日本基督教団御殿場教会  United Church of Christ in Japan Gotenba church

弟子の足を洗う

説教

タイトル :「弟子の足を洗う
聖書   : ヨハネ13:1-20
年月日  : 2018-5-6
過越祭の前日の出来事が、13章から17章まで語られています。長い1日です。
ヨハネ福音書では、過越祭に、ほふられる羊を、十字架のイエス様に例えています。
そのためイエス様が十字架で死ぬのは過越祭の日であり、13日の食事は他の福音書
のように、過越祭の食事ではなく、普通の食事です。
イエス様は父なる神様のもとに帰る時が来たことを悟り、自分が去った後、この
世に残される弟子達をこの上なく愛されました。「この上なく」と訳された言葉は、
「最後まで・究極まで」と言う意味です。頼りない弟子達はもとより、地上で生きる
すべての信仰者、私達をも、イエス様は限りなく愛しぬいてくださるのです。
 夕食の時、悪魔が弟子の1人ユダに、イエス様への裏切りの思いを入れています。
この時、イエス様が上着を脱ぎ、手ぬぐいを腰にまき、たらいに水を入れ、弟子達
の足を洗いはじめました。「弟子達の足をイエス様が洗う場面」は、他の福音書には
なく、ヨハネ福音書独自のものです。
人の足を身を屈めて洗う。当時、それは最も卑しい仕事で、奴隷がしていました。
ユダヤ人は、ユダヤ人奴隷にはさせず外国人奴隷にさせていたほどです。それほど
卑しく、忌み嫌われる奴隷の仕事を、今イエス様が、弟子達のためにしています。
 聖書には詳しいことは書いてありませんが、驚きのあまり、食事の手も止めて、
弟子達はイエス様を見つめていたでしょう。「なぜこんなことを、イエス様がされる
のだろう」と思いながら、誰もそれを口にできません。触りたくもない、ゴツゴツ
した大人の男の足です。それなのにイエス様は弟子の前にひざまずき、1人1人の
足をていねいに洗い、洗い終わると手ぬぐいで足をふいてくださいます。皆さんも
想像してください。自分の前にイエス様が身を屈め、私達の足を手に取り、洗って
くださる場面を。とんでもないことです。弟子達も全く同じ気持ちだったはずです。
しかし「なぜですか」と言うこともできず、恐る恐るイエス様に、足を差し出して
いたのでしょう。張りつめた空気が伝わってきます。でもペトロの番になった時、
張りつめた空気を破り、ペトロが口を開きました。「主よ、あなたが私の足を洗って
くださるのですか」。
 これに対してイエス様は「私のしていることは、今あなたには分かるまいが、後
で分かるようになる」とだけ答えました。つまりイエス様の十字架と復活の出来事
の後、ペンテコステの日に弟子達に聖霊が降ることで、イエス様がなさった
御業やイエス様が語った言葉の中に隠されている「神様の救いの事実」を、
弟子達はようやく分かるようにされるのです。イエス様から、「後で分かる」と
言われても、ペトロは引き下がりませんでした。心から尊敬しているイエス様が、
奴隷のように自分の足を洗う姿なんて見たくもなかったので、ペトロは断固として
拒みました。
するとイエス様は、「もし私があなたの足を洗わないなら、あなたは私と何の関わ
りもないことになる」と答えました。それは困ります。それは絶対にイヤです。あ
わててパウロは催促しています。「主よ、足だけでなく、手も頭も」。
 ペトロの単純さに思わずほほえみ、イエス様は顔を上げ、彼を見ながら言ったの
でしょう。「既に体を洗った者は、全身が清いのだから、足だけ洗えばよい」。ここ
を分かりやすく言いますと「水浴びをして体を洗った者は、全身がきれいになって
いるから、足だけを洗えばいい」ということです。当時の習慣で人の家を訪問する
時、水浴びをして体を洗って出かけました。でも乾燥した砂地をサンダルで歩けば
すぐ足は砂だらけで汚れます。私達もシャワーを浴びて、全身をキレイにしても、
風呂場から出たとたん足は床につきます。かといって宙に浮いたまま生活できない
わけですから、どうしても私達の足は汚れてしまいます。
 立って歩く以上、床や地に触れて汚れてしまう足(靴をはいているから汚れないと
言っても、一日中はいた靴の中や足は雑菌だらけ)。足は、この世で生きていく時、
どうしても罪に触れて、自分を汚してしまう私達のことを象徴するかのようです。
だからこそイエス様は、罪に触れずには生きられない弟子達、そして私達の足を、
みずから、ていねいに洗って清めてくださるのです。
 ただ11節で、イエス様はご自分を裏切る者がいることを知っていたので、「皆が
清いわけではない」と言っています。イエス様が、自分の汚れた足が洗ってくださ
ることに、何の関心も感動もないまま、イエス様を裏切ってしまう弟子、それは、
ユダのことです。これを知りながら、イエス様はユダの足も洗って席につきました。
そして弟子達に言っています。14節以下。
「主であり、師である私が、あなたがたの足を洗ったのだから、あなたがたも
互いに足を洗い合わなければならない。私があなたがたにした通りに、
あなたがたもするようにと、模範を示したのである」。
 イエス様は弟子達の足を洗うという、最も卑しい奴隷の仕事を行って、弟子達に
仕えてくださいました。イエス様は弟子達にとって「主であり師」であるお方です。
その方が、みずから模範を示したと言われました。その模範とはなんでしょうか。
「互いに足を洗い合いなさい」と言ったように「謙虚にすべての人に仕えなさい」
ということでしょうか。勿論それもあるでしょう。でもイエス様が、弟子達の足を
洗ったのは、十字架につけられる前の日です。なぜイエス様は、命も御子としての
栄光もすべて十字架で献げるのか。そこに目に留めると、イエス様が示したのは、
単なる「謙虚さ」の模範ではなくて、「それ以上のこと」だったはずです。
 イエス様は、弟子のユダがご自分を裏切ることをご存知でした。ユダの裏切りを
知っていたのに、それでもイエス様は、ユダの足を他の弟子達と同じように、洗い
ました。イエス様に足を洗ってもらう価値もないのに、イエス様はご自分を裏切る
者の前でひざを屈め、奴隷のようにへりくだり、ユダの足をていねいに洗いました。
ユダの裏切りを知っていましたが、それでもイエス様はユダの罪を清めよう
と、奴隷のようにへりくだって、彼の足を素手で洗い、ユダに仕えました。
この姿はすべての人の罪の赦しのため、十字架につけられたイエス様の姿に
重なります。
イエス様は、お気に入りの弟子の足だけを洗ったのではありません。イエス様に
仕えてもらう価値も資格もない者、裏切る者、罪人の足をも、分け隔てしないで、
イエス様は洗いました。すなわちイエス様は、すべての人の罪が赦されるために、
何一つ惜しまず、ご自分を罪の赦しの代価として献げます。そして「神に呪われた
者のしるし・十字架」につけられ、罪人の汚名を着たまま、何の言い訳もしないで
死んで行きます。「なぜイエス様は、罪人のためにそこまでするのか」。
愛しているからです。人は皆、罪人です。そして神様は、すべての罪人を
愛して完全な罪の赦しを願っています。イエス様は神様と1つです。だから
イエス様もまた罪人を愛して、すべての罪の赦しのためにご自分のすべてを
十字架で献げて、奴隷より、もっと低くへりくだり、救う価値も資格もない
罪人に仕えます。これが、弟子達にイエス様が示した「十字架の愛の奉仕」、
「愛と赦しの模範」です。
足を洗うことを拒んだペトロに「足を洗わないと私の何の関わりもなくなる」と
イエス様が言ったのは「十字架の愛の奉仕」がなければ、誰も救われないからです。
ユダはイエス様の愛の奉仕を受けましたが、彼はイエス様から離れ、罪を犯します。
でもイエス様に罪の赦しを求めず、命を絶ち、自分で自分の罪の決着をつけました。
罪の決着をつけるのは神様で、人ではない。ユダは最後まで神様に背いたのです。
18節で、弟子の中に裏切り者がいることを、イエス様は予告しています。それは
ユダの裏切りが分かった時、イエス様が「私はある」(あってあるもの、永遠に存在
するもの、神様に等しいもの)だと、弟子達が信じるようになるためでした。
イエス様は弟子達に模範を示して「互いに足を洗い合いなさい」と命じました。
それは「私が十字架で、あなたがたを愛し、赦して、仕えたように、あなた
たちも、互いに愛と赦しのために、仕え合いなさい」ということです。
これは、へりくだること無しにはできません。でも私達の愛の赦しの奉仕が常に
相手に受け入れられるとは限りません。心から尽くしても、無視され、拒絶されて、
ガックリ落ち込むだけかも知れない。だからイエス様は言います。
「はっきり言っておく。僕は主人に優らず、遣わされた者は遣わした者に優りは
しない。このことが分かり、その通りに実行するなら幸いである」(16-17節)。
 イエス様は主人で、私達は僕です。私達を世に遣わすのはイエス様です。私達は
イエス様の派遣社員。例え寝たきりでも私達は、生涯イエス様に倣う派遣社員です。
主人であるイエス様が、最初にへりくだり、裏切り者の足を洗ったのです。私達は
イエス様に優る者ではないから、相手に仕えるのが苦手なのは当然です。それでも
イエス様の模範に倣って尚も生きるなら、私達は「幸いだ」と言っていただける。
何より今イエス様は、目の前に跪き、私達の足を洗っておられる。水ではなく、
十字架の血で私達の罪の足を洗って、清めてくださる。また手ぬぐいではなくて、
十字架の傷痕のある両手で、イエス様は私達の足をぬぐってくださるのです。
 イエス様に従って、愛するためにへりくだって仕えることは、卑しいこと
ではありません。
愛するためにへりくだって仕えることは、私達がイエス様を信じ、神様を
信じていることの証です。
そのことは、まさしく「私達がイエス様に属し、神様に属し、天に属して
いる」ことの、慰めと希望に満ちた証でもあります。

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