日本基督教団御殿場教会  United Church of Christ in Japan Gotenba church

強く、雄々しくあれ

タイトル :「強く、雄々しくあれ」   
聖書   : ヨシュア記1:1-9  
年月日  : 2015-5-31
特記事項 :

 エジプトからイスラエルの民を脱出させ、40年の荒野の旅をしてきたモーセは、カナンを見渡すだけで、その手前で死にました。モーセの後継者と定められたのは、ヨシュアです。ヨシュアはカナンに入ってから、民を導いていきます。神様に聞き従いながら民を導く務めが、モーセからヨシュアにバトンタッチされたのですが、2人の間には、明確な区別があることを、1節は語っています。「主の僕モーセ」と「モーセの従者、ヌンの子、ヨシュア」と言う言い方です。「モーセが神様の僕」であるのに対して、「ヨシュアは、神様の僕であるモーセの従者」だと言うことです。
 つまりヨシュアは、今は亡きモーセの言葉や教えに忠実に聞き従うことを通して、神様に仕えていきます。従ってヨシュアには、まず第一に、神様がモーセを通して与えた教えや律法に忠実であることが求められています。
 2人にはこのような違いがありますが、しかしイスラエルの民がカナンに入って、定住する時の指導者として、神様はヨシュアにも2節以下のように親しく語りかけ、なすべきことを教えて、ヨシュアを支えてくださいます。
 2節以下で神様はヨシュアに、イスラエルの民と共にヨルダン川を渡りカナンに入ること。そしてユーフラテス川から地中海に至る広い土地を、イスラエルの領土とすると約束しています。とは言え、イスラエルの民を全員、無事にヨルダン川を渡らせなくてはならないし、川を渡れば、そこには先住民がいるので、行く先々で闘いが起こるでしょう。イスラエルの民が、カナンの土地に定住するまでに、多くの困難が待ち構えていることは、簡単に想像がつきます。
 モーセからヨシュアに、バトンが渡されたように、私達の社会も、団塊の世代が引退して、世代交代が進んでいます。新しくバトンを渡された人は、余りの責任の重さに不安や恐ろしさを感じ、時には逃げ出したくなります。ヨシュアも例外ではなかったでしょう。
 でも神様は「一生、ヨシュアの行く手をはばむ者はなく、どんな困難があっても、必ずヨシュアが約束の土地カナンを、イスラエルの民に受け継がせる当事者になる」と告げて、「強く、雄々しくあれ」と、6節、7節、9節で、くりかえしヨシュアに命じています。これから入る土地で何が起こるか、全く分からないのに、たった今新しくバトンを渡されたばかりのヨシュアに「強く、雄々しくあれ」と命じるなんて「ムチャだ、ひどすぎる」と、ついヨシュアに同情したくなります。
 しかし神様は何の根拠もなく、ヨシュアに「強く、雄々しくあれ」と命じたわけではありません。イスラエルの民がエジプトを脱出して、40年の荒野の旅を経て、カナンに来るまで、神様はいつもモーセと共におられました。
 モーセの時と同じように、神様は「ヨシュアといつも共にいて、何が起きようとヨシュアを見放すことも、見捨てることもしない」と、宣言してくださるのです。モーセからヨシュアへと世代交代しても、神様の愛と導きは、何ら変わることなく、これからも続いていきます。
 「私もモーセのように立派な人間じゃない。経験も浅いし、知恵も足りない。だから強く、雄々しくあれと言われたって、できない」。ヨシュアはそう思っていたかもしれません。私達も、神様から「強く、雄々しくあれ」と言われたら、「弱さや貧しさを抱えているから、そんなことできない」と文句を言うかもしれません。
 しかしヨシュアにしろ、私達にしろ、自分の力で「強く雄々しく」なるわけではないのです。経験や知恵や力が足りない。弱く貧しい。それでも構わないのです。神様は、「うんと頑張って、自信を持て」と言っているわけではないのです。&br: 神様がいつも共にいてくださるから、モーセのように立派じゃなくても「強く雄々しく」なれる。何があっても、神様は見放すことも、見捨てることもしないから、そんなに弱く貧しくても、「強く雄々しく」生きることができるのです。
 「強く、雄々しく」なれる理由、「うろたえたり、おののいたりしない」理由は、人にあるのではなく、神様にあります。この点を忘れないでください。
 「あなたと共にいる。あなたを見放すことも見捨てることもしない」と宣言してくださる神様の愛
神様の愛が、ヨシュアをまた私達を「強く雄々しく」させて、様々な困難に出会った時でも「うろたえたり、おののいたりしない」ようガッチリ守り、支えてくださるのです。
 ここでヨシュアを含む、すべての信仰者に問われてくるのは、「あなたと共にいる。あなたを決して見放すことも見捨てることもしない」と言ってくださる神様の愛に私達信仰者は、心から信頼して生きていけるか。全面的に私達を支えて、最善へと導いてくださる神様の愛に、頼り切って(依存して)、日々、私達は生活していけるか、と言うことです。
 神様の愛に信頼して生活できるか、その試金石として、ヨシュアの前に置かれているのが、モーセを通して神様が与えた律法、神様の御心が記されている律法です。申命記などを見ますと、たくさんの律法が出てきますが、基本は十戒です。多くの律法は、基本である十戒に集約されます。
 そして十戒の中に込められている神様の御心とは、愛です。神様がイスラエルを愛して与えた十戒、律法に聞き従って、生活するかどうか。そのことで、神様の愛に信頼して生きているかどうかが、問われてくるのです。
 そこで神様はヨシュアに、モーセが語って聞かせた律法をカナンに入ってからも、「すべて忠実に守り、右にも左にもそれてはならない」と命じており、律法に聞き従うなら、「あなたはどこに行っても成功する」(7節)と約束されました。
 さらに神様は「この律法の書をあなたの口から離すことなく、昼も夜も口ずさみ、そこに書かれていることをすべて、忠実に守りなさい。そうすれば、あなたは行く先々で栄え、成功する」(8節)とくりかえしヨシュアに念押ししています。
 神様に命じられた通り、いつでも律法を口にしているヨシュアの姿を想像します。彼の口から漏れてくる律法の言葉を、周りの人々は当然、聞いたでしょう。それはやがて、民全体に広がって行ったことでしょう。
 でも7-8節だけをさらりと読んでしまうと、「律法さえ守っていれば、快適な生活、成功した人生が約束される」と思われるかも知れませんが、思い出してください。重箱の隅をつつくように律法を守って生活していたファリサイ派や神殿関係者は、イエス様に対し「労働が禁じられて安息日に病人を癒すのは、律法違反だ」と攻撃していました。彼らは律法を守ることだけに熱心なガチガチの律法主義者です。そしてイエス様はそういう律法主義者を「偽善者」と呼んで、鋭く批判していました。彼らは律法を守っていましたが、律法が示しているのは神様の愛だということには気づかず、「神様の愛に従い、神様の愛を生きよう」とはしなかったのです。
 律法と神様の愛。一見、つながらないように見えます。でも神様は愛するが故に人が迷子にならず、正しい道を歩いて欲しいと願い、必死でくりかえし呼びかけて警告します。だから今、ヨシュアは、「律法を忠実に守ることを通して、神様の愛に信頼しなさい。そうすれば強く雄々しく生きられる」と神様に言われているのです。
 「いかに幸いなことか。神に逆らう者の計らいに従って歩まず、罪ある者の道を留まらず、倣慢な者と共にあらず、主の教えを愛し、その教えを昼も夜も口ずさむ人。その人は流れの辺に植えられた木。時が巡り来れば実を結び、葉も萎れることがない。その人のすることはすべて繁栄を齎す」(詩1:1-3、ヨシュアへの暗示か)。
 神様が言う「強く雄々しくあれ」とは、英雄のような華々しい強さではありません。世間から誤解され、バカにされ、笑われようとも、神様の愛にとことん信頼して神様と共にあり、神様の御心に従って、愚直に生き続ける【真っすぐな強さ】です。
 その意味で「強く、雄々しくある」ことの本物の姿を、イエス様は十字架上で、明らかにしてくださいました。神様の愛に信頼し、神様の御心に従い通した十字架のイエス様は「神様の愛そのもの」であり、本物の「強さ雄々しさ」であり、また「インマヌエルの主」として私達と共にいて、天に向けて私達を導いてくださいます。
 十字架のイエス様を見上げて「神様が共にいて守ってくださる。神様の愛の中で自分は生かされている」と神様の愛を確信する時、おののく思いは消え去ります。そして希望と共に、イエス様の「強さ、雄々しさ」に導かれ、従って行きます。

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