日本基督教団御殿場教会  United Church of Christ in Japan Gotenba church

心と思いを一つにして

説教

タイトル:「心と思いを一つにして」  
聖書  : 第一コリント1:10-17
年月日 :2010-7-4

現在のギリシャにある町、コリントでパウロはキリストを宣べ伝えていました。
1章2、4、5節に「キリスト・イエスによって」「キリストに結ばれ」とありますが、
原文は「キリストの中で」と言う同じ言葉が使われています。神様はパウロの伝道を
通して「キリストの中に」人々を集めて、キリストと一つに結んでくださったことで、
コリントの町に新しく教会が誕生しました。そして「教会はキリストの体であり、
教会の頭はキリストだ」と、聖書は証言しています。
 「神はまた、すべてのものをキリストの足元に従わせ、キリストをすべてのもの
の上にある頭として教会にお与えになりました。教会はキリストの体であり、
すべてにおいて、すべてを満たしておられる方の満ちておられる場です」
(エフェソ1:23)。
私達の罪の償いとして、ご自分の命を十字架で献げて死に、3日目に復活された
キリスト。このキリストの死と復活を信じて、キリストの体に結ばれた人々の群れが教会です。コリント教会は、パウロが語ったキリストの死と復活を確信し、同じ信仰に支えられて、教会生活をしていました。
 でもパウロの時代は、教会専任の教師はなく、教職を育てる神学校もありません。
パウロもずっとコリント教会に留まっていたのではなくて、各地でキリストを宣べ伝えなくてはならず、やがてコリントを離れます。その後、キリストを宣べ伝える伝道者が、次々とコンリト教会にやってきました。
その代表的な名前が、12節にあります。パウロは新約聖書に多くの手紙を残し、
手紙の中では力強く福音を語っていますが、でも説教はあまり上手ではなかったと
言われています。その点、アポロは、雄弁家で知られた人物でした。コリント教会
の人たちは、知的で優雅に語るアポロの説教に聞き惚れてしまいます。ケファとは
ペトロのことですが、ペトロが実際、コリント教会に来たかどうか分かりませんが、
キリストの弟子だったペトロも人気があったでしょう。確かにカリスマがある人は
魅力的で、伝道にも大きな力を発揮します。そして教会員の間には、人気スターの
ファンクラブのように、次々とお気に入りの説教者、伝道者が出来ていきました。
 すると、キリストの中で一つに結ばれていたはずの教会に、分派活動が始まり、
互いに敵対するようになったのです。このことをパウロに知らせたのは、おそらく
コリント教会の教会員だと思われますが、クロエの家の人たちです。このままでは
せっかく誕生した教会が分裂して、崩壊してしまいます。そのためパウロは、早速
キリストの名によって厳粛に、コリント教会に勧告しています。
 10節「皆、勝手なことを言わず、仲たがいせず、心を一つにし思いを一つにして、
固く結び合いなさい」。
 パウロの言葉から、教会のおおよその状況が想像できます。パウロを持ち上げる
人たち、アポロを持ち上げる人たち、ペトロを持ち上げる人たちがいます。そして
中には「私はキリストに」と言う人たちもいました。一見、正しいように思えますが、
分派の一つですから「私はキリストと話が出来る」などと言って、自分とキリストの
特別な関係や力を誇って、他人を見下す熱狂主義者だったのかも知れません。
 いくつもの分派が、自分たちの言い分を曲げないで、教会の中で火花を散らして
います。自分たちの言い分が通る教会にしようと、互いに言い争っています。でも
争いの焦点になっているのは、人間的な力や魅力の大きさです。こうなると教会は
「キリストに結ばれ、キリストとの交わりを喜ぶ場」ではなく「人間的な力や好みを
張り合う場」になってしまいます。
アポロにしろ、ペトロにしろ、有能で魅力ある人たちです。でもどんなに力ある
人であっても、人の姿がキリストの前に立ちはだかる時、教会の一致は崩されます。
キリスト自身の豊かさではなく、人間的な力や好みを教会に求める時、教会は
教会でなくなります。教会の頭はキリストなのに、頭であるキリストを捨てたら、
ギロチンのように、キリストの体・教会は死んでしまいます。
これはコリント教会だけでなく、今日の教会にも言えることです。教会が「○○
先生の教会、○○さんがいる教会」と呼ばれてしまうように、教会の頭がキリスト
ではなくて、有名な牧師や有名な教会員になっていることが、良くあります。また
有名な牧師や有名な教会員がいることを誇りにして、そのことを宣伝している教会
さえあります。大いなる勘違いです。教会が誇るのはキリストだけです。
コリント教会の場合、「パウロだ、アポロだ、ペトロだ」と、教会に、いくつもの
頭が張りあって並んでいました。そして頭の数だけ、コリント教会が分裂していま
した。それゆえ、キリストの体は一つなのに、「キリストは、いくつにも分けられて
しまったのですか」とパウロは、コリント教会に聞いています。
コリント教会には、パウロを持ち上げる人たちもいましたが、パウロは徹底的に
自分の存在を退けて、キリストにだけスポットライトを当てています。
パウロではなく、キリストが十字架につけられたから、コリント教会の人たちは
罪の赦しを受けたのです。またパウロの名ではなく、キリストの名によって洗礼を
受けたから、彼らはこれまでの古い自分に死んで、キリストと同じ神の子として、
新しく生まれることが赦されたのです。キリストの名によって洗礼を受けたから、
彼らは「死から復活したキリストの体」に結ばれて、キリストの体に満ちあふれる
復活の命を受け取って、養われるのです。
教会の生命線は頭であるキリストです。キリストだけが頭となっているキリスト
の体に結ばれることが、私達に与えられた唯一の救いの道、神の国への道です。
パウロは、そのことを宣べ伝えることだけに集中します。教会の敵だった自分が
キリストの体に結ばれて救われたように、一人でも多くの人がキリストに結ばれて
救われるよう、救い道、福音を告げ知らせることだけに集中します。キリストから
与えられた自分の使命は、福音を告げ知らせることだと、パウロは自覚しています。
14節「クリスポとガイオ以外に、あなたがたの誰にも洗礼を授けなかったことを、
私は神に感謝しています」と言っています。パウロは数人の人にしか、洗礼を授けて
こなかったと言っているわけですが、でもこれは、パウロが洗礼を軽んじていたと
言うことではありません。
 パウロは自分が洗礼を授けた人数を競ったり、自分の手柄にして誇ったりしない
のです。また自分から洗礼を受けた人にも、そのことを自慢させません。こうした
パウロの言葉から、コリント教会では「誰から洗礼を受けたか」、そのことが一種の
ステイタスになっていたことも想像がつきます。
 しかしパウロはキリストの使徒です。福音を語ると言うキリストから与えられた
使命を忠実に果たします。しかも福音を語る時は、人間的な知恵を散りばめたり、
言葉の見栄えに頼ったりしません。もし彼が自分の力を誇り、自分の名誉や人気を
求めるなら、キリストの使徒ではなくなります。教会も同じです。
 どんな違いを持った人たちでも、キリストの体に結ばれることで教会になり、
教会は一致します。しかしキリストとの結び目をほどいて、人間的なものに結ばれ
ようとするなら、教会の一致はなくなり、教会はただのサークルになります。
 パウロはコリント教会に「心を一つにし、思いを一つにして固く結び合いなさい」
と言いました。でも「人間的な心と思い」で、一致することを求めてはいません。
「人間的な心と思いを一つにして、仲良くなれ」とは言っていません。第一そんな
ことはムリです。人の心と思いはたとえ家族であっても、それぞれ違いますから、
そんなことで教会の一致は出来ません。
 コリント教会も、そして私達も、キリストの体の中に集められ、キリストの体に
結ばれて一つにされました。そのキリストの体とは、復活のキリストの体ですが、
また十字架につけられたキリストの体でもあります。
それは、自己中心的な自分の心と思いが十字架にはりつけにされて、完全に
死に絶えたキリストの体です。 自分の心と思いが十字架にはりつけにされて、
ただ「神様の御心だけになったキリストの体」です。
このキリストの体に結ばれる時、私達の自己中心的な心や思いも、十字架に
はりつけにされます。大きな痛みと死です。でも大きな痛みと死の中から「神様の
御心を喜ぶキリストの心と思い」が、私達に生まれます。その時、どんな違いが
あっても、教会はバラバラにならず、キリストの体が一つであるように、教会に
一致が与えられます。キリストの心と思いによって、教会が一つにされます。
 毎週、私達は神様から礼拝に呼ばれています。キリストの体にますます固く結ば
れて、キリストと一つになるためです。そして人間的な心と思いで、教会の一致を
形作るのではなくて、私達がキリストの心と思いによって、教会の一致を目指して
いくようになるためです。私達の教会も未完成な教会です。日毎、キリストと共に
死に、キリストと共に復活して、益々キリストと一つにされていきましょう。

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