ)の中でも、イエス様は私達を
手(て)離(ばな)さない。誰よりも1番弱く貧(まず)しく、みじめになりながら、それでもイエス様は
ご自分の命と体をはって、私達のすべてを温(あたた)かく抱(だ)きとめ、助けてくださいます。 
罪と死、悪魔、恐ろしい敵を前にしても、イエス様はいつも私達の先頭(せんとう)に立ち、
私達を「神様のもの、イエス様のもの」として獲得するために、両手(りょうて)を大きく広
げてくださっています。クリスマスを迎(むか)える前に、私達と共にいてくださるイエス
様の姿が、礼拝(れいはい)毎(ごと)に鮮明(せんめい)にされることを切(せつ)に願(ねが)います。このイエス様を、ヘブライ
書は何と言っているか。17節です。
「それでイエスは、神の御前(みまえ)において憐(あわ)れみ深(ぶか)い、忠実(ちゅうじつ)な大祭司(だいさいし)となって、民の
罪を償(つぐな)うために、すべての点で兄弟たちと同じようにならねばならなかったので
す」。
 イエス様は罪を除(のぞ)いて(神様の御心(みこころ)に背(そむ)くことを除いて)私達と同じ者となられた。
だから空腹(くうふく)にもなるしケガもする。悪魔に誘惑されて揺(ゆ)さぶられる。神様の御子の
ままならありえないのに、イエス様は体を持つ生身(なまみ)の人間が持っている重力(じゅうりょく)を
背負(せお)ったまま、しかも過去(かこ)、現在(げんざい)、未来(みらい)、すべての人の罪を背負ったまま、自分の
ものではない、他人(たにん)の罪を背負った不自由(ふじゆう)さのまま、神様に対(たい)して形だけ、うわ
べだけではなく、最(もっと)も憐(あわれ)れみ深い「忠実な大祭司」になることが、イエス
様の使命(しめい)でした。それが、父なる神様から与(あた)えられていたイエス様の使命でした。
 祭司というのは、民が犯(おか)した罪の赦(ゆる)しを求め、神様にとりなします。罪は神様と
民の関係(かんけい)を断(た)ち切(き)ります。だから祭司は、神様と民を再(ふたた)び結(むす)び合わせ、和解(わかい)させる
ために、動物の命を祭壇(さいだん)で献(ささ)げます。祭司は、命と引(ひ)き換(か)えに神様に罪の赦しを、
祈り求めるのです。これまで無数(むすう)の動物の命が献げられてきました。しかし完全(かんぜん)な
赦しには至(いた)りませんでした。
だから完全な罪の赦しのため、完全な罪の償(つぐな)いのため、神様の御子の命が
献げられる必要があった。すべての人の罪を完全に清算(せいさん)して、神様との和解
を揺(ゆ)るぎないものとするために、十字架の祭壇で、動物の命ではなくて、神
様の独(ひと)り子の命、唯一(ゆいいつ)であり、究極(きゅうきょく)の尊(とうと)い命が献げられる必要があった。
 そのために、イエス様は神様の御子ですが、「すべての点で兄弟と同じように」
なられて、すべての人と徹底的(てっていてき)につながり、すべての人とガッチリ連帯(れんたい)しました。
そして十字架で、ご自分の命、ご自分のすべてを献げつくしたイエス様は、すべて
の人にとって、また神様の目からも、最(もっと)も憐れみ深い大祭司となられました。
 更(さら)にイエス様が神様の御子の姿のままでなく、すべての点で私達と同じ姿になり、
事前(じぜん)に逃(に)げることもできたのに、十字架の死を避(さ)けませんでした。十字架で死んで
「最も神様に呪(のろ)われて、神様から最も遠(とお)くに捨(す)てられた者」となる恥(はじ)と苦しみ
を、イエス様があえて受けられたことは、神様に対する、イエス様の徹底(てってい)した
従順(じゅうじゅん)と忠実さを現(あら)わしています。
イエス様の十字架の死があったから、十字架で献げられたイエス様の命によって、
アダム以来(いらい)ずっと破綻(はたん)していた神様と人間との絆(きずな)が、ようやく固(かた)く結(むす)ばれました。
何をしても人の力では決して償(つぐな)いきれない罪の負債(ふさい)(莫大(ばくだい)な借金(しゃっきん))を、イエス様が
十字架の上で、ご自分の死と引きかえに完全に清算(せいさん)して、償ってくださいました。
そしてついに神様と人間との和解、神様と人間との平和が、成(な)し遂(と)げられま
した。このような大祭司は、今まで1人もおられませんでした。私達と同じ人とな
られた神様の御子、イエス様お1人だけです。
だからイエス様は、神様の御前(みまえ)にも、またすべての人にとっても、憐れみ
深い、忠実な大祭司なのです。
 「事実(じじつ)、ご自身(ごじしん)、試練(しれん)を受けて苦しまれたからこそ、試練を受けている人たちを
助けることが、おできになるのです」(18節)。
 初めに、ヘブライ書は迫害が激しかった時に書かれたと言いました。ヘブライ人
とは簡単に言うと、ヘブライ語を話すユダヤ人で、その多くはユダヤ教徒でした。
パウロもそうでしたが、キリスト者となった彼らは、ローマ帝国からも同胞からも
日々、迫害されていました。そんな苦しみをイエス様は知っており、助けることが
できると18節は言っています。
十字架で「最も呪われた者、神様から最も遠くに捨てられた者」となって死んだ
忠実な大祭司イエス様は、私達のあらゆる苦しみを知っており、今も生きておられ
ます。「誰にも言えない私の苦しみを、イエス様は分かっていてくださる」。
それだけではない。それだけでは終わりません。十字架の死から復活なされた
イエス様は、あらゆる人の苦しみを知っているからこそ、どんな苦しみの
只中(ただなか)にいる人たちにも寄(よ)り添(そ)うことができて、1人1人を復活の命の中に導(みちび)
き入れて、力強(ちからづよ)く救うことができるのです。
 人となられたイエス様の体には人が体験(たいけん)した、また体験するであろう、すべての
苦しみが刻(きざ)まれています。しかもその苦しみはイエス様が死から復活したことで、
すべて乗(の)り越(こ)えられています。
イエス様に乗り越えられない苦しみ、助けることができない苦しみなど、
1つもない。このイエス様が私達の味方(みかた)となってくださるために、この世に
生まれてくださいました。このことに私達は信頼(しんらい)して良い。神様の御子が、
人となられたクリスマスという救いの出来事(できごと)に、信頼して良い。
私達のすべての苦しみが、イエス様に知られており、イエス様によって、
既に乗り越えられていることに、全面的(ぜんめんてき)に信頼して良い。
そしてすべての苦しみを味わいつくし、乗り越えておられる忠実な大祭司
イエス様の体の各部分(かくぶぶん)となるように、私達は招(まね)かれており、イエス様の体の
中に互いに組(く)み込まれ、支(ささ)えられていることに、固(かた)く信頼して良いのです。   

最後に、フィリピ2:6-9をお読みします。
 「キリストは、神の身分(みぶん)でありながら、神と等(ひと)しい者であることに、
固執(こしつ)しようとは、思わず、かえって自分を無(む)にして僕(しもべ)の身分になり、
人間と同じ者になられました。人間の姿で現われ、へりくだって死に
至(いた)るまで、それも十字架の死に至るまで従順(じゅうじゅん)でした。このため、
神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名を、お与(あた)えになりました」。
 

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