日本基督教団御殿場教会  United Church of Christ in Japan Gotenba church

御名を呼び求める者

説教

タイトル :「御名を呼び求める者」 
聖書   : ローマ10:5-13   
年月日  : 2020-5-3     
イエス様が来られる前、旧約(きゅうやく)聖書(せいしょ)の時代(じだい)、律法(りっぽう)を守(まも)ることで神様の目に正しい者
とされ、救(すく)いを願(ねが)う人々は律法に従(したが)って生きて来ました。でも律法を完全(かんぜん)に守れる
人など1人もいません。人にとって「律法による救い」は不可能(ふかのう)なのです。だから
神様の御子イエス様が来られて「イエス様を主と信じる信仰による救い」が、
この世に与(あた)えられたのです。「信仰による救い」について、6-7節に、少(すこ)し分(わ)かりに
くいことが書いてあります。
イエス様を信じる信仰者あっても、自分勝手に心の中で「誰(だれ)が天(てん)に上(のぼ)るか」と決(き)め
つけてはならない。それは、天におられるキリストを自分の力で天から引(ひ)き降(おろ)せる
と思いこむことだからです。あるいは「誰が底(そこ)なしの淵(ふち)に降(くだ)るか」と自分で勝手に
決めつけて言ってはならない。それは自分がキリストを、死者の中から引き上げる
と思いこむことだからです。
 つまり6-7節がいう「誰が救われるのか」。これには興味(きょうみ)をそそられますが、でも
それは、人が勝手(かって)に判断(はんだん)することが禁(きん)じられています。人が救いについて、勝手に
判断することは、救い主キリストが死んで陰府に降ったこと、また死から復活して、
天に昇(のぼ)られたことを、人の業(わざ)に貶(おとし)めてしまうからです。キリストによる出来事は、
誰であれ、一切(いっさい)、関与(かんよ)することが赦(ゆる)されておりません。すべてが神様の救い
の出来事(できごと)であり、神様が主導権(しゅどうけん)(イニシアチブ)をもつ神様の御業(みわざ)だからです。
 キリストを信じる信仰者が、自分の救いを確(たし)めようとして、自分で神様の聖域(せいいき)や
神様の領域(りょういき)を踏(ふ)みあらす必要(ひつよう)はないのです。そのために8節で言っています。
「御言葉は、あなたの(ごく)近(ちか)くにあり、あなたの口、あなたの心にある
(のだから、それを行(おこな)うことができる)」(申(しん)命記(めいき)30:14からの引用(いんよう))。
 信仰者が神様の聖域(せいいき)を犯(おか)すことなく、神様に救われている恵みをもっと感謝(かんしゃ)し
讃美(さんび)できるように、また神様から与えられた信仰と救いの確信(かくしん)を、人々に向かって
さらに豊(ゆた)かに宣(の)べ伝(つた)えることできるように「御言(みことば)が、信仰者の口と心に、すでに
備(そな)えられている」と、8節は言っているのです。
信仰者の口と心に備えられている御言。それは苦難(くなん)の中でもパウロたちがいつも
宣べ伝えていた「信仰の言葉」であり、主イエス・キリストご自身(じしん)のことです。
信仰の言葉、神様の言であるキリストが、私達の口と心に共にいてくださる。
神様の救いに欠(か)かせない大事(だいじ)なものなのに、その価値(かち)も尊(とうと)さも、わきまえていない
人の口と心の中、汚(よご)れた私達の口と心の中に、神様が大胆(だいたん)に備(そな)えてくださいました。
キリストへの信仰が日々(ひび)新(あらた)にされ、ますます信仰が深められ、確(たし)かにされる
ようにと、信仰の言葉、神の言(ことば)・キリストを、聖霊(せいれい)と共(とも)に、私達の口と心
の中に、また1人1人の口と心の中に、神様が備えていてくだいました。
 そして「キリストを主と信じる信仰の言葉」を自分の口で公(おおやけ)に言い表し、「神が
イエスを死者の中から復活させられた」と自分の心の中で確信(かくしん)するなら、「あなた
は救われる」と9節は言っています。これを念押(ねんお)しするように、10節でも「実に、
人は心で信じて義とされ(神様から良しとされる)、口で公に言い表して救われるの
です」と言っています。これは形(かたち)だけのことではなくて、私達の信仰生活にとって、
実際(じっさい)、自分たちが思っている以上(いじょう)に大切(たいせつ)なことです。
 9-10節の内容(ないよう)は、言い換(か)えると「信仰と生活の一致(いっち)」ということです。信仰を
自分の心の中に隠(かく)しておいて、生活には表(あらわ)さない。そういう人もいます。日本では
キリストを信じることが禁(きん)じられていた時代(じだい)もありましたが、今は、信仰の自由が
憲法(けんぽう)で認(みと)められています。それでも教会に行っていることを、親戚(しんせき)や近所(きんじょ)の人には
知られたくない。そういう人も少なくない。ある本に、こう書いてありました。
 「家庭(かてい)と職場(しょくば)で、信仰は持たず、用(もち)いず、持ちこまず」。(「悪魔(あくま)の格言(かくげん)」より)
「神様がキリストを死から復活させた。私は復活のキリストと信仰によって、
1つに結(むす)ばれている」と心で信じ、口で表すのは、教会の中だけでなく、家庭は勿論(もちろん)、
職場(しょくば)や地域(ちいき)など、生活全体で具体的(ぐたいてき)に表していくことで、キリストを信じる信仰は
人の心だけに留(とど)まらず、その人の体(からだ)全体(ぜんたい)、全生涯(ぜんしょうがい)にハッキリと表(あらわ)れて行きます。
キリストへの信仰を心で信じて、口でも体でも公に表すことで、私達の心と
体が、バラバラではなくて、キリストを信じる信仰によってガッチリ1つに
されていきます。
信仰を公に告白して表すことで、心と体が信仰に包まれ、1つにまとめられます。
そして信仰を「告白する」という時に使う言葉(ホモロゲオー)の元々(もともと)の意味(いみ)は、
「同じことを言う、認(みと)める、承認(しょうにん)する、讃美(さんび)する」なのです。私達は礼拝の中で
使徒(しと)信条(しんじょう)やニカイア信条を告白しています。でもそれは惰性(だせい)ですることではない。
神様によって呼(よ)び集(あつ)められた人達が、信仰について、同じことを言う、アーメンと
言い、認め合う、そして共に信仰を告白したお方について皆で讃美することが
何よりも大切なのです。讃美が伴(ともな)わない告白なんて、無意味(むいみ)。死んだ言葉
です。
信仰者にとって、この世で何を行い、どんなことを言うのか、それらはすべて、
信仰の事柄(ことがら)です。特(とく)に教会の中(キリストの体の中)では、どんな小さなことでも、
神様に関(かん)する信仰の事柄です。教会では勿論の事、残りの生涯で、何を言い、何を
行うにしても、まず神様への讃美があふれるものであってほしい。神様への讃美が
中心にある信仰であり、礼拝であり、どんな時でもキリストを目に前にして生きる
人生であってほしい。神様への讃美が日々、私達の生活、人生に与えられ、なだれ
こんできたら、どれほどすばらしいことか。
キリストを死から復活させた神様への確信(かくしん)と愛、心からの讃美を言い表すことで、
私達の心と体が調和(ちょうわ)して、穏(おだ)やかだけど力強く命の希望(きぼう)に満(み)ちて働(はたら)き出す。これが
「救われる」と言うことではないでしょうか。この世界がどれほど悲惨(ひさん)でも、自分
の目の前にある世界よりも、はるかにリアルで、確かな神様の救いの真実(しんじつ)を信じて、
たくましく生き抜き、神様を讃美する「神様の命の力」が、信仰を告白する人々に
必(かなら)ず与えられます。このことを困難(こんなん)な伝道の日々の中で、いつも体験(たいけん)していたから、
パウロは「主を信じる者は、誰も失望(しつぼう)することがない」と言ったのです(11節)。 
 ユダヤ人であれ、ギリシャ人であれ、神様が創(つく)られた人々を、区別(くべつ)することなく
救うために、キリストは十字架(じゅうじか)の祭壇(さいだん)でご自分を「いけにえ」として献(ささ)げ尽(つ)くして
くださいました。だから今や、すべての人にとってキリストこそが、救い主です。
まだキリストを知らない人、無視(むし)している人が大勢(おおぜい)います。それでもキリストは、
「すべての人のための救い主」となってくださいました。そして何らかの形で、
救い主キリストに目覚(めざ)めた人、ご自分を呼(よ)び求(もと)めるすべての人、どんな人であれ、
キリストは豊(ゆた)かにお恵(めぐ)みになります。「すべての人の救い主イエス・キリスト、私を
憐(あわ)れんでください。私を助けてください。私を救ってください」と心から主を呼び
求める声を、キリストは無視(むし)しないし、見捨(みす)てません。だから13節は言います。
 「主の名を呼び求める者は、誰でも救われるのです」。 
何と大胆(だいたん)な救いでしょう。いつから信仰者だったかとか、どれだけ聖書を読んだ
とか、そんなことは問(と)われていない。ただ真剣(しんけん)に、ひたすらキリストの救いを信じ、
求めて、キリストの御名(みな)を呼べばいい。
私達がどこにも逃(に)げ道のない崖(がけ)っ淵(ぷち)に立たされていても、尚(なお)、救いを呼び
求めることを赦(ゆる)してくださる方が私達にはいる。私達が神様の救いに対して、
どれほど不遜(ふそん)で、横柄(おうへい)であったか恥(はじ)いるばかりなのに、それでも私達が救い
を求めて、主の御名をひたすら呼ばわることを願い、欲(ほっ)して喜んでくださる
方が、私達にはいる。確かな救いの手を差し伸べてくださる方が、私達には
いる。何という幸(さいわ)いだろう。この方こそが、私達の真(まこと)の救い主、イエス・
キリストなのだ。
 私達が救われることを、切(せつ)に願(ねが)っていてくださる方、救い主キリストがいます。
ご自分のすべてに代(か)えても、私達を本気で救い、私達を限りなく愛してくださる方、
救い主キリストがいます。このことに目覚めたら、主イエス・キリストに、心からの
信頼(しんらい)を献(ささ)げずにはいられない。救い主キリストを心から愛し、真実(しんじつ)な感謝(かんしゃ)を献(ささ)げず
にはいられない。救い主キリストの御名(みな)に、喜(よろこ)びの讃美(さんび)を献(ささ)げずにはいられない。
私達に残されている人生のすべてにおいて、主を全身(ぜんしん)全霊(ぜんれい)で信じて、主の御名を、
主イエス・キリストを、この世に向かって告白せずにはいられない。
  「私にたずねようとしない者にも、私は、たずね出される者となり、
私を求めようとしない者にも、見いだされる者となった。
私の名を呼ばない民にも、私はここにいる、ここにいる、と言った。
反逆(はんぎゃく)の民、思いのままに良くない道を歩く民に、
絶(た)えることなく、手を差(さ)し伸(の)べてきた」(イザヤ65:1)

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