日本基督教団御殿場教会  United Church of Christ in Japan Gotenba church

心と言葉

説教

タイトル:「心と言葉」 
聖書  : マタイ福音書12:33-37         
年月日 :2010-5-2

イエス様は山上の説教で「すべて良い木は良い実を結び、悪い木は悪い実を結ぶ」と言っておられました(マタイ7:15-20)。ここでも同じ内容がくり返されています。
 「木が良ければ、その実も良いとし、木が悪ければ、その実も悪いとしなさい。木の良し悪しは、その結ぶ実で分かる」。
 この言葉は、イエス様を憎み、殺そうと企むファリサイ派に向けたものでした。
彼らは自分たちの正しさしか認めません。だからイエス様が悪霊を追放して病人を癒した時も、それが神の力による癒しだとは認めずに、悪霊の頭ベルゼブルの力で行ったと決めつけ、イエス様に非難の言葉を投げつけています(12:24)。
 しかし彼らの非難は全くの的外れです。的外れなだけでなく、イエス様を通して働いた力、霊である神様を侮辱して冒涜するものでした。そんな彼らをイエス様は
「マムシの子らよ」と呼び、「あなたたちは悪い人間であるのに、どうして良いことが言えようか」と言っています。
「良いこと」とは、「神様の御心にかなう正しく、真実なこと」と言う意味です。「神様が喜ばれる良いこと」です。でも悪い木が良い実を結べないように、イエス様を殺そうと企む彼らが、神様に喜ばれる良いことを言えるはずがありません。
「人の口からは、心にあふれていることが出てくるのである」。
心の中にあるものが、その人の言葉となって、口から飛び出します。だから人の言葉は、「その人の心が結んだ実」です。木とその木が結ぶ実が同じであるように、心とその心から出てくる言葉も同じです。心に思うことは、自然に言葉に表れるという意味で、「言葉は心の使い」と言う日本のことわざもあります。
私達の心の中にあるものが、日頃の行いだけでなくて、何気ない言葉にも表れてしまうというのは、残念ですが本当のことです。行いだけでなく、使う言葉もその人の本質を映し出します。勿論、本音を隠して、上辺をつくろうことはできます。しかし上辺をつくろって口から出るのは、まさに「心にもない言葉」です。
神様の「光あれ」と言う言葉と共に光が現われたように、聖書で言う「言葉」は、出来事を意味しています。「言葉は力を持ち、出来事を起こす」。このことは、神様の言葉に、一番良く象徴されています。神様の言葉が、その口から発せられる時、無の中から天地万物が生み出され、キリストを死者の中から立ち上がらせ、永遠の命の中に復活させます。地上の墓に埋葬されたキリストを、天におられるご自分の右に座らせます。神様の言葉は力であり、出来事そのものです。それゆえ、聖書に記された神様の言葉は、必ず実現します。人が思いもよらぬ時、思いもよらぬ形で、神様の言葉は必ず実現します。
そして神様の言葉には遠く及びませんが、私達の言葉も、良いことにつけ、悪いことにつけ、出来事を起こし、力を発揮します。私達の言葉が、人を励ましたり、喜ばせたり、慰めたり、気づかせ育てたりします。その一方で、私達の口から出た言葉が人を傷つけたり、つまずかせたり、時によっては命を奪うことさえあります。
言葉は、小さな子供でも簡単に使える便利な道具です。そして簡単に使えるからこそ、言葉の使い方には慎重さが求められます。
しかしどんなに慎重に言葉を使おうとしても「善い人は、良いものを入れた倉から良いものを取り出し、悪い人は、悪いものを入れた倉から、悪いものを取り出してくる」(35節)とイエス様が言われているように、自分の倉の中に良いものが入っていなければ、良いものを取り出せないし、良い言葉を口にすることは出来ません。
イエス様が言われた「倉」とは、「私達の心」のことです。心には、自分が大切にしているもの、自分がこれまで集めてきたお宝が、山のように積め込まれています。
それでは、私達のお宝が入っている倉の扉を開けて、何が入っているか確かめてみましょう。物心ついた頃から、否、それ以前から私達が集めたものが、所狭しと積まれています。人がガラクタだと言っても、自分には良いものばかりに見えます。でもこれらのものは、どうやって私達の倉の中、心の中に入ってきたのでしょう。
私達が聞いて、受け入れた言葉を通して、入って来たのです。小さい時は、親から聞いた言葉を通して入ってきますが、年を重ねるごとに、自分の聞きたい言葉だけ、自分が気に入った言葉だけを通して、心の中に集めていきます。そして自分好みの倉を造り上げ、その倉にふさわしいものだけを集めようと、自分が聞きたい言葉だけを更に求めて、聞くようになります。当然、「倉の中にあるのは良いもの、正しいものだ」と自分では思っており、それぞれの価値観、ものさしとなります。でもキリストの使徒パウロはあっさり、こう言います(ローマ書3:10,12)。
「正しい人は一人もいない。・・・・善を行う者はいない。ただの一人もいない」。
人は神様から善い者として造られましたが、アダムが神様の言葉を拒んで以来、神様の言葉を素直に聞けなくなっています。神様の言葉を無視して造り上げた倉が、神様が喜ぶ良い倉であるはずがありません。見上げるような立派な倉でも、それはバベルの塔です。人はそのままでは良い倉にはなれません。 
そのことにパウロは気づきました。パウロは自分の倉に自信を持っていましたが、復活のキリストと出合ったことで、自分の倉が良い倉ではなかったことに気づきました。だから彼は自分の倉に入っていたものを、すべてカラッポにして言います。
「キリストの故に私はすべてを失いましたが、それらをチリあくたと見なしています。キリストを得、キリストの内にいる者と認められるためです」(フィリピ3:8-9)
キリストは神様の言葉です。「言は肉となって、私達の間に宿られた」(ヨハネ1:14)と聖書が証言している通り、キリストは人となった神様の言葉です。愛と力と命がみなぎる神様の言葉です。この神様の言葉・キリストに出会い、キリストによって自分のすべてが満たされることを願ったパウロは、それまで大切に造り上げて来た自分の倉に、もはや何の未練もありません。
私達は自分自身を、神様に喜ばれる良い倉にしたいと願っています。だからこそこうして礼拝で神様の言葉を聞いています。でもそのためには、パウロのように、まず倉の中に入っているものを片付けて、カラッポにする必要があります。自分好みのお宝で一杯の倉のままでは、神様の言葉が入らないからです。神様の言葉は聞いていても、聞き流すだけで、自分の中に受け入れることが出来ないからです。
自分好みのお宝で一杯の倉の前を、神様の言葉が、通り過ぎて行ってしまいます。命と力の言葉、愛の言葉、神様の言葉が、自分の前を過ぎ越して行ってしまいます。毎週、礼拝で神様の言葉を聞きながら、こんなに勿体ないことはありません。
「自分を、神様が喜ばれる良い倉にしたい、自分の言葉を、神様が喜ばれる言葉にしたい」と本気で願うなら、思いきって自分の心をカラッポにして、謙虚に神様の言葉に聞いて、心の奥深くにキリストを受け入れましょう。
礼拝は、神様の言葉・キリストを食べるレストランです。説教では、耳から神様の言葉を食べます。聖餐式では、口から神様の言葉を食べます。礼拝で、私達の全身全霊が、神様の言葉・キリストを聞いて食べます。そして私達が食べた神様の言葉・キリストが私達を、キリストに似た良い倉に、内側から造り上げてくださいます。私達の口から、神様が喜ばれる良い言葉、キリストご自身があふれでるよう、内側からキリストが働いて、私達の心を造り変えてくださいます。
36節以下でイエス様は「自分の話したつまらない言葉についてもすべて、審きの日には責任を取られる」と言っています。「つまらない言葉」とは、つい口に出した軽率な言葉、不注意な言葉のことですが、ここでは「不真実な言葉」と言う意味も込められています。ファリサイ派の人たちは憎しみの余り、イエス様の業を「悪霊の頭ベルゼブルが行った」と、つい言ってしまったのかも知れません。しかしどんな言葉であろうと、口から出た言葉は自分の倉にあったものであり、自分の心の表れである以上、審きの日に、言い逃れは出来ません。
だからイエス様は、審きの日に耐えうるよう、私達に警告してくださるのです。否、警告するだけではなく、毎週、私達を礼拝に招き、神様の言葉であるご自分を食べさせてくださいます。
神様の言葉・キリストご自身が、私達の心に宿ってくださり、私達の永遠の倉となってくださるためです。誰も盗んだり壊せない、神様の御心に適う良い倉です。そこから、神様に信頼する希望の言葉、赦しと愛の言葉、祈りの言葉が出てきます。私達のために十字架で死に、そして復活して、神の右で私達をとりなしてくださるキリストご自身が、私達の口から、私達の全身から、あふれて行きます。
そのことを体験したから、パウロは「生きているのは、もはや私ではありません。キリストが私の内に生きておられるのです」(ガラテヤ2:20)と告白しているのです。
神様の言葉を聞いて、キリストが私達の心に宿ってくださることで、キリストが私達の言葉となり、キリストが私達の人生となってくださいます。それほどまでにキリストは、私達と一つになってくださいます。しかしファリサイ派だけでなく、
イエス様の弟子たちでさえ、神様の言葉を本当に聞いて、宿すことが出来たのは、ペンテコステで聖霊が与えられてからです。だから教会全体で聖霊を求める祈りを、ますます熱く燃やしましょう。聖霊の炎の中で、私達の古い倉がすべて燃え尽きて、十字架の死から甦られたキリストだけが、私達に、教会に、現われますように。
 

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