日本基督教団御殿場教会  United Church of Christ in Japan Gotenba church

御心が行われますように

説教

タイトル :「御心が行われますように
聖書   : マタイ26:36-46   
年月日  : 2014-6-1  
イエス様と弟子達はゲッセマネに来ると、ご自分が祈っている間、ここに座って
いるよう告げると、祈るために選んだ場に、ペトロとゼベタイの子ヤコブとヨハネ
3人の弟子を伴って行きました。すると突然イエス様は悲しみ、もだえ始めました。
「もだえる」は「不安、心痛で恐れる」が本来の意味です。何とイエス様は強い悲しみ、
不安、恐怖に襲われてビビッているのです。そして3人の弟子に「私は死ぬばかりに
悲しい」と言います。直訳すると「私の霊は深い悲しみで死にそうだ」。イエス様は
ご自分の苦しみを隠しません。さらに自分と共に留まって、目を覚ましているよう
3人に命じています。目を覚ますとは、ただ「起きている」だけではなくて、「油断
しないで注意深くしていること」も含みます。
彼らは、こんなにうろたえているイエス様を見たのは、初めてだったでしょう。
「なんだか良く分からないけれど、イエス様に大変なことが起こっているらしい」。
彼らもそのことは感じて、イエス様に言われた通り「油断しないで目を覚まして、
イエス様を支えよう」と思っていたはずです。
イエス様は少し離れた所で、うつぶせになって祈り始めます。十字架を背負って
イエス様が歩いた道沿いにある教会に、大きな岩に覆いかぶさり、うつむいて祈る
イエス様のレリーフがありました。ゲッセマネで祈っているイエス様の姿です。
祈りの言葉は「父よ、できることなら、この杯を私から過ぎ去らせてください」。
原文では「私の父よ」と呼びかけて祈っています。父なる神様に必死で願っていた
のは、神様から差し出されている杯を飲まないで済むよう、杯を自分の前から過ぎ
去らせて欲しい、勘弁して欲しいと言うことでした。
恐れと悲しみにもだえながら、イエス様が過ぎ去らせて欲しいと、父なる神様に
嘆願している杯とは「神様の怒りの杯、呪いの杯、滅びの杯」です。この杯について
「燃える硫黄を、その杯に注がれる」(詩編11:6)、「お前は飲まねばならぬ。深くて
大きい杯を。お前はあざけられ、侮られる。杯は満ちあふれている。お前は酔いと
悲しみで満たされる。恐れと滅びの杯」(エゼキエル23:32-33)と聖書は記します。
この恐ろしい杯は、アダムに始まる全人類が犯してきた罪に対する神様の怒りで
溢れています。罪の審きとして、グツグツ熱く燃える硫黄のような神様の怒り
の杯を、全人類は飲まなければなりません。けれども神様は人を憐れんで、
怒りの杯を、人にではなく、ご自分の御子に飲ませるのです。
御子イエス様がこの世に来られたのは、全人類の身代わりになって燃えたぎる
怒りの杯を、イエス様お1人で飲むためです。しかも全人類の分の杯を最後
の一滴まで、十字架の上で完全に飲み干すためです。
このイエス様の犠牲により、全人類に罪の赦しが与えられ、更に全人類が神様の
ものとして買い戻されます。これがイエス様に与えられた神様の使命であり、神様
の御心だということは、イエス様ご自身、充分承知しておられます。でも十字架に
つけられる直前、イエス様はサタンから最後の誘惑を受けていました。
「今なら、逃げられますよ。あなたを裏切る連中のために命を捨てるのですか。
本気で彼らの身代わりになって、杯を飲むのですか。怒りの杯は恐ろしいですよ」。
サタンのささやきが、イエス様を迷わせ苦しめます。イエス様は神様の御子です
から、神様の怒りの杯の底知れぬ恐ろしさを知っています。またイエス様は私達と
同じ生身の体をもっているので、神様の怒りの杯を飲む恐怖は半端じゃありません。
だからイエス様は恐怖に震えながら「かつてエジプトにいたイスラエルの民の前を、
死が過ぎ越して行ったように、この恐ろしい怒りの杯が、私の前を過ぎ越して行く
ようにしてください。どうか勘弁してください」と父なる神様に願っているのです。
でも神様の御心は、恐ろしい怒りの杯がイエス様の前を過ぎ越すことでは
ありません。神様の御心は、イエス様が怒りの杯を飲み干すことで、すべて
の人の前を死が過ぎ越すことであり、イエス様がそのための「過ぎ越しの血」
となることです。
だからイエス様は、サタンの誘惑と激しく闘いながら「しかし、私の願いどおり
ではなく、御心のままに」と祈っています。39節のイエス様の祈りは、スムースに
流れる祈りではなく、前半の祈りと、後半の祈りの間には闘いがあります。激しい
闘いの末に、ようやく「御心のままに」と言う、後半の祈りにたどり着きます。
 イエス様はここで祈りを中断して、弟子達の所に行くと、彼らは眠っていました。
御心に従うことができるか。サタンと闘い、恐怖と闘い、瀬戸際に立たされていた
イエス様は、「一緒に祈っていてほしい」と弟子達の祈りの応援も期待していたので
しょう。でも彼らはイエス様の期待に反し眠っていました。だから彼らを起こして
言っています。
 「あなたがたはこのように、わずか一時も私と共に目を覚ましていられなかった
のか。誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていなさい。心は燃えていても肉体は
弱い」。
イエス様を支えようとしていたのに、3人の弟子も情けない思いをしたでしょう。
「心は燃えていても肉体は弱い」。霊は高い志に燃えていても、人は誘惑に弱い生身
の肉体を持っています。それは私達も、弟子達も、イエス様も同じです。でも誘惑
されていたのはイエス様だけではなく、応援団の弟子達も誘惑されていたようです。
イエス様から注意されていたのに、2度目も3度目も、弟子達は眠ってしまいます。
43節の「ひどく眠かったのである」は、直訳すると「彼らの目は重くされていた」。
明らかにサタンの仕業です。弟子達が目を覚まして、イエス様のために祈ることが
出来ないよう、弟子達の目はサタンによって重たくされ、眠らされてしまうのです。
 御心から引き離そうとするサタンの誘惑を退けて、怒りの杯を飲み干す決意をし、
神様の御心に従えるか。神様の御心が行われることを、自由な意志をもって心から
求め願うことが出来るか。
 イエス様が祈るゲッセマネは、静かな祈りの場などではありません。御心の通り
杯を飲むのか、それとも御心と共に杯も拒むのか、すさまじい闘いが行われている
まさに戦場でした。この闘いに、弟子達の応援は期待できません。弟子達はあてに
ならず、イエス様を助けることが出来ません。結局、恐怖にもだえ苦しみながら、
イエス様が一人で闘うしかありません。すべての人の前を神様の審きの杯、怒り
の杯、死の杯が過ぎ越していくために、イエス様は闘いの最前線に、たった
一人で臨みます。
そしてイエス様が、激しい闘いの中で、勝ち取った祈りの言葉。
「父よ、私が飲まない限り、この杯が過ぎ去らないのでしたら、あなたの御心が
行われますように」。
サタンの誘惑を退けて、御心に従う決意がますます固くされるためでしょうか。
イエス様は同じ祈りの言葉をくり返します。神様の怒りの杯を一人で飲み干す。
私達と同じ弱い肉体があるにもかかわらず、「神様の御心のままに死ぬこと」
を祈りきったイエス様は、ゲッセマネで、サタンとの闘いに勝利しました。
自分達のために激しい闘いがあったことも知らないで、弟子達は眠っています。
「あなたがたはまだ眠っている。休んでいる」。原文は「もっと寝ていなさい。休んで
いなさい」になっています。なぜでしょう。イエス様は御心が行われるため、杯を
飲むことを決意しました。弟子達が目を覚まして、イエス様を応援して祈る闘いは
もう済んでいるからです。神様の御心を行うと決意したイエス様は、これから怒り
の杯を飲むために、十字架に向かいます。
 神様の怒りの杯を、十字架のイエス様が私達に代わってすべて飲み干し、「御心を
行ってくださったので、私達が飲むべき怒りの杯はありません。
代わりに神様が私達に差し出しておられるのは「イエス様の血の杯」です。
私達の前を、神様の怒りが過ぎ越していくことを約束する「イエス様の契約
の杯」「聖餐の杯」です。
 この後、聖餐式でイエス様の体と血にあずかります。神様は私達を愛しています。
愛するが故に、神様は私達に怒りの杯ではなく、イエス様の犠牲の血の杯を
飲ませます。「御心が行われますように」と祈りきった勝利者イエス様の血
の杯を飲ませます。サタンの誘惑を退け、神様の御心に従ったイエス様の血が、
私達の中に入ります。勝利者イエス様の血が、私達の体中に行き渡ります。誘惑に
弱い私達ですが、イエス様の血が私達を動かします。そしてイエス様と同じように
「御心が行われることを喜び求め願う者」として、私達を立たせてくれます。
これからも私達は誘惑にあって、神様の御心から外れてしまうかもしれません。
しかし私達の中に宿る勝利者イエス様が、力強く宣言します。「あなたがたには世で
苦難がある。しかし勇気を出しなさい。私は既に世に勝っている」(ヨハネ16:33)
  

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